羽根と翼 黒井千次
文字数 2,354文字
純文学長篇 小説的醍醐味に満ちた黒井文学の傑作
「アシザワさんでしょう?クボシマは死にましたよ」黒いマントの女が、俺を時間の闇に誘い込む。
(講談社HPより引用)
まあ、すこうし前のとある場所で小説のカテゴリーの話になったことがあって。
素人物書きにしてみると、自作品に自らカテゴリーを付けることが難しいこともままあるんだよ。
難しい。辞書でその言葉を引くと
1 大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学。
2 広義の文学に対し、詩歌・小説・戯曲など美的感覚に重点を置く文学。主として明治時代に用いられた語。
と出てくる。──デジタル大辞泉(小学館)より
とても意地が悪い!(笑
とにもかくにも、この作品は間違いなく、疑いようもなく「純文学」だった。
読むしかない。
文章そのものが、そうあるべく装飾されているという感覚は、理性でとらえるよりは感性で楽しみたいところ。表現がユニークかどうかはこれまた難しいところだけど、しかし少なからずストレートな表現ではないことも確かだった。
いや、そんなつもりはないんだがな(汗
世の中には博識をひけらかした嫌味な文章が確かに存在するのだけど、これはそういうことじゃないんだよね。すっと染み入ってくる中に揺るぎない賢さが滲んでいる。本当に賢い人の文章は知恵の差を相手に感じさせないというのは、いろんな、小説に限らずいろんな文章を読む中でぼくが肌で感じてきたことで、それはこの作品にも当てはまっている。
嫌味なのは中途半端な人だよ。無駄に小難しい文章を書いてくるから。
たまに、大衆文学で「それを書くの?」という人がいるよね。大衆文学と言うのは一般に広くいる人が手軽に読む作品だってことでしょ? そんなに文章を格調高くしたいなら純文学を書けばいいと思う。なお、そういう人に限って純文学を書く力はない。(たぶん
それも難しいね。でも、世の中の知識レベルの平均を取ったところを偏差値50とするんでしょ?
だから、大衆(偏差値50)の人が読んで理解できない文章は大衆文学としては失格だとぼく自身は思ってる。
ん? ぼくのどす黒く染まったティーン時代の思い出を語ろうか?
1つの例としてそのシーンは外せない。勉強会もそうだけど、「違う」という違和感に「がっかり」する感覚。
思い出が「今」に蘇る時に抱える戸惑いのようなものがジンジン伝わってきた。
驚くほど丁寧に丁寧に分析されているよね。
でも、わからなくても気にならない。
そもそも遠子の突飛な発言から、主人公本人の周囲にいたであろう「アシザワ」に飛びつく過程も変じゃない? でも、気にはならないんだよ。物語的には点から点へのつじつまの合わない飛躍が随所にあることは確かだけど、そこにみみっちくツッコみを入れるような作品ではないんだよね。
最後、全員を殺してしまうじゃない? あの場面をどう感じた?
そうだね。
そもそも作品の中に色々なものが投げ込まれているから、「これ」と、一つと定めて取り出すのは難しいよね。
試しに「死」の持つ意味を多面的に考えてみるのもアリかもしれない。
失敗したわけでもないけれど、必ずしも成功しているわけでもない人生を背負った主人公。そんな彼の微妙な立ち位置が作品に魅惑的で薄暗い影を投げているんだなと思う。