第10話 牛鍋
文字数 3,494文字
黄緑色の長い栗の花穂が落ちる季節。気疎 い小雨の中、母屋から出たハルは椀 の乗った膳 を体の前に掲げたまま、夜の薄暗い中庭を突っ切っていく。
ほどなく戸が開け放たれた離れの台所へ到達。流し台に膳を置き、飯椀と煮物椀の蓋を取って中身を確認する。煮物椀の中身には手が付けられておらず、一方で飯椀の方は、さっぱり空になっていた。
ハルは中庭を濡らす雨を睨みながら、台所の引き戸をばしんと閉めた。
「ウメぇ、お米だけなくなってやした」
「そう。奥様かなり怒ってらっしゃったけど、ご飯だけは食べさせてもらえたのかいな」
「さぁてね。この手付かずの椀は?」
「あとで鍋に入れちゃいましょ」
話しながらウメが紙包みを開けると、そこにはてらてら艶 を放つ赤身肉が。他の女中二人は竈 の火の面倒を見ており、表情は真剣そのもの。
「今日いただいた牛肉、まだそんなたくさん残ってたんでありんすか」
「肉問屋さんも気風 が良 いねぇ。水野商店は人が多いでしょうってなもんで、二斤はくだらないよ」
「ウメさん、火の準備は終わりました!」
「さぁウメさん、やっちまいましょう!」
よし、と強めの息を吐 いて、ウメが牛肉をまな板にズンと横たえ、鋭利に磨かれた包丁を手にした。皆 が涎 を垂らして見守る中、彼女は肉をざっくりと切り分け、それから角切りにした。
すでにネギと、昨日の残りのしめじは切って盆に乗せてある。そして本日に棒手振 りから手に入れた豆腐も、良き大きさに切り分けて木桶の中だ。あとは……。
「割り下はどう?」
「完璧です!」
「醤油と酒、砂糖に味噌。完璧です!」
「よぅし、じゃあいくよ!」
割り下がぐつぐつ煮立つ一尺越えの鉄鍋へ角切りの牛肉を投入。一気に油を含んだ煙が立ち昇る。台所の中に充満する匂いは全員の空きっ腹を刺激した。
『うぉぉぉおおお!』
間髪入れず、ウメは盆からネギとしめじを、木桶から豆腐をちゃちゃっと鍋へ放り込んでいく。そのたび白い蒸気がわぁっと広がる。続いて竹製のしゃもじで鍋を掻き回し、肉にも野菜にも満遍なく熱を通す。
「皆 、食器の準備にかかりな! 熱々のまんまいただくからね!」
女中らが二人がかりで大きな平たい石を筵 の真ん中まで持ってきた。その周りにハルが人数分の膳を配置し、おひつから冷えたご飯を取り出して飯椀にこんもり移し、陶器の取り皿とともに膳の上へ並べる。
「はい、鍋を下ろすよ。ハル手伝って!」
「あいさ!」
畳んで分厚くした手拭いを手の平に乗せて鍋の吊り金具を握り、ウメとハルは息を合わせ、鍋を持ち上げた。両腕にかなりの重さがかかっても、絶対に落とさないぞという強い意志をもって鍋をだんだんと下げていき、大きな平たい石の上にそっと置いた。
「ふぅ……。ご飯よし、箸よし、取り皿よし。さぁ食べるよ!」
『はい!』
四人はそれぞれ膳を前にして座る。全員が正座なのはその方 が鍋に手を伸ばしやすいからであろう。取り皿と箸を手にしてウメの号令を待つ。
「いただきます!」
『いただきやす!』
台所はにわかに戦場と化した。
ハルは女中の視線を辿り、どの牛肉を狙っているかを探る。目標になっていなくて一番大きな肉に狙いを定めて箸を伸ばす。どうやらウメの獲物だったらしく小さな舌打ちの音が聞こえた。だがハルは気にしない。鍋は無礼講であり、これは身分や先輩後輩など関係ない、生き残りをかけた戦いなのだ。
鍋から取り出したばかりで熱々の牛肉に息を二度三度と吹きつけて冷ます。ここで時間をかけ過ぎれば次の肉へ到達するための動作が遅れてしまう。まだ熱気の残る牛肉を口の中に入れ、あつあつはふはふ咀嚼し、はみ出してくる肉汁と甘辛な割り下が絡み合った濃厚な味を堪能しつつ、その飢えた鋭い眼は常に鍋を捉えている。
ハルがまだ口の中に肉を含んだまま箸を前に出した瞬間、ウメの叱咤 が飛んできた。
「あんたそれ飲み込んでから次のを取りな。あと、ネギとかしめじも食べなさい」
