第8話 手紙
文字数 3,454文字
千切れ雲の浮かぶ空を陽がてっぺんまで昇りつめた頃。その部屋では水野家の女中三人が薄布団の上、寝間着 を細帯で軽く締めて休んでいた。
その傍 らにて、ハルがうずくまり絵を描いている。彼女も古着の薄い浴衣 を寝間着として適当に纏 っているが、それを振り乱して大判の古紙 に花で作った色を落としていく。
「ハルぅ、まだ洗濯物があるんだ。少しは休んどかないと後 がきついよ」
ウメが薄目を開けて腕を伸ばし、ハルの浴衣を軽く引っ張った。それにも気付かず、ハルは平たい石の上に置いた花びらをもう一つの丸い石で擦 り、絵を描くための色を作り出していた。
「……あーあ、こいつ何 も聴いちゃないねぇ」
うんざりした表情で起き上がり、ウメは後ろからハルに覆い被さった。ハルはびっくり仰天、半身を折り曲げられて両肘を畳についた。
「なんでぃウメ。手をつけたら畳が汚れちまうだろ」
「そしたらあんたが綺麗にしなよ。……あんた、ちょっとは寝とき。昨日だってふらふらしてたじゃないか」
「わかった、わかったでありんす。この色まで終わらしたらね」
ウメはそのままハルに抱きつき、紙の上に描 かれた風景を見つめる。
「綺麗な絵だねぇ。どうしてこんなちんちくりんから、こんな素敵なもんが出てくるんだか」
言うだけ言ってウメは、ぱっと体を離してまた横になった。ひとつ息を吐 いて、ハルは先がぼそぼそになった筆で石から色を取り、古紙に落とし続ける。
しばらくして、下階から平太 の軽妙な声が響いてきた。
「ごめんよ、ウメさんかハルは居 りゃんすか?」
ウメが頭をぽりぽり掻きながら起きて、女中部屋の出入り口から顔を出す。
「なんだい、こちとら小休みだよ」
「手紙。お嬢様宛ての」
手を伸ばしても届かない距離につき、ウメは急勾配の階段を下りる。お嬢様と聞いてハルも続き女中部屋から出てきた。平太がぎょっとして目を逸 らし、忠告する。
「……寝間着がはだけてるでやんす」
ハルは乱れた浴衣を両手で閉めた。そもそも帯をつけていなかったことに気付くが、特に恥じらう様子も無い。そのだらしなさにウメが鼻を鳴らす。
「あんたねぇ……。ま、いいや。それより平太、お嬢様宛てなら旦那にお渡しでいいじゃないの」
「番頭に言われたんす。送り主が三郎 さんよって、旦那にも奥様にも見せんようにって」
喋りながらウメに葉書大の細長い封筒を渡し、その後 ちらりとハルを見た。
「それと、……えっと、ハル」
「へぇ」
「この間 、絵を描 くって店の古紙を持ってったろ。完成したらでいいんで、見してつかぁさい」
「あぁうん。はいな」
平太はいささかの微笑みを浮かべ、くるりと踵 を返して軽快な足取りで土間を出て行った。ウメがにやにやしながらハルの顔を覗 く。
「あーらやぁだ。平太のやつが、ハルをねぇ……」
ハルはそう言われても何がなんやら判 らず、きょとんとするのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕陽が西の端へ傾いて空を浅紅 色に染める頃。ハルは乾いた藍染 の手拭いを頰被 りにして、そろぉりそろり……、母屋へと近付いていく。
ウメより言いつけられた使命が一つ。右手に持つ一通の手紙をトモへ届けるというものだ。
栄達 にもミヨにも気取 られてはいけない。忍びに忍んで届けよということだった。
「そんなこと、あちきに出来るんでありんしょか……」
低い声でぶつぶつ呟 きつつ抜き足差し足で松の木の間 を抜けて、まずは敵情視察だ。大きな庭石に背中を預け姿を隠し、すぅっと顔だけ出して簾戸 の奥の座敷を睨みつける。
