第13話 鰻

文字数 4,060文字

 余所(よそ)行きの(あで)やかな着物を(まと)ったハルは、ぎこちない動きで歩く。玅安(みょうあん)に連れられて浅草川近くの鰻屋(うなぎや)を訪れようとしているが、鰻をご馳走になるわけではない。

「なぁんで水野の父子(ちちこ)がついてくんだ。用事があんのはハルだけなんだぜ」
「わたしはハルの友達ですから」
「私はハルの父親代わりだ」

 玅安はさらに、余計な一人に視線を移した。

「そんで、あんたは何者(なにもん)なんだ?」
「ウメと申します。水野家の女中で、ハルの親玉です。鰻は苦手です」
「なら帰ってくれよ。こんなぞろぞろ引っ連れて行くような用事じゃねえ。仕事の話すんだ」
「いいえ、帰りません。鰻は食べずとも酒が飲めるかも知れませんので」

 ハル以外は完全に食事目当てだろう。朝から来たのがまずかったと玅安は後悔しきりだ。久しぶりの仕事の話、少し気合いを入れて工房を出たというのに、なんだか虚を突かれたような感じでひどく煩わしい想いをすることになってしまった。

 気を取り直し、鰻屋の暖簾をかき分けてくぐる。主人の寛次郎(かんじろう)が明るい笑顔を見せ、両手で鰻を持ちつつ出迎えた。

「玅安、早速来やがったなぁ! ……その方々は?」
「このあいだ話をしたハルと、関係ねぇ奴ら。ハル、寛次郎に挨拶しろ」
「あ、あの、こんたびはかたじけねぇこってす……」
「なんだよその挨拶」
「ガハハハ! いいってことよ、ちょいと客席に座って待っててくれな」

 寛次郎は鰻をしかと握ったまま厨房へ引っ込んだ。夫婦で切り盛りしているこの店は江戸の大火後に建て直され、もう寛次郎で三代目となる。鰻めしは安くて精がつくと界隈の大工や左官、鍛冶に桶屋、行商人などなど多くの人々に大人気だ。

女将(おかみ)さん、私は蒲焼(かばや)きで頼む」
「わたしは、鰻丼(うなどん)にします」
「あちきも鰻丼でよござりんす」
「酒」
「だから食べに来たんじゃねえって……おいら蒲焼きで」

 まだ昼四ツと早めの刻だから他に客は居ない。これからぽつぽつと入り始める前に仕事の話をしたかったのに。と、玅安は歯ぎしりをする。するが、自分も腹が減ってしまったのでとやかく言えない。諦めて鰻を食いながら寛次郎の暇を待つことにした。

 女将が注文の品を運んできて、五人はそれぞれの前に置かれた(めし)に喰らいつく。
 鰻が苦手なウメは、ちびちびと酒をお猪口(ちょこ)に注ぎ、(あお)っていた。蒲焼きを食い終わって暇を持て余した玅安が、そんなウメを煽る。

「お(めぇ)さん、酒なんかで腹が膨れるのかい」
「女中は昼飯なんてざらに食わないのさ。聞くところによりゃ、アンタてんで働いてないらしいじゃない。そんな人にゃ女の仕事の忙しさなんて分かんないだろうね」

 玅安はぴくりと口端を上げた。買い言葉に売り言葉で返そうとした時ちょうど、寛次郎が昼の仕込みを終えて厨房から出て来た。

「やあやあ待たせたな。ここの壁に、でぇんと大きな絵を飾りたいんでぃ」

 寛次郎は漆喰のくすんだ白壁の前で両腕を真横に大きく広げ、(みな)の方を向く。
 対して玅安は、壁にこつんと手の甲を当てて、そのあと楽し()な寛次郎を見た。

一間(いっけん)くらいってことかい?」
「いんや二間(にけん)ほどの幅は欲しいな。そんでもって天井まで高くして、鰻が川を(のぼ)る絵を描いてもらいてぇ。鰻登りっちゃ縁起物だからな。おれはもっと儲けて、孫の代まで楽さしてやりてぇのよ」
「二間とはまた大きなこって……壁に画紙は貼れねぇもんで、まずは板かなんかを打ち付けなきゃなんねぇな。あとはそんな広っぺぇ画紙が見つかるかどうか、だな」
「木材と紙なら、水野商店で取り扱ってるぞ。どんな材料が必要なんだ」

