第89話 火喰蜥蜴の愛読書
文字数 3,790文字
この悪い鳥が、ただこうして自分達の知る物や持ち物をつまびらかにするわけがない。
たった十五で宮廷に入って、兄弟子や姉弟子と共にこの女が何をしたか。
皇帝の寵愛が深いだの、体が弱いのか公式にお召しがあった翌日は熱を出すだの、あちこち改装好きだの、食器の収集癖だの、その趣味が良いだの、ガーデンの畑で採れた葡萄から作ったワインが世間の若い女性に大人気だの、更にその
そしてまた、宮廷の人間は、それを憎んだり微笑ましく思ったり。そんなものは浮かれた宮廷の人間が見たり感じたりする彼女の一面でしかない。
その
とするとこの女は政治家だ。やはりその血の一滴まで家令なのだ。
「今まで会うことも出来なかった国同士のお姫様と王子様の結婚だなんて、まるで物語みたいですね、すてき」。この女家令は、そう言ったそうだが、話はそんなレベルのものではない。
宮廷もその話題に浮かれ華やいでいるが、煙に巻いたようなものではないか。
大戦中、自分はまだ子供であったが、どれだけ悲惨な戦争であったかよく知っている。
あの絶望と苦しみ、憎しみ。
遺恨となり、火種は常に燻っている。
だからこそ未だ前線で睨み合っているのではないか。
自分は白鷹とそう年が変わらないが、自分が安全な地方に疎開していた時にあの女家令は前線で戦っていたのだ。
だから、「ふん、禁軍なんて、派手な格好してるだけ。城から一歩も出ないで、何もしなかったじゃないの。軍隊じゃなくて警備員の間違いね」と白鷹に侮蔑されても言い返せない。
禁軍は皇帝の身辺を守護する軍隊。当時の皇帝の黒曜はあまり城を動かなかったから、禁軍もまた実際戦場に出る事はなかった。彼女の両親を含む兄弟子や姉弟子の多くが戦死したのに関わらず、だ。
それを、「すてきな事が起きましたので、とりあえずそっちに注目しましょうね」という態度はなんなのだ。
この娘は、そしてこの皇帝は本当はどう思っているのだろう、と五百旗頭は内心心配であった。
翡翠が命じられた琥珀帝による真珠帝の討伐の際、禁軍の多くは琥珀についた。
率いたのは、鸚鵡と、亡き家令の川蝉であった。
それを労う形で、当時の禁軍の多くは元老院の席を与えられたのだが。
まさかその数年後に今度は自分達が翡翠に反旗を翻すなど。
「・・・陛下、何なりとお申し付けください。この五百旗頭、
自分は、我が家は、この皇帝に多大なる借りがある。
あれだけの事をして、自らの蟄居と息子が前線送りで済んだのだ。
更に、今また、恩を受けたとなれば。
「そんな大げさな。なんでそんな時代劇なんだい」
翡翠は半分呆れて言った。
「そもそもそういうセンスが合わないんだよ。どう思う、孔雀」
孔雀は面白そうにやりとりを見ていたが、そうですねえ、とまた微笑んだ。
「・・・提案があるんです。翡翠様はそれほど乗り気でらっしゃらないけれど」
「本当は私のプランAがあるんだよ」
「そう、これは私のプランBですけれど・・・。極北総督府長として鸚鵡お兄様に出向して頂くのはどうかと思うんです。もちろん鸚鵡お兄様は
五百旗頭は、唸った。
Q国とのチャンネルが繋がった今、ではA国との関係はどうなる、という問題が持ち上がっていた。
この総家令が出してきた案は、かつて大戦前に、今の前線にあった極北総督府を再び設置する事。
しかし、ほぼゼロ、いや、マイナスからのスタートであり、あまりにも危険すぎると言うことで、議会も二の足を踏んだ。
当然、危険地帯なのだから、家令が実務に携わるのだろうが、冠を誰に被せるのか。
「議会でも、誰を総督府長に立てるかで揉めておりますが・・・」
人選が困難であった。
軍事や外交、内政に明るい者とならばやはり家令。
現時点で、家令では少し
更に、総督府長というのは公の長である。
「・・・押し出しの効く白鷹殿や梟殿では、戦時中のしこりも多いでしょうから、外交となると角が立ちますな」
禁軍が主に城での警護が任務であるのに対して、家令は前線に行く。
