第1話 友
文字数 3,154文字
人力車の
「もし、ここでよろしくてよ」
俥夫は「へぇ」とひと
トモは洋式の黒靴で土に降り立つ。少しの泥が跳ねて袴に飛んだので、俥夫は慌てたような困ったような顔を見せた。
「お嬢様、お気をつけなすって」
「少しくらい汚れても構いやしません。このくらいの雨でどうにも苦労をかけましたわね」
ニコリと笑顔をふるまい、トモは歩き始めた。
女学校の表門を通り校舎へ向かいながら、溜息を
……お父さまは心配が過ぎるわ。雨の中を傘をさしてゆっくり歩くのも結構なことなのに。ほら、みんなご自分で歩いてらっしゃる。
登校してきた他の女学生たちが、しきりに足元を気にしながらトモを追い越していく。
今日は有名な先生がお越しになるらしい。トモは唇をきゅっと引き結び、ひとつ気合いを込めて白塗りの校舎へ入っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハルはぬかるみに足を取られて、すっ転んだ。
「おや君、立てるかね」
「もったいねぇ。あちきの手は汚ねぇんでござりんす」
そう言って、散らばった着物や小物をかき集め風呂敷へ詰っ込み、立ち上がって何度も頭を下げながらパタパタと駆けていく。見送った紳士は彼女の古めかしい言葉遣いに少し笑った。
リボンで適当にまとめた
聞いていた話だと、この辺りの大きな屋敷のはず。親の借金のせいで茶屋に売り払われ
手配師にしっかり道順を聞いて来たものの、細かいことは忘れてしまった。ハルはなんでもすぐに忘れてしまう。時々、忘れたということすら忘れてしまう。風呂敷には手配師が書いてくれた
さっきの紳士に道を尋ねるべきであったが、すっ転んで気が動転していたのでせむかたなし。ふと目が合った、着物に西洋ハットという出で立ちの立派な髭を生やした男性に尋ねてみる。
「ちょいと、そこのお方。水野というおっきな家をご存知ではござりんせんか」
「ああ、それならこの道を真っ直ぐ、
「かたじけねぇ、かたじけねぇこってす」
立派な髭の男性は妙な物言いに首を
ハルは言われた通り進み、水野商店の裏口に回って、立派な木扉の前で立ち
こんななりで、どうやって扉を叩いたものかと考える。考えても良い案など浮かばないだろうけれど、取り敢えず考えたら何か良い事が起こるかも知れないと思って考える。
考えながら扉の前で泥を蹴って
「あんた、何をしてなさんの」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
本日の授業が全て終わり、トモは帰途につく。
朝方ぬかるんでいた道は、昼過ぎからの強い日差しで一転カラカラに乾いていた。靴を踏み出すたび、ふわりふわり砂煙が上がる。
石造りの橋を渡り切り、川に沿って歩く。川辺にはシロツメクサ、スギナ、ツユクサ、エノコログサなどの草花がのさばっている。路上には日傘をさす子守の女性や、
人の往来を
……お騒がしいこと。もう少し静かな道を通ったら良かったのかしら。
少し足を早めて宅へ向かう。泥んこの靴や少し汚れた袴をウメに見せたら、きっとぶつくさ言われるに違いない。そう思ってまた溜息をひとつ。
商売の邪魔にならぬよう裏門へ。
突然、通用口から知らない女の子がポンと押し出された。尻もちをつきながら前を
遅れて通用口からのっし、のっしと現れたウメが、腰に手を当て背を仰け反らせるようにして張りのある声を出す。
「洗濯もできない
トモはふたりに駆け寄り、突き飛ばされた様子の女の子を見る。やはり年端もいかない幼な顔で、左手に汚れた手拭いを握りしめている。
「ウメ、いかがなさったの?」
「新しく入った下女を仕込んでましてね、掃除の仕方はめちゃくちゃ、洗濯桶はひっくり返す、教えてもへぇ、へぇ言いながらすっかり忘れちまうんです」
「あら、あら。それは困ったわね」
女の子の横にしゃがみ、トモは彼女の背中に手を当てた。
「いきなり叱るのは、いけないことよ。ほら、手が震えてらっしゃる」
トモの言葉でそれより強く出られなくなったウメは、顔を歪ませて歯軋り音を立てたあと、トモに会釈して
「お怪我はない? ウメは
トモが手を差し出す。その手を取らずに、彼女はいったん前のめりになって膝をつき、ゆっくりと立ち上がった。
そして、遅れて立ったトモに向かって微笑む。
「危ねぇ、危ねぇ。ついついあの女の顔を
よく見ると、恐ろしさで震えているのではなく、強く
「
「へぇ。あちきの服はみんな泥んこになっちまったんでさぁ。せむかたなし、せむかたなし」
明治ももう二十三年にもなろうというのに、随分と古めかしい言葉を
「フフ……そうなの。あなた、お名前は何ていうのかしら」
「ハルといいます。今日から水野の家の下女になりやした」
「わたしは、トモ。どうぞよしなに」
ハルの顔が、まるでアサガオの花が開いたかのようにパァッと明るくなる。
「
ハルがぐいぐい顔を寄せてきた。その目は
「友だちではなくて、トモという名前ですよ。……ハル、その友だちはどうなさったの?」
ハルは目を伏せて俯き、唇を尖らせた。
「……焼けて、死んじまった」
今度は
……数日前に浅草で大火があったわ。その時に大切な人を失って、
「あい、分かりました。それでは、わたしのことを友だちと思ってくださいな。だからもう泣かないで」
萎れていた花が、にわかに返り咲く。
「また友だちができやした! こんなに嬉しいことはねぇでござりんす!」
何度も飛び上がり喜色満面に溢れるハルを見て、安心したトモは頬を緩める。
こうして、トモとハルは出逢った。