第109話 龍現ふたり
文字数 5,572文字
「・・・私、本当は。全部、放り投げて来たの。全部よ」
万が一自分が戻らなかったらと雉鳩に分厚い資料と総家令の鍵を渡してきた。
これからの行く末を何通りか描いた青写真と総家令が開けることの出来る宮城の全ての部屋の鍵。総家令達の日記が収められた木箱の鍵。
雉鳩は頭を抱えたが、やはり、白鴎と同じように、好きにしろ、と言って送り出してくれた。
「良かった。真鶴お姉様には淡雪先生がいてくれたのね」
この誰をも惹きつけてやまない彼女が寂しくしている姿なんて有りえないけれど、それでも彼女に伴侶と呼べる人がいたのは嬉しかった。
「でも、淡雪はもう居ないのよ」
だから、代わりに自分が欲しいというのだろうか。
この人らしい。
私の代わりが淡雪だと言いたいのだろが、そうではない。逆だ。
最初はそうだったかもしれない。でも今となっては淡雪が恋しくて、孔雀を欲しがる。
でもこの姉弟子の事だ。自分の意に染まぬとなれば、この身ひとつで済むわけがない。
それにしても、真鶴を取り巻く想像以上の潤沢な資金、広範囲の情報網。
一体、どうやって。
孔雀が思い当たるのは、確かにヘルメスの組織的なものと、あとは、アカデミーだ。真鶴はアカデミーに多大な貢献をした事によって、とても若いうちから数人しかいないアカデミー特別委員になっていた。
知識を志すものに広く門戸を開放し、才能ある者には望む全てを与える事が信条のあの組織は、その対象が優秀であれば、犯罪者でも悪魔にでも力を貸すだろう。
恐ろしい事だ。そんな人間と、ヘルメスの人間が共感した。
アカデミーの教授達の多くが、シンパなのではないだろうかとすら思う。
彼らが孔雀の前で、よく淡雪と旅先で会ったなどと話題にしたのもフェイクだったのではないか。
もう、その頃、彼は死んでいたのではないか。
ヘルメスという意識体の恐ろしさにため息が出る。
そう思っているうちに習慣になり、文化になり、宗教になり、歪んだ正義になる。
家令はそのうち、抹殺されるのではないか。
孔雀は不安を感じた。
総家令としてここまで生きてこれたのは、確かに、途中までは真鶴のお陰なのだ。
きっと、あの姉弟子はどこか高みから見つけてくれる。自分も同じとはいかなくても、少しでも高く昇れば、姿くらいは見えるかもしれない、そう信じていた。
まだ二十歳にも満たない小娘が、心の拠り所にしていたのは間違いない。
自分よりずっと年かさの人間達、母親より父親よりも、祖母より祖父よりも。そんな元老院だの議員だの貴族だの、ギルドだの。
そんなの小娘にとったらどうでもいい肩書きの人間達から罵声を浴び、陰湿な計略を仕掛けられても。継室から疎まれようと、女官から怨恨めいた視線を向けられても、軍において限界を超えた訓練や、凄惨な前線の戦闘の場においても、外交の場で二百を超す人間に責め立てられても、孔雀は平気だったのだ。
真鶴にいつかたどり着くと決めていたし、姉弟子や兄弟子がいてくれたから。
「・・・瑠璃鶲お姉様と、川蝉お兄様が亡くなったの・・・」
親しい姉弟子や兄弟子を看取らねばならない。それは総家令の義務だ。
二人とも苦しんで死んだ。まるで呪いのように。
それだけが、辛くて怖くて仕方なかった。
苦しんでいる兄弟子や姉弟子を厭う程に、憎む瞬間がある程に、辛い姿だった。
戦場で数えきれぬ人間を殺してきた自分が何を怯えるのだろうと思えば思うほど、怖くて悲しかった。
梟がいつかわかると言ったように、あの小部屋の総家令達の日記の入った箱の前の床のそこだけ磨り減った床に自分も足をつけて、立ったり座ったり、うなだれて泣いたりしていた日々のなんと多かった事か。今までの総家令もそうしてきたように。
しかし、瑠璃鶲が死んだ後、帰還したはずの孔雀の姿が見えないと心配した翡翠があの小部屋を見つけたのだ。
これ棚じゃないのか、と驚いた様子だったが、その中でめそめそ
「翡翠様がいつも慰めてくださった。・・・あなたはいなかったわ」
孔雀が顔を覆った。
「いなかったのよ。私が、あなたが淡雪先生を亡くして寂しい時に、そばにいれなかったように。それは、私たちが受け入れなければならないこと」
道はもう
「ねぇ、孔雀。私は、そう、結構いろんな事を知ってる。城であちこち
真鶴が孔雀の頬を両手で包んだ。