「もぐ……、あちきはまだ伸び盛 りなんで。ウメこそ、それより太ったら大変でやんしょ」
「あっしは太ってなんかないよ。これは肉付きが良 いっていうのさ」
ウメとハルがやり合っている間 にも、他の女中はどんどん牛肉をさらっていく。こいつはまずいと一時休戦、全員が無言で汗を垂らしながら鍋をつつく。
しばらくして、妙な匂いが混じっていることに気付いたハルは、椀と箸を置いて立ち上がった。匂いの元を辿るように歩き、台所の引き戸を開ける。
軒下で、栄達 が紙巻き煙草をふかしながら夜闇を眺めていた。
「ありゃ旦那様、どうしたんでござりんす?」
「おぉハル……。すごく良 い匂いがするが、鍋かな」
斜めにそぼ降る雨で煙草の火が消えてしまい、それを合図にして栄達は寂しげな表情で台所へ入った。珍客に驚いたウメら女中たちが動きを止める。
「旦那、ずぶ濡れじゃあございませんか。お前たち早く、なんか拭うものを持ってきな!」
手早く用意された大判の手拭いを肩に掛けられつつ、栄達は鍋の前に腰を下ろした。じいっと鍋の中を見つめて、自嘲気味に笑う。彼の隣にハルが座り、顔を覗き込んだ。
「……腹が減ってるんでありんしょか」
ハルは箸で鍋から牛肉をひとつまみし、栄達の口へ近付けた。瞬間、彼はぱくりと肉を含んだ。ゆっくりと噛んで味わっていたが、あまりの美味 さに一筋の涙を流してしまう。
「ちょっとハル、そんな犬にやるみたいにしないの。旦那、すぐ膳を用意しますからね、お持ちになってください」
「お? おぉ……分かった。ハル、牛肉はやはり美味いなぁ」
「何があったんで? 夕飯の牛煮込みに手をつけてなかった風でござりんすが」
「寄り合いがあってな。まぁこの肉は、迎えに来た肉問屋の主人が私にくれたわけだ。夕飯までに戻ると家内に言っておいたのだが、どうにも寄り合いで酒が進んでしまって、夕飯に間に合わず千鳥足で帰ったらこの様 だよ」
「なんだ、旦那様が悪いんですかい」
ハルはめっきり興味を失ってしまい、ウメの手伝いに立った。その姿を見送って栄達はまた寂しそうに鍋を見つめる。
栄達を入れて五人が、あらためて鍋を囲む。さきほどまでの勢いはなくなってしまい、粛々と、そして黙々と食べ進める。誰も手をつけてなかったネギやしめじ、豆腐もようやっと減り始めた。
「トモ……嬢様はなんて?」
「いつもなら庇 ってくれるのだが、今日はあの子もカンカンだったなぁ。牛煮込みが冷めたのを怒っていたのかも知れん」
「あのお嬢様がお怒りになるなんて、まったく旦那は罪深いことをしちまいましたね」
「お嬢様が怒るなんて」
「怒るなんて珍しいね」
適当に話をしながら食べ進めていると、再びガラガラッと引き戸が開かれた。
「もし、ここにお父 ……あれ? 皆 と一緒に食べてらしたんですか」
「う。ト……トモ。これには深ぁい理由 があってだな」
「即刻おやめくださいまし。こんな所をお母様に見つかったら大変です。お叱りだけじゃあ済みませんよ」
トモはつかつかと栄達に歩み寄り、懐から薄 経木 の包みを取り出した。
「はいこれ、握り飯。もうあとは寝るだけなんですから、これを食べてさっさとお戻りになって」
「これは……トモが握ってくれたのか。ありがとう、ありがとう……」
ハルも女中らも、仲睦まじい親子の会話なんぞ無視して、残り少なくなった牛肉に箸を伸ばす。むしろ栄達が離脱したのは好都合と、僅かな牛肉やちぎれ肉の欠片を奪い合う始末。
鍋の中の牛肉が一片になった瞬間。
夜の闇の向こうから傘をさしたミヨが現れた。
『ぎぃゃぁああぁぁああ!!』
台所中に轟く複数の叫び声。ただ一人ハルだけは気丈に最後の牛肉を鍋から奪い取り、口へと運んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母屋の土間で栄達の濡れた着物を拭きながら、ミヨは呆れたように溜息を漏らした。
