第14話 幽霊

文字数 3,402文字

 ハルはお堂を飛び出して、向拝(こうはい)下の段木で足を踏み違え、盛大にすっ転んだ。くるりんくるりんと前転し、回転が停まると雑草の上、うつ伏せのまま両手で頭を抱えている。

 彼女を追うようにして階段を下りてきたトモが、心配そうにハルの顔を覗く。

「お怪我はありませんか?」
「うぅ……幽霊怖い……」

 続いてお堂をのそのそと出て来た玅安(みょうあん)が、首の付け根を掻きながらひとつ大きく息を吐いた。

「まったく、いくら幽霊画ったって軸から飛び出て来るわけでもあるめぇに。お(めぇ)さんの怖がり方の方がよっぽど(こえ)ぇよ」
「先生! ハルは怖がりなの。人よりも想像する力が強いんです」
「怖がりねぇ。おっきな大人の頬は思い切り叩くくせにな」
「おや、まだ根に持ってらっしゃったのかしら」
「いんや……そうじゃねぇけどさ」

 小刻みに震えるハルをなんとかお堂に戻し、ひときわ異彩を放つ幽霊画の掛け軸に近付けぬよう気を付けながら、三人でずらっと並ぶ掛け軸を見て廻る。
 ここは、とある寺院の宝物殿代わりの堂で、境内にあっても本堂から少し離れている。玅安の全盛期に描かれた絵が納められており、ハルに見せるため力車(りきしゃ)を使いはるばるやって来た。なぜかトモもついて来たわけだが、どうせ「友達ですから」と言うに決まっているので玅安は何も聞かず気にせず。

「どうだ、おいらにもやる気があった頃の絵だ。(こい)の滝登りやら梅の花、桜、山水画に鶴亀、花鳥風月。良く描けてるだろう」
「綺麗ですね。ねぇハル、まるで花が本当にそこにあるみたい。このやさぐれた人物から生み出されたとはとんと思えません」
「ただの髭狸(ひげだぬき)じゃあなかったんでありんすね」
「お(めぇ)ら……」

 ハルはまだ、鰻の絵に取り掛かっていない。大きな絵を描くのも、人から依頼されたものを正式に描くのも初めてとあって、まったく筆が進まずにいた。それで、盆以外の時期は締め切っているこのお堂を特別に開けてもらい、玅安の作品を見せることにしたのだ。

「後ろの岩とか木は、墨で?」
「そうだ。墨に五彩あり、ってな。水墨は難しいが上手くなれば一気に絵が良くなる。まだ筆の使い方も分からねぇだろうから、今度教えてやるよ」

 玅安は一つ一つ、自分の絵を説いていく。しかしそれを聴きながらも、ハルはずっと奥にある幽霊画のことを気にかけていた。

「先生、あの髪の長い女を、どうして描いたのでござりんすか」
「あれはな、線によって筆を使い分けてる。白装束のふちは線引き用の筆だし、顔は面相筆、平たい筆に丸い筆。白黒でもあれだけの……」
「違うよ。なんで、あんな怖い絵を描いたんで?」
「そういうことか。あれな、鬼には鬼を、悪いもんには悪いもんをってんで、除災の為に描いてくれと頼まれたんだ。この先お(めぇ)だって名が売れればそういうもんも頼まれることだってあるだろうさ。そんときゃ描くしかねぇぞ」
「絵描きというのは大変様なことでござりんすな……」

 その時、雷鳴が(とどろ)き、途端に辺りが暗くなり始めた。どこからか雨の匂いが漂ってくる。浜縁に出た三人が空を見上げると、みるみるうちに空は墨を落としたように黒くなっていき、一方で地上の景色は色を失っていった。

──ガラピッシャン!

「ひっ!」

 ハルはトモに(すが)りつくようにしてもたれかかった。
 ぽつり、ぽつりと降り出した雨は、空に閃光走るたびその足を強めていく。やがてお堂の周りに水溜まりが作られ、はたして湖の様相となりお堂からの脱出を不可能としてしまった。

「あらあら、大変困りましたね。これでは本堂に下りようがありません。車夫(しゃふ)たちは雨宿りできてるんでしょうか」
「雲の動きが(はえ)ぇから、そのうち止むだろうさ」
「くわばら、くわばら……」

 ハルは両手を()り合わせながら、目を閉じてぶつぶつ唱えている。

「おお、雷避けのまじないか。妙な事だけ知ってんだなぁ、ハルは」
「先生。そうやってすぐに茶化さないことですわ。また頬をぶたれますよ」
「そいつは、くわばらくらばらだぜ」
「こぉらっ!」