懐かしい青菫色の瞳が真っ直ぐ見返して来る。
別れより今まで、この妹弟子に何が起きたのか大体把握はしていたけれど、彼女の内面世界に果たして何が起きたのか等、想像もしなかった。
それは自分にとって必要ではなかったから。
おとなになったと言ったが、確かにそう。
華やかで
真鶴はその逞しさを喜び、そして疎ましく思った。
もう、自分は必要ではないのか。
子供っぽい悲しさが、恨みや怒りに変わるほんの少し前に、孔雀な真鶴の首に手を回して抱きしめた。
「・・・私達が一緒にいれない理由などいくらでもある。でも、真鶴お姉様、私の近くにいて。もうどこにも行かないで」
孔雀はべそをかきはじめた。
泣いているのは多分、小さい頃の自分だ。
真鶴に置いて行かれて、寄る辺ない日々をただ泣き暮らしていた頃の。
真鶴は決めかねているかのように、ため息をついた。
即断即決、いるものよりいらないものが多く、いらいものなど未練なく放り出す彼女の初めて見る戸惑い。
「真鶴お姉様。・・・翡翠様が私を総家令にしたのは、真鶴お姉様への嫌がらせとか、錯乱したからとかじゃないのよ。お城の人が言うように、小娘に
真鶴はじっと孔雀を見つめた。
「翡翠様は、三年で、政権を新政府に移譲されるおつもりだった。ほとんど放り出すようなやり方で。皇帝とそれに連なる王族のお持ち物全て、お身柄も新政府に預けるという担保です。そんなものどうなるかなんてわかっていて。誰もが納得する方法だって。何で私だったかは、私が子供だったから。家令の成人は十五だけど。本来一般人の成人は二十歳。あの時、三年たったら私は十八。未成年は刑を免れるかもしれないからというお考えだったの」
翡翠は国のあり方を変えようとしたのだ。
極端に言えば、形だけをすっかり変えるためならクーデターでもいい。
その際、罪に問われるのは、皇帝と近しい王族、そして総家令、家令達。皇帝と総家令の重刑は免がれないだろうと。
その時に、孔雀がまたこどもなら、酌量の余地はあると。
皇帝によって半ば公式寵姫のようにして総家令にされたとなれば尚都合がいい。
孔雀はそれを聞いて、茫然とした。子供、それが何だ。家令なら成人だ。それに足ように教育されていた。自分よりも年嵩の姉弟子や兄弟子なら逆に激昂したかもしれない、悲嘆に暮れたかもしれない。そうではなかった自分はやっぱりそう、子供だったのだろう。
放り出すにしても、どう考えても三年では無理である事、どうか五年下さいと頼み込んだのだ。
総家令の日記をあれこれ引っ張り出して、翡翠に見せた。
歴代の総家令達が、あらゆる可能性を考慮して、その時々に応じた雛形を残していたのだ。
それは、総じて注釈付きの。なるだけ噛み砕いた言葉、まるでまだ子供の孔雀がこれを読むとわかっているかのように言って聞かせるように。お前も大変だと思うけれど、辛いこともあろうけれど、どうか挫けぬようにと、それぞれの思いが書き込まれてあったのだ。
翡翠は悠長にしていては孔雀が成人の年になってしまうと渋ったが、初代の総家令である鶺鴒の、もはや文化財のように古めかしい日記に、総家令の務めとしてという箇条書きの中に、皇帝が自らの意思で権威を他に移譲する場合速やかに努めよ、という一文を見て、決心したようだった。
「私、それで翡翠様が刑だの罪だのに問われて、私もそうなるとしたらそれで構わないと申し上げました。・・・まあ結局、五年どころか十年かかってもまだ片付か無いことばかりです。・・・でも、そう遠くない未来に果たされると思います」
頑張ったの、と、ちょっと威張っていうのがおかしい。
人知れずそれだけのことを二人で積み上げてきた自信があるのだろう。
真鶴は深く息を吐いた。
「お前ったら。わかってる?お前は翡翠に生きるも死ぬも貴方とならと言ったのよ。そんな、お前、そんな事言われたら」
だからあの不感症が化学変化を起こしたのか。
真鶴は、ああもう、と、立ち上がった。
「いいわ。ならば思ったようにすればいい。家令の事は家令で済ませるのが鉄則ね。孔雀に任せるわ」
「真鶴お姉様・・・」
「まったく。あんたの小悪魔っぷりには参るわ!・・・・いいこと。ならば、私もお前もこんなとこにいられないわよ。あの二番目はやっぱり二番選手よ。A国は制服組の前任のトップを出してきた。Q国は、母后が出てきたようだもの」