「腹が減ってるなら減ってると言ったらいいじゃないですか。女中の夜飯に押しかけて残り物をいただく主人なんて、どこに出しても笑い者ですよ」
「すまんかった……。良い匂いが漂ってきたのでつい、な」
「嘘おっしゃい。あんな離れた所から匂いが届くもんですか。どうせ、ハルなら優しくしてくれると踏んだんでしょうに」
不安顔のトモが、ミヨに懇願する。
「あの、お母様。女中たちは悪くありません。お叱りはお父様だけにしてくださいまし」
「分かってますよ」
ミヨは鼻を鳴らし、栄達に大判の手拭いを押し付ける。雨天用の革靴を脱いで土間から上がり、廊下を歩き出した。
「……あぁ、そうそう」
何か思い出したように振り返って、栄達へ視線を向ける。
「あなたは朝飯も抜きですからね」
栄達は膝から崩れ落ち、咽 び泣いた。
ほどなく戸が開け放たれた離れの台所へ到達。流し台に膳を置き、飯椀と煮物椀の蓋を取って中身を確認する。煮物椀の中身には手が付けられておらず、一方で飯椀の方は、さっぱり空になっていた。
ハルは中庭を濡らす雨を睨みながら、台所の引き戸をばしんと閉めた。
「ウメぇ、お米だけなくなってやした」
「そう。奥様かなり怒ってらっしゃったけど、ご飯だけは食べさせてもらえたのかいな」
「さぁてね。この手付かずの椀は?」
「あとで鍋に入れちゃいましょ」
話しながらウメが紙包みを開けると、そこにはてらてら
「今日いただいた牛肉、まだそんなたくさん残ってたんでありんすか」
「肉問屋さんも
「ウメさん、火の準備は終わりました!」
「さぁウメさん、やっちまいましょう!」
よし、と強めの息を
すでにネギと、昨日の残りのしめじは切って盆に乗せてある。そして本日に
「割り下はどう?」
「完璧です!」
「醤油と酒、砂糖に味噌。完璧です!」
「よぅし、じゃあいくよ!」
割り下がぐつぐつ煮立つ一尺越えの鉄鍋へ角切りの牛肉を投入。一気に油を含んだ煙が立ち昇る。台所の中に充満する匂いは全員の空きっ腹を刺激した。
『うぉぉぉおおお!』
間髪入れず、ウメは盆からネギとしめじを、木桶から豆腐をちゃちゃっと鍋へ放り込んでいく。そのたび白い蒸気がわぁっと広がる。続いて竹製のしゃもじで鍋を掻き回し、肉にも野菜にも満遍なく熱を通す。
「
女中らが二人がかりで大きな平たい石を
「はい、鍋を下ろすよ。ハル手伝って!」
「あいさ!」
畳んで分厚くした手拭いを手の平に乗せて鍋の吊り金具を握り、ウメとハルは息を合わせ、鍋を持ち上げた。両腕にかなりの重さがかかっても、絶対に落とさないぞという強い意志をもって鍋をだんだんと下げていき、大きな平たい石の上にそっと置いた。
「ふぅ……。ご飯よし、箸よし、取り皿よし。さぁ食べるよ!」
『はい!』
四人はそれぞれ膳を前にして座る。全員が正座なのはその
「いただきます!」
『いただきやす!』
台所はにわかに戦場と化した。
ハルは女中の視線を辿り、どの牛肉を狙っているかを探る。目標になっていなくて一番大きな肉に狙いを定めて箸を伸ばす。どうやらウメの獲物だったらしく小さな舌打ちの音が聞こえた。だがハルは気にしない。鍋は無礼講であり、これは身分や先輩後輩など関係ない、生き残りをかけた戦いなのだ。
鍋から取り出したばかりで熱々の牛肉に息を二度三度と吹きつけて冷ます。ここで時間をかけ過ぎれば次の肉へ到達するための動作が遅れてしまう。まだ熱気の残る牛肉を口の中に入れ、あつあつはふはふ咀嚼し、はみ出してくる肉汁と甘辛な割り下が絡み合った濃厚な味を堪能しつつ、その飢えた鋭い眼は常に鍋を捉えている。
ハルがまだ口の中に肉を含んだまま箸を前に出した瞬間、ウメの
「あんたそれ飲み込んでから次のを取りな。あと、ネギとかしめじも食べなさい」
「もぐ……、あちきはまだ伸び
「あっしは太ってなんかないよ。これは肉付きが
ウメとハルがやり合っている