栄達が客人をもてなしている様子で、二人の男性がくつろいだ姿勢を取り、座卓に置かれた茶を飲んでいる。いましがたミヨが立ち上がり濡 れ縁 に出たところだ。トモの姿は無いから、自室だろう。
それではと、ハルは姿勢を低くしたまま母屋を回り込み、逆の広縁 へと辿り着いた。ミヨは台所でお茶請けの用意でもしているものと思われる。
「今でぃ。よっと……」
縁 の下に草履 を隠し、よじのぼるようにして縁側へ上がりこむ。起き上がりしな中腰で這い進み、台所と座敷を結ぶ廊下に出た。ここを座敷と反対の方向に突っ切ればトモの居室だ。耳を欹 て、足をひょいひょい前に出して静かに歩いていく。
果たしてトモの居室前。襖 に手の甲を軽く二回、トン、トンと当てる。
「はい」
「……ハルです。トモはそこにおいででござりんすか?」
部屋の中からトモの笑い声、すぐに肩幅の分だけ襖が開 かれた。
「どうなさったの?」
ハルは左右に目配りして、体を部屋の中へ捩 じ込み、右手に持つ封筒をスッと見せつけた。これにてウメからの命 は完遂。
「三郎さんからの手紙でござりんす。番頭さんと平太さんとウメが誰にも知られぬように届けろと」
「皆 知ってるじゃない。一体、誰が知らないというのかしら」
「旦那様と……、ハッ!」
ミヨが襖を開けた。部屋の中を見渡し、最後にトモを見る。
「おかしいわね。話し声を聴いた気がするのだけれど」
「本を読んでいました。大きな声の方 が良く覚えられましてよ」
そう言ってトモは薄い滑稽本 を見せた。
「そんな出鱈目 な本ばかり読んでいてはいけませんよ。……お客様がまだいらっしゃるから、お夕飯 は少し遅くなりそうです」
「あい、分かりました」
もういっぺん部屋をぐるっと眺め廻して、ミヨは襖をピシャリと閉めた。足音が遠ざかっていく。
「……もう大丈夫よ」
トモの後ろで縮こまっていたハルが、ゆっくり体を起こした。
「いやはや危なかったでありんす。見 っかったらお終 ぇでぃ」
「フフ、今日は忍者ごっこなのかしら。いつも楽しそうね」
笑いながらトモは封 を丁寧に剥 がし、封筒の中から便箋を取り出した。広げるなり、右肩に顎 を乗せてきたハルが一緒に読もうとする。
「……いとしい……へ……」
トモは頬 を紅 くして便箋を閉じ、封筒に戻した。
「これはまだ、ハルには読ませられません」
「えぇ、どうしてさ。淫靡 なお話ですかい?」
「なぜそんな言葉をご存知なの。そんなことはありませんが、わたし宛てのお手紙だからわたしだけで読みます!」
襖が一気に開かれ、ミヨが部屋に押し入った。立ち尽くすトモの後ろに回り、ぐるっと部屋を廻り、隅々まで調べ上げる。
「……やや、おかしいわ。さっきまで話し声が聴こえてたのに」
「こちらの本は、かけ合いが面白いんです。お母様もお読みになりますか?」
「よしとくれ。滑稽本なんざに興味は無いよ」
何度も首を傾 げながらミヨは部屋を出て行った。襖を閉め、トモは悲しみの表情で大きく息を吐 いた。
「わたし、平生 そんなに太って見えてるのかしら」
着物の裾 から笑い声が漏れる。そしてハルが這い出てきた。
「洗濯と掃除のお手伝いしたら、痩せるかもね」
「……うん、本当にそうしようかな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕食後、濡れ縁に行燈 が置かれていた。胡座 を組み手紙を読み耽 る栄達 の横では、正座したトモが恥ずかしそうに俯 いている。
