第97話 寵姫の途惑《とまど》い
文字数 5,272文字
いつもならば議会中、翡翠の背後で雉鳩や金糸雀と何か書類を交わしていたり、機嫌よく談笑しているのに、ここのところぼんやりとしているかと思えば、何かを考え込んでいたり、合間に茶や小さな菓子をつまみ、また何か思案気。それがなんとも悩ましい様子だと。
「だそうよ」
金糸雀が言った。
孔雀は鍋の蓋を開けてため息をついた。
甘い香りが辺りにたちこめ、魔女の鍋の中のように濃い赤い液体がぐつぐつと煮えていた。
昔から考え事をする時は煮物を始める。
今回もだいぶ煮詰まっているようだ。
「それで、金糸雀お姉様は何と答えたの」
うまく誤魔化してくれたのだろうけれど。
この身がいろいろと面倒な事は嫌という程わかっている。
宮廷の内外で、口さがない人間たちに散々言われてきた。
家令にとってそんなこと何の瑕疵であろうか、むしろ当然と言う姉弟子兄弟子がいなければ、やはりくじけていたと思うほどに。
宮廷の人間は、同じ宮廷に関わる相手には、女だろうが子供だろうが病人だろうが怪我人だろうが、容赦がない。
「あの子も大人になったのでしょうと」
孔雀がまた妙な顔をした。すっかり大人のつもりだが。
この姉弟子がそれっぽくそう言えば、女官も官吏もそうですかと納得してくれる。
言葉に説得力があるのは、弁護士だからか。たとえでまかせでも。そのニッチな特殊技能を生かして報道官というのはまことに彼女の天職だと思う。
特に、婉曲的な表現を品格と好む女官方は、金糸雀に微笑みながらそう言われてきっと頷いてしまったに違いない。
緋連雀や雉鳩は確かに毒花に毒蛇だが、それをわかって人は近づくのだ。
嫌な言い方だが自己責任、とか、好ましい言い方なら食われても本望とか。
だが、この姉弟子の場合は、別。
堂々として、輝かしい。私には後ろ暗い事などございません。私のこの舌は真実だけを話しますという誠実そうな顔をして。
腹が減っていない時はとって食ったりはしないが、気分次第でぺろり。やっぱり人食いワニだ。
「まあ、アンタもね。頭を三角にしてそんなにうんうん考えても答えが出ないなら才能がないのよ」
わかってる、と孔雀は頷いた。
ほら、この姉弟子の言葉のなんという説得力。
才能がない、と言われたら、もう。
「緋連雀から今日四回目の要望書が来たわ。早く極北に誰か寄越せって」
長年膠着状態だった国境問題。A国が陸海共に南下し条約を事実上破棄し、自国の国民のいる難民キャンプまで爆撃をした事で、総家令が下した武力制裁は、半分は表沙汰になり、半分はないものとされた。しかし、Q国に皇帝の娘が輿入れする事になり、こちらとの同盟がはっきりと公表されて、突然に肉弾戦になったのだ。
表面上、宮廷では相変わらずの優雅さだが、外交的にも軍事的にも息つく間もないほどの熾烈な攻防が行われている。
宮廷でその矢面に立っているのは、今、金糸雀であり、鷂。そして、前線では青鷺と緋連雀だ。
「裏で梟お兄様がひーこらしてるのはまあどうでもいいけど」
諜報活動と言えば格好が良いが、つまりは根回しドサ周り中の兄弟子が恨み言を言ってきたばかりだ
金糸雀は梟が普段から勝手に外勤と言って、あちこちのリゾート地やカジノで豪遊するのに気が立っている。
「営業マンっていいわよね。外回りで一体何やってんだかわかんないもの」
そう言うが、金糸雀だって、長期オフにはデートクラブ経営で荒稼ぎしている。
案外凝り性の彼女は会員の限定マグカップやらポイントカードまで作っている始末で。
嘘でしょ、変な事はしないでよ、と言いながらも、グッズ作りを孔雀が手伝わされていた。
「鸚鵡お兄様にはやられたわねえ」
正式に家令になっていないと大喜びで父親が白鷹の直筆の契約書を持参して前線の息子の元に駆けつけたのだが、当の本人が、ショックを受けて改めて書類を今度は孔雀と翡翠に提出して来たのだ。
兄弟子の意思は強固で、そもそもすっかり家令になったつもりであり、禁軍には戻る気はない、翡翠に対する自分の過去の行為を考えても、極北総督府長の任も固辞する、と父親に宣言したそうだ。
五百旗頭翁は、その足で宮城に上がり、翡翠に腹を切ってお詫びをすると言い出し、うわあ、やめて欲しいと翡翠が嫌がり、孔雀が鸚鵡お兄様のご意思がそこまで固いのならば受け入れましょう、とその場を収めた。