 叱りつけようとするトモから逃げるようにして、玅安はお堂の中へ入っていった。振り上げた拳をゆらゆら揺らしながら、激しく堕ちて来る雨粒を上に辿り、天を睨む。なぜ苛々しているか分かっている。腹が減っているのだ。

「ふぅ。お腹、空いたなぁ」
「くぅわばら、くわばら……」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 浜縁にて、柱にもたれて座っているハル、トモ。いつの間にかふたりとも小さな寝息を立てていた。木板の軋む音に気付き、トモはうっすら目を開ける。

「少し小降りになってきたな」

 玅安は恨めしそうに空を見つめながら、トモの横で座り込んだ。

 ふとハルが目を覚ます。
 彼女が遠目に視線を当てると、そこに不思議な光景があった。

 ふわふわと浮かぶ、(あお)い火の玉。
 それは墓の方からやって来る。一つではない。二つ、三つと数を増やしていく。

 彼女はトモの、着物の袖を強く、ぐい、ぐいと引っ張る。

「ね、ねぇトモ。……あれ、何……?」
「あれって……、きゃっ! 先生、あれ!」
「あれあれうるせぇな……うおっ! 鳥じゃねぇな、ありゃ火の玉か」
「ど、どうしましょう。近付いて来ますよ!」
「幽霊?! ねぇトモあれ幽霊?!」

 座ったまま慌てる三人、しかし火の玉はある程度離れたところで漂っており、それより近付く気配を持っていなかった。

 そしてトモが地上を、震える右手で指差す。

「あ……。あれ、お……女……」

 いつの間にか、長い髪の女が佇んていた。どうやら火の玉は、その女の周りを徘徊しているようだ。小雨の薄い膜を通しても分かる、白装束に黒髪の、まるで幽霊画から出て来たような風貌に、玅安もハルも血の気が引いたような表情で固まっている。

 しばらくの間、その女も三人も動かないでいると、ごろごろと音が鳴った。雷ほど低い重い音ではない。トモの腹から出た音でもない。

 ハルが何かに気付き、階段を下りて、そろりそろりと女へ向かう。

「ハル……」

 ハルを追いかけようと立ち上がったトモを、玅安が制した。

「待て。ハルには何か考えが……あるかな? わざわざ出てったんだ、なんかあんだろ」

 ハルは、女の一間(いっけん)ほど手前で止まり、その長身を見上げた。顔は(かすみ)がかったようでよく見えない。ただ、じっとハルの動静を注視しているような感じだった。

「お腹が減ったんでありんすか?」

 女はその言葉に応えたつもりか、少し身体を揺らした。
 そして、ふらふらと墓へ向かって行く。足が有るのか無いのか、白装束だけがすぅーっと動いている。ぬかるむ足元を気にもせず、ハルはそれについて行った。

 やがて、墓の奥の方、読めぬほどの薄い文字が刻まれた小さな岩の前で止まると、女は次第にその姿を景色に溶かして、消えてしまった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日、一転晴れ渡った空の下。ハルとウメはその墓の前に居た。
 ハルが饅頭三つ乗せた陶器の皿を供えると、(ほうき)を持つ住職が歩み寄った。

「もし、その墓に眠る者をご存じか」
「昨日の雨のうちに、見やした。髪の長い女でありんした」
「ふむ。わしも子供の頃に何度か出くわしましたな。父によればその墓には、腹を減らしてこの寺に舞い込み、すぐに亡くなってしまった名も知れぬ女性が眠っているとか」

 ハルは寺からの帰りに、玅安の工房へ立ち寄った。先日言い合いに発展したウメは少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも、ハルに続いて工房の戸をくぐる。

「せんせぇ! せんせはいらっしゃいまするか?!」

 玅安が欠伸をしながら、二階から下りてきた。

「おぅハル、と……」
「ウメです」
「おお、そうだった、ウメさんだ。この間はすまなかったな」
「え? いえ……、あっしの、……ほうこそ……」
「昨日見た腹減り女の絵を描きたいんでござりんす。描いて、あの寺に持っていきたい」
「お(めぇ)、鰻屋の仕事はどうすんだ」
「描く。でも、どうしてもあの女を描いてやりたいんでありんす」

 それから三日間、ハルは玅安の工房にて寝泊まりし、寝食すら二の次で取り憑かれたように描き続けた。下手くそな筆使いを指摘されてはやり直し、線が思い通りに引けなければやり直し、何度も何度もやり直して、或る朝ようやく納得のいく幽霊画を描き上げた。

 禍々しい風体の女が、両手に饅頭を持ち、嬉しそうに頬張る姿。

 玅安はそれを知り合いの表具師に渡し、仕立てられた掛け軸を先の寺へ納めた。
 それが、やがて日本画の大家(たいか)となった立木(たちき)ハルという女性の、初めての作品だった。
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