第1話 友

文字数 3,154文字

 合羽(かっぱ)(まと)った俥夫(しゃふ)梶棒(かじぼう)を握り雨上がりのぬかるんだ道を進む。夜のあいだ降り続いた大雨は朝から小雨(こさめ)へと変わり、見上げれば薄灰色の雨雲がどこまでも広がっていた。

 人力車の(どう)には、束髪(そくはつ)(あで)やかな(かんざし)でまとめ琥珀(こはく)色の小袖を着け海老茶の(はかま)を穿いたトモが座っていた。

「もし、ここでよろしくてよ」

 俥夫は「へぇ」とひと(こと)(こた)え、足の運びを緩め、力車(リキシャ)を道脇に停めた。(あかね)色の雨傘を広げようとするトモの仕草を見て(ほろ)を畳む。
 トモは洋式の黒靴で土に降り立つ。少しの泥が跳ねて袴に飛んだので、俥夫は慌てたような困ったような顔を見せた。

「お嬢様、お気をつけなすって」
「少しくらい汚れても構いやしません。このくらいの雨でどうにも苦労をかけましたわね」

 ニコリと笑顔をふるまい、トモは歩き始めた。
 
 女学校の表門を通り校舎へ向かいながら、溜息を()く。

 ……お父さまは心配が過ぎるわ。雨の中を傘をさしてゆっくり歩くのも結構なことなのに。ほら、みんなご自分で歩いてらっしゃる。

 登校してきた他の女学生たちが、しきりに足元を気にしながらトモを追い越していく。
 今日は有名な先生がお越しになるらしい。トモは唇をきゅっと引き結び、ひとつ気合いを込めて白塗りの校舎へ入っていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ハルはぬかるみに足を取られて、すっ転んだ。

「おや君、立てるかね」

 背広(スーツ)に灰色の外套(がいとう)姿の紳士が、ハルに手を差し伸べる。しかしハルは首を横に振って、自ら起き上がった。

「もったいねぇ。あちきの手は汚ねぇんでござりんす」

 そう言って、散らばった着物や小物をかき集め風呂敷へ詰っ込み、立ち上がって何度も頭を下げながらパタパタと駆けていく。見送った紳士は彼女の古めかしい言葉遣いに少し笑った。

 リボンで適当にまとめた(くり)色の長髪を上下に揺らし、使い古された薄柿(うすがき)色の着物を振り乱しながら、泥だらけの草履(ぞうり)を踏み込んで小走りする。狭い十字路で、はたと足を止めて大袈裟な動きで家々を眺め見渡す。

 聞いていた話だと、この辺りの大きな屋敷のはず。親の借金のせいで茶屋に売り払われ半玉(はんぎょく)として修行していたが、茶屋が大火によって全焼してしまい今度はどこぞの商家で下女(げじょ)として働くよう手配師に言われ、その商家へ赴くために初めて足を踏み入れた土地で迷っている。

 手配師にしっかり道順を聞いて来たものの、細かいことは忘れてしまった。ハルはなんでもすぐに忘れてしまう。時々、忘れたということすら忘れてしまう。風呂敷には手配師が書いてくれた覚書(おぼえがき)を入れてあるのに、そのこともすっかり忘れていた。

 さっきの紳士に道を尋ねるべきであったが、すっ転んで気が動転していたのでせむかたなし。ふと目が合った、着物に西洋ハットという出で立ちの立派な髭を生やした男性に尋ねてみる。

「ちょいと、そこのお方。水野というおっきな家をご存知ではござりんせんか」
「ああ、それならこの道を真っ直ぐ、粉屋(こなや)で左に曲がって少し行った(へん)に、間口の大きな水野商店の看板があるぞ」
「かたじけねぇ、かたじけねぇこってす」

 立派な髭の男性は妙な物言いに首を(かし)げ、また小走りで駆けていく彼女を見送った。

 ハルは言われた通り進み、水野商店の裏口に回って、立派な木扉の前で立ち(すく)む。泥の付いた風呂敷を(かか)え着物は雨でずぶ濡れ。足先は泥に(まみ)れ、身体からは汗の臭いがぷんぷんしている。
 こんななりで、どうやって扉を叩いたものかと考える。考えても良い案など浮かばないだろうけれど、取り敢えず考えたら何か良い事が起こるかも知れないと思って考える。

 考えながら扉の前で泥を蹴って彷徨(うろつ)いていると、買い物帰りの女中(じょちゅう)らしき女が声をかけてきた。

「あんた、何をしてなさんの」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 本日の授業が全て終わり、トモは帰途につく。