当時自分はまだ年端もいかない子供であったが、それでも自分とそれほど年齢の変わらない白鷹や梟は前線に近い場所に出て、兄弟子や姉弟子の死をその目で何度も見てきた。
彼らにとっては、何も終わっていないのだ。
孔雀は頭を振った。
「私は実際知るわけではありませんけど、ひどい戦争でしたね」
資料はいくらでも残っている。多少誇張された琥珀と白鷹が編纂した史記より、軍が残した戦歴書より、大戦に関わった総家令の白雁の日記と、彼の死後代理を引き継いだ瑠璃鶲の記録簿がその凄惨さを伝えるものとして十分だった。
「罵り合いあいならまだよろしいですけれど、あの二人じゃ、また戦争になっちゃいますもの」
そう冗談でもなくて、五百旗頭はぞっとした。
「同じ目にあわせてやるとか、勝つまでやるわよとか、ほらあの調子なので・・・」
兄弟子姉弟子を思って、おかしそうに笑うが、冗談じゃない。
孔雀がどうぞ、と菜の花のアイスクリームというこれまた冗談のようなものを勧めてきた。
若干戸惑いつつも、老人はなんとなく興味を惹かれて食べてみると、案外うまい。
この二人はいつもこんなものを食べているのだろうか、と不思議になった。
この総家令が、弟弟子と庭園の栗を拾ったり、第二太子の半温室からみかんを恵んで貰っていると聞いた事はあり、常々バカバカしいなあと思っていたものだ。
「以前、五百旗頭様のお父様のご著作の〝我が栄光の
驚いて、五百旗頭はスプーンを取り落としそうになった。
確かに父が生前そんな自叙伝を出していた。
「そんなの書いてたの、あのじいさん」
「はい。巻末の、"戦時を詠む"の俳句が秀逸でした」
「へえ。俳句なんか詠むの」
「五百旗頭様のお父様は、まことに正当な近衛兵竜騎士でらっしゃる方。昔ながらの禁軍の方は、書も、絵画も得意でらっしゃったんですよね」
「家令みたいだね」
「まあ、とんでもない。家令より数百倍ストイックで清潔ですよ」
「・・・・恐縮ではありますが・・・一体全体なんでまた・・・」
勘弁してくれ、恥ずかしい。
あれは亡き老年に差し掛かった父がいきなり執筆活動を始めて、大威張りで出版社に持ち込んだが断られ、新車買う程の金を出して自費出版したものだ。配りきれなかった分が今だに物置に積んである。
「緋連雀お姉様の愛読書なんです。閣下のお父様は、憧れの方ですから」
と言われて、五百旗頭は仰天した。
父が、あの
「私、子供の頃、緋連雀お姉様にあの御本を一日一回朗読しろと言われて。よく二人でガーデンの池の前で大きな声で読んでました」
兄弟子達には、あいつらアナウンサーにでもなるのか、いやあの内容聞けよ、何かの活動家だろ、とよく冷やかされていた。
翡翠がまた笑い出した。なんと酷い話だ。
白鷹は、うるさいよまったくもう、声がでかいんだよ、とよく文句を言っていたが、止めろとは言わなかった。
「・・・いやあ、しかし・・・」
本来敵対しているような禁軍と家令、しかも誠に腹ただしいが、家令からは禁軍は、腰抜けと言われている。
緋連雀はその性格の強さと同じくらい、美貌でも知られているが、軍では破竹の勢いで出世した女家令だ。勿論、白鷹同様、彼女も前線に出ないどころか実戦に乏しい禁軍を常に下に見ている。
かつて
あまりの事に彼は何も言い返せなかったそうだ。
五百旗頭のその話に、孔雀が苦笑した。
「私もその場におりました。あの時は大変な失礼を致しまして。しかも、五百旗頭様、ある子弟とぼかしてくださって。その方、更紗様の旦那様でいらっしゃいますよね」
「そうなの?」
五百旗頭がため息をつきながら頷いた。
「はい。当家の娘の夫になります。娘は
「斉様、その後、子供に恥ずかしい場面を見せたからと、私に売店でアイスクリーム買ってくださったんです」
あの姉弟子よりもだいぶ大人だ。
「なんと出来た人間だね」
「そうなんです。緋連雀お姉様はその辺見て回って来るからってプンスカ怒りながらどこか行っちゃったのに」
とにかく緋連雀は女官も嫌いだが禁軍も大嫌いなのだ。
そんな人間がなんでまた父の著作を熟読していたのか。
五百旗頭は