「ふぅむ……。来年の春には結婚したいという話か」
「早計だと思います。まだ二年の課程が残っていますのに」
「そうだな、学校は卒業しておいた方 が良 いだろうて。トモを好いてくれるのは有り難いことだが……」
トモは顔を真っ赤にして栄達へ向けた。
「まだ数回しかお会いしてないのに、いとしさやら愛やらと言われても困ります。そういう言葉は、存分にお互いを知った上でのものではないでしょうか」
「心持ちに惹 かれた、と書いてあるな」
「お父様、いちいち読み上げなくてよろしくってよ」
「……すまん」
鹿威 しがコンと音を立てた。しばらくの沈黙の後 、トモが口を開 く。
「ハルを、……あの。……ハルを連れていきたいと言ったら、お父様はどう思われますか?」
「あちらにハルを? 馬鹿なことを言ってはならん。下女 を嫁入り道具にするなど、末代まで恥を遺 すことだぞ」
「道具とは思っていません。ハルは友だち……大事な人。ずっと一緒にいると、そう約束したんです」
栄達はしばらくトモの顔を見つめ、冗談ではないことを確かめた。そして左手をトモの右肩に置き、ゆっくりと、諭 すように話す。
「叶えられない約束は、嘘をつくのと同じことだ。何がしかの事態をやり過ごすためについてしまった嘘なら、早めに取り消してあげなさい。ハルが可哀想だと思わんか」
「違う!」
トモは栄達の胸に飛び込んだ。
「わたしが一緒にいたいの! ……ずっと、ハルと……、一緒に……」
肩を震わすトモの頭を撫でながら、栄達は縁側の端に歩 んで来たミヨに気付き、ひとつ頷 く。暗がりの中、ミヨが手拭いで目頭を押さえていた。
その
「ハルぅ、まだ洗濯物があるんだ。少しは休んどかないと
ウメが薄目を開けて腕を伸ばし、ハルの浴衣を軽く引っ張った。それにも気付かず、ハルは平たい石の上に置いた花びらをもう一つの丸い石で
「……あーあ、こいつ
うんざりした表情で起き上がり、ウメは後ろからハルに覆い被さった。ハルはびっくり仰天、半身を折り曲げられて両肘を畳についた。
「なんでぃウメ。手をつけたら畳が汚れちまうだろ」
「そしたらあんたが綺麗にしなよ。……あんた、ちょっとは寝とき。昨日だってふらふらしてたじゃないか」
「わかった、わかったでありんす。この色まで終わらしたらね」
ウメはそのままハルに抱きつき、紙の上に
「綺麗な絵だねぇ。どうしてこんなちんちくりんから、こんな素敵なもんが出てくるんだか」
言うだけ言ってウメは、ぱっと体を離してまた横になった。ひとつ息を
しばらくして、下階から
「ごめんよ、ウメさんかハルは
ウメが頭をぽりぽり掻きながら起きて、女中部屋の出入り口から顔を出す。
「なんだい、こちとら小休みだよ」
「手紙。お嬢様宛ての」
手を伸ばしても届かない距離につき、ウメは急勾配の階段を下りる。お嬢様と聞いてハルも続き女中部屋から出てきた。平太がぎょっとして目を
「……寝間着がはだけてるでやんす」
ハルは乱れた浴衣を両手で閉めた。そもそも帯をつけていなかったことに気付くが、特に恥じらう様子も無い。そのだらしなさにウメが鼻を鳴らす。
「あんたねぇ……。ま、いいや。それより平太、お嬢様宛てなら旦那にお渡しでいいじゃないの」
「番頭に言われたんす。送り主が
喋りながらウメに葉書大の細長い封筒を渡し、その
「それと、……えっと、ハル」
「へぇ」
「この
「あぁうん。はいな」
平太はいささかの微笑みを浮かべ、くるりと
「あーらやぁだ。平太のやつが、ハルをねぇ……」
ハルはそう言われても何がなんやら