しばらくして、妙な匂いが混じっていることに気付いたハルは、椀と箸を置いて立ち上がった。匂いの元を辿るように歩き、台所の引き戸を開ける。
軒下で、
「ありゃ旦那様、どうしたんでござりんす?」
「おぉハル……。すごく
斜めにそぼ降る雨で煙草の火が消えてしまい、それを合図にして栄達は寂しげな表情で台所へ入った。珍客に驚いたウメら女中たちが動きを止める。
「旦那、ずぶ濡れじゃあございませんか。お前たち早く、なんか拭うものを持ってきな!」
手早く用意された大判の手拭いを肩に掛けられつつ、栄達は鍋の前に腰を下ろした。じいっと鍋の中を見つめて、自嘲気味に笑う。彼の隣にハルが座り、顔を覗き込んだ。
「……腹が減ってるんでありんしょか」
ハルは箸で鍋から牛肉をひとつまみし、栄達の口へ近付けた。瞬間、彼はぱくりと肉を含んだ。ゆっくりと噛んで味わっていたが、あまりの
「ちょっとハル、そんな犬にやるみたいにしないの。旦那、すぐ膳を用意しますからね、お持ちになってください」
「お? おぉ……分かった。ハル、牛肉はやはり美味いなぁ」
「何があったんで? 夕飯の牛煮込みに手をつけてなかった風でござりんすが」
「寄り合いがあってな。まぁこの肉は、迎えに来た肉問屋の主人が私にくれたわけだ。夕飯までに戻ると家内に言っておいたのだが、どうにも寄り合いで酒が進んでしまって、夕飯に間に合わず千鳥足で帰ったらこの
「なんだ、旦那様が悪いんですかい」
ハルはめっきり興味を失ってしまい、ウメの手伝いに立った。その姿を見送って栄達はまた寂しそうに鍋を見つめる。
栄達を入れて五人が、あらためて鍋を囲む。さきほどまでの勢いはなくなってしまい、粛々と、そして黙々と食べ進める。誰も手をつけてなかったネギやしめじ、豆腐もようやっと減り始めた。
「トモ……嬢様はなんて?」
「いつもなら
「あのお嬢様がお怒りになるなんて、まったく旦那は罪深いことをしちまいましたね」
「お嬢様が怒るなんて」
「怒るなんて珍しいね」
適当に話をしながら食べ進めていると、再びガラガラッと引き戸が開かれた。
「もし、ここにお
「う。ト……トモ。これには深ぁい
「即刻おやめくださいまし。こんな所をお母様に見つかったら大変です。お叱りだけじゃあ済みませんよ」
トモはつかつかと栄達に歩み寄り、懐から
「はいこれ、握り飯。もうあとは寝るだけなんですから、これを食べてさっさとお戻りになって」
「これは……トモが握ってくれたのか。ありがとう、ありがとう……」
ハルも女中らも、仲睦まじい親子の会話なんぞ無視して、残り少なくなった牛肉に箸を伸ばす。むしろ栄達が離脱したのは好都合と、僅かな牛肉やちぎれ肉の欠片を奪い合う始末。
鍋の中の牛肉が一片になった瞬間。
夜の闇の向こうから傘をさしたミヨが現れた。
『ぎぃゃぁああぁぁああ!!』
台所中に轟く複数の叫び声。ただ一人ハルだけは気丈に最後の牛肉を鍋から奪い取り、口へと運んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母屋の土間で栄達の濡れた着物を拭きながら、ミヨは呆れたように溜息を漏らした。
「腹が減ってるなら減ってると言ったらいいじゃないですか。女中の夜飯に押しかけて残り物をいただく主人なんて、どこに出しても笑い者ですよ」
「すまんかった……。良い匂いが漂ってきたのでつい、な」
「嘘おっしゃい。あんな離れた所から匂いが届くもんですか。どうせ、ハルなら優しくしてくれると踏んだんでしょうに」
不安顔のトモが、ミヨに懇願する。
「あの、お母様。女中たちは悪くありません。お叱りはお父様だけにしてくださいまし」
「分かってますよ」
ミヨは鼻を鳴らし、栄達に大判の手拭いを押し付ける。雨天用の革靴を脱いで土間から上がり、廊下を歩き出した。
「……あぁ、そうそう」
何か思い出したように振り返って、栄達へ視線を向ける。
「あなたは朝飯も抜きですからね」
栄達は膝から崩れ落ち、