鸚鵡が禁軍に戻らない以上、まだ成人にもならない鸚鵡の年の離れた弟が次の五百旗頭家の筆頭になるという文書を正式に受理したばかりだ。
鸚鵡がここまでして家令に拘る理由が、やはりあの出奔した姉弟子であるとすればもう致し方ない。
「せっかく真鶴お姉様が身分を家令にするなと言ってくれたのにねえ。バカよねえ」
金糸雀がテーブルのゼリー菓子をつまんだ。
よく真鶴が作ってくれたマルメロの果実と果汁を煮詰めたものだ。今では孔雀が真似してよく作る。
あの姉弟子はこれに薬物を仕込んで孔雀に食べさせていたらしい。
「そもそも鸚鵡お兄様は、真鶴お姉様の護衛として離宮に正式に禁軍から配属されていたらしいの。・・・お姫様とナイトの恋よねえ」
孔雀は真鶴への憧れが強すぎてたまにおかしな事を言う。
「・・・そんないいもんじゃないんじゃない?女王様と犬・・・」
金糸雀は肩をすくめた。
そして人選は振り出しに戻ってしまった。
こうなったらやはり他の家令しかおるまい。
そもそも、こういういかにも死にそうな、全方位から文句の来そうな場面の為に家令がいるのだ。
「青鷺お姉様と緋連雀お姉様じゃ軍色が強くて警戒される。金糸雀お姉様と雉鳩お兄様は宮廷色が強いし、報道官と統括官としての立場上まずい。梟お姉様と白鷹お姉様では、大戦の記憶が生々しくて敬遠されるし怨恨がある。白鴎お兄様じゃギルド色が強い。いいのは大嘴お兄様なんだけれど。天河様に近いから、天河様のお立場が・・・。なかなか角が立たない人選ってないもので。・・・もう本当に押し出し効くから白鷹お姉様しかいないかも・・・」
孔雀が笑いながら金糸雀に紅茶を出した。
「よしてよ。あのババア、恨みつらみから何言い出すか。停戦どころかまた戦争おっぱじめちゃうわよ」
仕事増えんのこっちだわ、と嫌そうにぼやきながら茶を飲む。
孔雀が笑いだした。眼に浮かぶようだ。
「というわけで、私が行こうかと思ってるの」
金糸雀は驚いて妹弟子を見た。
「あんた、何言ってんのよ?」
「だって。私が一番いいんだもの。総家令の変わりはすぐ立てられるし。陛下のご不興を買ったとかご寵愛が無くなったと言えば理由がついてすぐに失脚出来る。うまくいけば私一人で済むもの」
優秀な総家令と公式寵姫の役割とは、自分が弾除けとなり皇帝に傷を付けない事。
菩提樹の花の香りの紅茶に、ほっとする。
華やかな香りではないが、春の日に優しい風に乗ってくる遠い森の芽吹いたばかりの木の芽の香りのようだ。
「これシロツメクサの匂いに似てない?緋連雀お姉様とよくままごとしたの」
本当にままごとでシロツメクサを食べさせられていたものだ。
懐かしそうに言うのに金糸雀は呆れて笑った。
「さてさて。アンタは極北に行く暇はないでしょ」
現在、来年に控えた三妃の娘のQ国への輿入れに少しでも瑕疵があってはいけないと、孔雀が気をまわしていた。
それは三妃もそれ以上で、皇太子の正妃としてという話を取り付けてきた孔雀に、珍しく総家令をご苦労でしたと労ったほどなのだ。
内密で、彼女と先方の皇太子との顔合わせも済ませている。
藍晶の社交性が役立った。
「芋ずる式というか。六次の隔たりってやつですよね」
「スモール・ワールド現象ね。六人を介せば大統領にたどり着くというやつね。快挙よ。藍晶様の元カノの元カレの今カノの従兄弟が皇太子っていう」
「・・・・そこはまあ、アレですけど・・・」
その辺りは三妃と皇女にはぜひ伏せておきたい。
藍晶主催のパーティーで、たまたまを装った形で彼らは出会ったわけだ。
「あちらの皇太子様、子犬をくださって。子犬は姉妹だからそれを理由にまたお会いしましょうって」
「まあお上手。さすが藍晶様の世界の住人だわ。いまからそんなんで大丈夫なの」
Q国で見た後宮の華やかな女性達を思い出し、金糸雀はため息をついた。
彼女達は全て、皇帝の持ち物なのだ。
こちらの宮廷の女官や官吏が、臣下であっても官僚という身分であるのとは違う。
「その事実を三妃様、ご存知なの?」
愛娘の輝かしいが前途多難であろう状態を心安く思うわけがない。
孔雀は頷いた。
「全て織り込み済みですよ。それでも、紅水晶様に正室の地位をお望みです」
金糸雀はならいいと手を振った。