 栄達(ひでたつ)の申し出に、玅安は髭を(さす)りつつ考える。一枚の薄い板を取り付ければ簡単だが、いずれ()ってしまい付け直しとなるはず。それでは長く展示できない。

「……長く、細めの(ナラ)の板を、並べて壁に取り付けたいな。楢は反りにくいはず」
「楢の木か。確か北海道から良い楢が運ばれてきているはずだ。あい分かった、材木売をあたってみよう。あとは紙だが、工場(こうば)から買い付ければ洋紙でも和紙でも、大判のものを用意できると思う。木材に貼り付けるならどちらが良いのだろうな」
「洋紙は色が変わりやすいから駄目だ。土佐和紙なら薄くて貼り付けるのに良い塩梅(あんばい)かもな。そりゃ随分と贅沢な話になっちまうが」
「ふむ、土佐和紙か。問屋に訊いてみよう。うちの商店では取り扱っておらんが、なんとかなるだろうて」

 玅安はハルを見る。当の本人は鰻丼に夢中。どんぶりを持ってがつがつとかっ喰らっている。

「……水野さんよぉ、そんなハルに入れ込んでいいのかい? 才はあるが、成功するとは限らねぇ。なんせ今はただの下女なんだからな」
「数年何の仕事もしてなかったお前を焚きつけるくらいには才があるのだろう。それで十分だ。先ほども言ったが私はハルの父親のつもりだよ」
「そうか……。よし、寛次郎よ。二間の幅と天井まで(のぼ)るすげぇ鰻を、ハルに描かせてやる。(かね)は仕上がりを観て決めてくれ」
「おお、そうかぃ。かつての名高い吉野(よしの)玅安(みょうあん)のお墨付きとなれば信用するしかなかろう。期待して待っておるよ」
「かつての、は余分だけどな」

 鰻丼を食べ終わったハルは、腹を(さす)りながら寛次郎の招きにて、厨房へと入った。描くに当たっては本物の鰻を見ておく必要がある。トモも鰻を見たいと、ハルに続いて厨房に足を踏み入れた。土間になっており、幾つもの桶が置かれていて、それぞれに五、六匹の鰻を入れていた。川の水を引き入れているのか、竹の筒からちょろちょろと流れ出した細い水流が桶の中の水を循環させる。よって桶から溢れ続ける水により、土間は濡れていた。トモとハルの履いた草履(ぞうり)は土に汚れ、ぬかるむ土から染み込んだ分、足袋(たび)がすっかり濡れてしまう。それに気付きもせず、夢中で鰻を覗くハルたち。

「鰻って、へんてこな顔をしてるんでありんすねぇ」
「目がぎょろぎょろしてるね。……寛次郎さん、触ってもよくって?」
「ええ、ただしそっと触るより、こうやって……」

 寛次郎は両手を同時に桶の水中へ潜らせ、鰻をぐっと捕まえた。あまりの早技に驚くふたりを見て、笑いながら左手で握った鰻の頭をハル、そしてトモに近付ける。

「およ、おふたりとも怖がらねぇな」
「あちきはウメの方がよっぽど怖いでござりんす」
「わたしもお母様で鍛えられていますからね」
「へぇ……」

 寛次郎は戸惑いの表情で、鰻を桶に戻そうと──。

 鰻がつるんと彼の手を離れ、ぬかるむ土の上に落ちるとすぐに這い、厨房から逃げ出した。

「おい、こら待てぇ!」

 寛次郎は鰻を追いかけ、店内ということも忘れて走る。
 しかし流石の鰻である。簡単に掴まるつもりなく土の上を這い廻る。
 客席でぼちぼち鰻を突っついていた栄達の、その足元をにゅるっと通り過ぎた。