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕陽が西の端へ傾いて空を
ウメより言いつけられた使命が一つ。右手に持つ一通の手紙をトモへ届けるというものだ。
「そんなこと、あちきに出来るんでありんしょか……」
低い声でぶつぶつ
栄達が客人をもてなしている様子で、二人の男性がくつろいだ姿勢を取り、座卓に置かれた茶を飲んでいる。いましがたミヨが立ち上がり
それではと、ハルは姿勢を低くしたまま母屋を回り込み、逆の
「今でぃ。よっと……」
果たしてトモの居室前。
「はい」
「……ハルです。トモはそこにおいででござりんすか?」
部屋の中からトモの笑い声、すぐに肩幅の分だけ襖が
「どうなさったの?」
ハルは左右に目配りして、体を部屋の中へ
「三郎さんからの手紙でござりんす。番頭さんと平太さんとウメが誰にも知られぬように届けろと」
「
「旦那様と……、ハッ!」
ミヨが襖を開けた。部屋の中を見渡し、最後にトモを見る。
「おかしいわね。話し声を聴いた気がするのだけれど」
「本を読んでいました。大きな声の
そう言ってトモは薄い
「そんな
「あい、分かりました」
もういっぺん部屋をぐるっと眺め廻して、ミヨは襖をピシャリと閉めた。足音が遠ざかっていく。
「……もう大丈夫よ」
トモの後ろで縮こまっていたハルが、ゆっくり体を起こした。
「いやはや危なかったでありんす。
「フフ、今日は忍者ごっこなのかしら。いつも楽しそうね」
笑いながらトモは
「……いとしい……へ……」
トモは
「これはまだ、ハルには読ませられません」
「えぇ、どうしてさ。
「なぜそんな言葉をご存知なの。そんなことはありませんが、わたし宛てのお手紙だからわたしだけで読みます!」
襖が一気に開かれ、ミヨが部屋に押し入った。立ち尽くすトモの後ろに回り、ぐるっと部屋を廻り、隅々まで調べ上げる。
「……やや、おかしいわ。さっきまで話し声が聴こえてたのに」
「こちらの本は、かけ合いが面白いんです。お母様もお読みになりますか?」
「よしとくれ。滑稽本なんざに興味は無いよ」
何度も首を
「わたし、
着物の
「洗濯と掃除のお手伝いしたら、痩せるかもね」
「……うん、本当にそうしようかな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕食後、濡れ縁に
「ふぅむ……。来年の春には結婚したいという話か」
「早計だと思います。まだ二年の課程が残っていますのに」
「そうだな、学校は卒業しておいた
トモは顔を真っ赤にして栄達へ向けた。
「まだ数回しかお会いしてないのに、いとしさやら愛やらと言われても困ります。そういう言葉は、存分にお互いを知った上でのものではないでしょうか」
「心持ちに
「お父様、いちいち読み上げなくてよろしくってよ」
「……すまん」
「ハルを、……あの。……ハルを連れていきたいと言ったら、お父様はどう思われますか?」
「あちらにハルを? 馬鹿なことを言ってはならん。
「道具とは思っていません。ハルは友だち……大事な人。ずっと一緒にいると、そう約束したんです」
栄達はしばらくトモの顔を見つめ、冗談ではないことを確かめた。そして左手をトモの右肩に置き、ゆっくりと、
「叶えられない約束は、嘘をつくのと同じことだ。何がしかの事態をやり過ごすためについてしまった嘘なら、早めに取り消してあげなさい。ハルが可哀想だと思わんか」
「違う!」
トモは栄達の胸に飛び込んだ。
「わたしが一緒にいたいの! ……ずっと、ハルと……、一緒に……」
肩を震わすトモの頭を撫でながら、栄達は縁側の端に