 朝方ぬかるんでいた道は、昼過ぎからの強い日差しで一転カラカラに乾いていた。靴を踏み出すたび、ふわりふわり砂煙が上がる。
 石造りの橋を渡り切り、川に沿って歩く。川辺にはシロツメクサ、スギナ、ツユクサ、エノコログサなどの草花がのさばっている。路上には日傘をさす子守の女性や、棒手振(ぼてふ)りの行商人、インバネスコートに山高帽子の紳士、飴売りの出店に(たか)る子供たち。

 人の往来を()けて道の中ほどを歩いていると、鉄道馬車をひく馬が真横を通り過ぎていった。もわっと立ち昇った砂煙を手で払う。

 ……お騒がしいこと。もう少し静かな道を通ったら良かったのかしら。

 少し足を早めて宅へ向かう。泥んこの靴や少し汚れた袴をウメに見せたら、きっとぶつくさ言われるに違いない。そう思ってまた溜息をひとつ。

 商売の邪魔にならぬよう裏門へ。
 突然、通用口から知らない女の子がポンと押し出された。尻もちをつきながら前を(にら)んでいる。

 遅れて通用口からのっし、のっしと現れたウメが、腰に手を当て背を仰け反らせるようにして張りのある声を出す。

「洗濯もできない木偶(でく)(ぼう)が、何しに来たのさ?!」

 トモはふたりに駆け寄り、突き飛ばされた様子の女の子を見る。やはり年端もいかない幼な顔で、左手に汚れた手拭いを握りしめている。

「ウメ、いかがなさったの?」
「新しく入った下女を仕込んでましてね、掃除の仕方はめちゃくちゃ、洗濯桶はひっくり返す、教えてもへぇ、へぇ言いながらすっかり忘れちまうんです」
「あら、あら。それは困ったわね」

 女の子の横にしゃがみ、トモは彼女の背中に手を当てた。

「いきなり叱るのは、いけないことよ。ほら、手が震えてらっしゃる」

 トモの言葉でそれより強く出られなくなったウメは、顔を歪ませて歯軋り音を立てたあと、トモに会釈して(きびす)を返し、颯爽(さっそう)と中へ入っていった。

「お怪我はない? ウメは癇癪(かんしゃく)持ちだけれど、細かいところに気がつく良い女中ですよ」

 トモが手を差し出す。その手を取らずに、彼女はいったん前のめりになって膝をつき、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、遅れて立ったトモに向かって微笑む。

「危ねぇ、危ねぇ。ついついあの女の顔を()(ぱた)いちまうところでござりんした」

 よく見ると、恐ろしさで震えているのではなく、強く(こぶし)を握りしめて震えていたようだ。

喧嘩(けんか)(ぱや)いのはいけません。それより、お着物が汚れていますよ。お着替えなさったらいかが?」
「へぇ。あちきの服はみんな泥んこになっちまったんでさぁ。せむかたなし、せむかたなし」

 明治ももう二十三年にもなろうというのに、随分と古めかしい言葉を(つか)う彼女がおかしくて、トモは含み笑いした。

「フフ……そうなの。あなた、お名前は何ていうのかしら」
「ハルといいます。今日から水野の家の下女になりやした」
「わたしは、トモ。どうぞよしなに」

 ハルの顔が、まるでアサガオの花が開いたかのようにパァッと明るくなる。

(トモ)! 友だちは、あちきが一番好きだった人でありんす!」

 ハルがぐいぐい顔を寄せてきた。その目は二重(ふたえ)(ほの)かに髪と同じ栗色が入っている。もしかすると、少し異人の血を継いでいるのかもしれない。

「友だちではなくて、トモという名前ですよ。……ハル、その友だちはどうなさったの?」

 ハルは目を伏せて俯き、唇を尖らせた。

「……焼けて、死んじまった」

 今度は(しお)れた花のようになって少し瞳を(うる)ませた。

 ……数日前に浅草で大火があったわ。その時に大切な人を失って、居処(いどころ)も無くしてここへやって来たということかしら。それなら、何とか元気づけてあげないと。

「あい、分かりました。それでは、わたしのことを友だちと思ってくださいな。だからもう泣かないで」

 萎れていた花が、にわかに返り咲く。

「また友だちができやした! こんなに嬉しいことはねぇでござりんす!」

 何度も飛び上がり喜色満面に溢れるハルを見て、安心したトモは頬を緩める。

 こうして、トモとハルは出逢った。
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