「わわっ!」

 ばたつかせた彼の足が、向かい合って座っていた酔いどれのウメの足にぶつかる。

「あにするんすかぁらんなさま」

 目がとろんとしたウメは立ち上がろうとして、足がもつれ、木椅子から転げ落ちた。
 鰻がウメの顔目掛けて突進する。

「なんえこれぇ!」

 土の上に横たわったままで、ウメは両手を前に出し、砂つきの鰻をはしと握る。

「ん?」

 一寸先の鰻と目を合わせたウメが……。

 ……。

 ……。

「はっ!」

 がばっと体を起こしたウメ。

「おー、ウメ、無事か」

 栄達の声に振り向くと、畳部屋にて座卓を囲み、(みな)で茶をすすっている。
 腹に乗せられた大判の布を綺麗に折りたたんで横に置き、ウメは正座の姿勢を取った。

「あっし……どうしたんですかいね」
「鰻を捕まえたままお眠りになったんですよ。お酒の飲みすぎです」
「それは、大変な失礼をしました。旦那様、申し訳ありません」
「いやぁ、いい飲みっぷりだったぞ」
「お父様がどんどん勧めるからいけないんですよ。お昼なんですから少しにするよう言っておいたでしょうまったくもう」
「……すまん」

 玅安が、しゅんとしたウメに声を掛ける。

「しっかし、鰻が苦手なやつなんてこの世に居るんだなぁ。そんなんで女中が務まんのかよ」
「……務まりますよ。あっしは仕事についちゃ見事にこなしてます。仕事もせずにぶらぶらしてるだけのアンタに言われたくない!」
「はん! 勝手について来て酔っぱらって迷惑かけてるやつの何が見事ってんだ」
「おい玅安、やめろ。ウメはハルが心配でついて来てくれたんだ」
「鰻を見た時の声真似でもしてやろうか。あひぃ~だったか、ひえぇ~だったかな」
「いいかげんにおしよこのぐぅたら絵描き!」
「なんだとぉ、もいっぺん言ってみやがれ!」

 売り言葉に買い言葉。玅安がいきり立ちウメに詰め寄ろうとする。

 その時、横から飛んできた手の平が顔を真っ赤にした玅安の頬へ激しく打ち付けられた。
 ぱぁんと軽快な音を立て、その衝撃で玅安は吹き飛ばされ畳の上に倒れる。

 叩いたのは、ハルだった。

「ウメのこと悪く言うな!」

 鼻息荒く、玅安を睨みつける。
 珍しく激昂したハルに一同、驚きのあまりぽかんとするばかりであった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 数日後。

「ごめんくださいな」

 そう挨拶して工房に入るトモと、その後ろからおずおず続くハル。
 玅安は広い作業机の上に大きな画紙を広げていた。
 こちらを向かず話し始める。

「おぅハル。こうして広げるとやっぱり大きいなぁ。お(めぇ)に描けるもんかな」
「えっと、……先生、この間は……」

 ばつが悪そうに、両手をもじもじさせながら謝ろうとする。
 玅安がこちらを向いた。

「気にしちゃいねぇよ。あれはおいらが悪い。ウメさんに、からかってすまねぇと……」
「先生! お(ひげ)がありません!」
「つるんつるんでござりんす!」

 振り返った玅安の、無精髭がすっかり剃られていた。後ろで縛った髪もしっかり整えられており(つや)がある。その精悍な顔つきたるや、まるで別人の風体(ふうてい)だ。

「もう、ぐぅたら絵描きなんぞと言わせねぇ。自堕落な生活もやめだ。ハルみてぇなちんまりした女に叩かれるようじゃ駄目だからな。さぁやるぞ! おいらとお(めぇ)さんで、天下の取り直しだ!」

 玅安はそう言って、いつしか失っていた爽やかな笑顔を見せた。
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