小悪魔とは思わないが、姉弟子にはそう見えるようだ。
それよりも孔雀は驚いた。
今まで母后はむしろ無関心な様子だったのに。
母后が元家令と言えど、この場合友好的な交渉材料にならないのは見えている。
彼女も息子に、より有利で豊かな状態で国を預けたいからだ。
A国は、戦艦を二つ沈められた恨みもある。
これで二国に結託でもされたら、下手をしたら国ごとすり潰される。
「このままじゃまた戦争になる。あとは、国土の分捕り合いよ。お前がなるだけ小さくまとまった形で、国の形を整えて次に渡したいならば、どうあっても、血を流すわけにはいかないよね。役にも立たない二番目の王子様といちゃついてる暇はないよ。ああ、一番目もあてにならないようだけど。まああっちは、人質くらいにはなるか」
意地悪くそう言っても、真鶴は美しかった。
「覚悟しなきゃなんないのは、お前よ、可愛い孔雀。お前がした事する事。それは私も翡翠も好ましいでしょう。けれど、あの二番目はどうかしらね。お前、嫌われるわよ。どうするの」
孔雀は少し
姉弟子の言う事は正しい。
説明とか、よもや弁解など彼女の前にはいつも無意味だった。
真鶴は
遠くから、
「ほら、あの荒っぽいのは金糸雀だ。・・・気の毒に、白鴎が締め上げられて口を割ったね」
孔雀を迎えに来たのか、援護に来たのか。
「あの様子じゃ、金属バットでも持って怒鳴り込んで来そうだわ。・・・私をかばってくれる?」
「もちろんよ。真鶴お姉様に会えたら金糸雀お姉様きっと喜ぶわ。金糸雀お姉様も、真鶴お姉様が大好きだもの」
孔雀はベッドから飛び降りた。
早朝、異常を察知した金糸雀が、白鴎が厨房に慌てて到着したのを待ち構えて折檻よろしく問い詰めたのだ。
それを聞いた金糸雀の様子と来たら、討ち入りにでも行くような有様で、どこから出してきたのか軽量マシンガンを何梃も出してきたのだ。
救助じゃないのか、討ち入りか、と言う天河に金糸雀は不敬にも舌打ちして言ったのだ。
「家令と家令が本気でぶつかったら、戦争です。・・・いいですか、相手は真鶴お姉様です。私は今更孔雀をお姉様に渡す気はありません。お姉様にのそばにいると言うことは、その身をすっかり預けるということです。孔雀は自分で生きるも死ぬも無くなります」
天河は、まるで悪魔でも見たかのようにそう言う金糸雀に、無理やりついて来てしまったのだ。
しかし、思ったような大惨事にはならなかった。
それどこか、エントランスで出迎えた孔雀が金糸雀に駆け寄り、金糸雀に何かそっと耳打ちして、館の女主人よろしく現れた真鶴がぎゅっと金糸雀を抱きしめた途端、ガラス窓でも蹴破りそうな勢いだった金糸雀は、突然おんおん泣き出してしまったのだ。
基本的に比類なき才媛よと取り澄ましているこの女家令がこんな有様になるのが信じられずに天河は立ち尽くしていた。
「一番おねえさんだから金糸雀お姉様がずっとがんばってくれたのよ」
と孔雀が真鶴と微笑みあった。
思いがけず出会った叔母にあたる元皇女の女家令は、異常に美しかったが、同時に確かに気味の悪さも覚えた。
記憶にある祖母の琥珀女皇帝にそっくりで、それをさらに
彼女はじろじろと天河を見て「なんでお前がいいのかわかんないわ、孔雀はきっと乱視が進んだんだね。輪郭がはっきり見えないんだわ。・・・おお嫌だ」と心底嫌そうに言った。
「何よ、言いたい事あれば言えばいいじゃないの、補欠」と、喧嘩腰の真鶴に、天河は「王族っちゃ大体皆感じ悪いけど、あんたはその王族すらクビになったんだろ。相当トチ狂ってんじゃないの」と言い、真鶴が怒鳴り返して、ちょっとした修羅場になった。
初対面の出会いと共にこの二人の相性は最悪のようだ。
真鶴と天河は相手を呪い合うかのように睨み合って、孔雀にお互いの悪い印象を訴えた。
それから、孔雀はまるで、お茶会に招待されたかのように真鶴に邸内の
その晩、孔雀は居ずまいを正して、天河に告げた。
「天河様、これは、貴方が間違いなくお優しく、正しいからですが。私のことを知れば知るだにお嫌いになる事と思います。それでも私をと望まれるのであれば、私も覚悟を決めます。そうでなくとも、私はお恨みする事はありません」
立場を弁えた発言と聞こえるが、実際はそんなお前に未練などない、と孔雀は言ったのだ。