「そんなにいいものかしらね。あの国の宮廷の過酷さは我が国の比較にはならないとあんたが言ったのに」
次の皇帝の正式な妻と認めましょうとの確約。だが、それだけだ。
正室というものを初めから迎える。そしてその正室は夫たる皇帝と、あの後宮の女達の全てを受け入れよという事だ。
あの可憐な皇女をそんな雌狼共の群れにくれてやるのか。
金糸雀は妹弟子に非難の目を向けた。
孔雀は優雅に、手を閃かせた。
「金糸雀お姉様。私が、三妃様にこの度のお輿入れのお話を申し上げた時に、紅水晶様は同席されていたのよ」
だから、と孔雀が笑う。
「紅水晶様もさすが王族。皇女様だわ。それでもいいと仰ったのは、紅水晶様。頼もしいことです」
金糸雀は呆れてため息をついた。
「お前、火をつけたの」
「やっぱり燃えるご気性なんでしょうね。あちらの皇太子様とお会いになってから、私があちらの宮廷の様々、特に戦わねばならない事を申し上げたら、気合いが違う」
孔雀は嬉しそうに言った。
今思い出すのは、別れたあの姉弟子の事。
少し、あの姉弟子に通じる情熱を見た気がして、孔雀は懐かしかった。
あの華麗で豪華絢爛な後宮の熱帯魚、いや、雌狼の群れに、紅水晶が切り込んで行くのを見てみたい、と孔雀は言うわけだ。
「お輿入れには誰がお供する?緋連雀お姉様と猩々朱鷺お姉様が行ったら面白いかも」
珍しく浮かれている。
緋連雀が猩々朱鷺とあちらの皇帝との子だという事実、そしてそのどちらも全くもって女家令の気質であるという事実がおかしくて仕方なくなったらしい。
「真鶴お姉様もきっと大笑いね」
金糸雀が笑い転げる妹弟子の頬を突っついた。
「・・・真鶴お姉様じゃないわよ、紅水晶様は」
昔、白鷹が真鶴と孔雀に、己と愛しい琥珀を投影したように。
やっぱり孔雀はあの姉弟子を忘れられない、諦められない。
それは、自分も同じ事。
白鷹と梟に、真鶴にまた会いたきゃ、一分でも一秒でも早く特急仕上げで一丁前の家令になれと言われたのは、金糸雀もだ。
そもそも両親ともに家令であり、かつ母親が女家令である以上、逃れられないのだろうという仕方なさもあった。しかし、梟にそう言われて自分は意地になったのだ。
短期間で軍事法廷の一級弁護士の資格を取得し、報道官としての職務も果たしてきた。
そもそも報道官になれば人々の目に付く。だから、あの姉弟子の目に留まるのではないかとも思った。その為にちょっと無茶した自覚はある。それは我々の世代の誰もがそうだろうが、自分と孔雀は尚だろう。真鶴は、それだけ魅力的な人物だった。誰もが、心を奪われるほど。
孔雀は紅茶を飲み干した。
「私がお姫様のハートに火をつけた以上。無事前線の停戦話をまとめてこなくちゃ」
極北総督府長官として鸚鵡を推薦する案は、彼が辞退した事で立ち消えとなった。
そればかりか、正式に家令では無いと知った兄弟子はショックを受けて白鷹に談判し、改めて家令になってしまったのだ。
五百旗頭翁の落胆いかばかりかと思ったが、彼なりに気持ちに整理がついたとかで家督を正式に次男に継がせて責任を取って隠居という形を取ってしまった。
家令は基本的に何がしかの長になるのを嫌われる存在だ。
知性を最も重要視するアカデミー以外では。
だからこそ鸚鵡の立場が丁度良かっのだが。
北に総督府長官が正式に置かれるのは、六十年振りになる。
もとは壮麗であったという北の離宮は、総督府という名称になり長年前線基地になっていた。
かつて美しかった離宮は、大戦で無骨な要塞に変わった。
小規模な戦闘が起きるたびにその役割は大きくなり、王族やそれに近しい者が総督府長官の肩書きを与えられて任務にあたってきた。
「総家令がその任につくとしたら、あんたとんでもないバッシング食らうわよ」
「極北総督府長官代理、で行きます。・・・総家令なら押出しも利きますし、バッシングされても肩書が耐えられなくはないもの」
妹弟子が、頑張る、という顔をしているのに、金糸雀は苦笑した。
「・・・いいわ。じゃあ大嘴と。私も一緒に行く。護衛ならばいいでしょ?」
孔雀がぱっと顔を輝かせた。一緒ならば心強い。
大嘴は今、金糸雀が率いる陸軍の精鋭チームである十二羽の
「正式文書は雉鳩に出させて。・・・でもね、陛下がハンコつくかどうかは、また別問題よ」
そこが一番問題なんだからね、と金糸雀は念を押した。