第7話 本
文字数 3,299文字
「……フジが振り返ると長髪を振り乱した白装束の女が迫っていた!」
「ひぃええぇえ〜!!」
ハルは恐怖のあまりウメに飛びついた。
「ちょっとぉ、どこに隠れてんのさ!」
着物の裾 を掻き分けて中に入り込んできたハルを、ウメがぐいっと追い出す。それでもハルはウメに取り憑いたまま離れない。
「フジが死んじまう! 幽霊ってやつにやられるでありんす!」
「まだ話の途中だよ。このあとフジが幽霊を退治するのかも知れないだろ」
あまりの怖がりように、トモは腹をおさえて笑う。
「ふふふ……。まだ、この本の半分も読んでいません。続きはもっと怖いんですけどね」
「トモぉ、違う本を読んで頂戴な」
「こら、お嬢様ってお呼びなさいな。あんたは言葉よりも先に身分を学ばないとねぇ」
ウメは纏 わりついたままのハルを、肩から引っ剥 がす。
女中部屋の下階でトモが、ハルに本を読み聞かせしていた。そこに興味を持ったウメが加わったところこのような惨状である。栄達 の持つ本を適当に持ってきたら内容が怪談物。そのためハルが怖がってしまい、とんと読み進められずにいた。
そろりと開かれた引き戸の隙間から、丁稚 の平太 が顔を見せた。年の頃はトモやハルと同じくらいで痩せっぽちの優男 だ。
「言葉を習ってこいって、旦那の命 で来やした」
「あら平太。あんた小学校を出たんでなくって?」
「すぐ奉公にあがりやして、ほとんど勉強できなかったんでやんす。だからハルと一緒に勉強しとけって言われたんす」
「旦那も人の良 いことで。ほら、ここに座んなよ。お嬢様が読み聞かせしてくだすってるからね」
「よろしゅうおねげぇしやす」
平太が筵 に座るのを待って、トモは続きを読み始めた。
「足の透けた女はフジを追って川へ……」
「ひぃいいいぃぃい!」
またハルはウメの着物の中へ隠れようとする。
「ハル! こんなんじゃ進まないだろ!」
叱るウメ笑うトモにきょとんとする平太。結局、本日の授業は怪談を読むだけで終わってしまった。
刻は流れ、空が夕焼け色に染まる頃、洗濯場から出てこないハルの様子を偵察にきたウメが驚きの声を上げる。
「ハァァ? あんた、何やってんのさ」
ハルは筵 の上に本を広げて読みながら、洗濯板にふんどしを一枚広げて張り付け、そこにもう一枚のふんどしを押し付けて洗っている。
「洗濯板はこうやって使えって言われたでありんすが……」
「そうじゃあないよ。本を読みながらお仕事する人がいるもんか。まずは洗濯をこなして、時分 を計って読みな!」
「時分なんて、さっぱり無いですぜ」
「当たりき。あんたはお仕事でここに住んでるの。だからお嬢様のお休みの日を待ちぃな」
言いながらウメが本を取り上げる。ハルはぶつくさ呟 きながら、洗濯の続きに取りかかった。
夕食の膳 を片付けるウメからその話を聞いたトモは、笑顔で両手の平をぱちんと叩き合わせた。
「明日 、皆 で古本を見に行きましょう!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
平太も誘ったが、仕事から抜けられないとあっさり断られてしまう。
トモとウメ、ハルの三人は日本橋の本屋通りを訪れていた。一番大きな本屋の前に立ち、まず目を引いたのは西洋文字の店名が入った看板だ。
「トモ、あれはなんて読むんですかい?」
「ひ・し・や、と書いてあるわ。……お嬢様って呼ばないと、またウメにどやされますよ」
「はいよぉトモ……お嬢……」
群青色の暖簾をくぐる。店内では十 を超える大きな棚にずらずらっと本が並べられていた。新品の本棚と古本の置かれた棚に分かれており、新品は店番に頼まないと見せてもらえないので、古本の棚の前へハルを連れていく。
ウメが棚の本を幾つか手に取ったあと、きょろきょろ顔を動かして何かを探すそぶりを見せた。
「魯文 の「安愚楽 鍋 」が欲しいんですがね。古いけど数が出てるからあるはず……」
「ろぶん?」
「高名な作家さんの滑稽 本だよ。面白いらしいから読んでみたくてさ」
「ウメ、こちらにありましたよ。綴 じ紐 が綺麗なものはお高いみたい」
「紐は自分でやり直すんで、安いのを買います。……ありゃ、それでもそこそこ値が張りますねぇ」
一方、ハルは本を開いて、挿絵だけを眺めて棚へ戻していた。
「ハル、何か良い本はあったかしら」
「色っぺぇ女の絵がありんした。これは?」
「……これは駄目。まだわたしたちの歳で読んではいけない本よ」
「そうなんだぁ。面白そうなのに」
しばらく棚から本を出しては読んで戻して廻った。トモが一冊の本を開いてハルに見せる。
「ねぇこれ。玅安 先生が挿絵をなさってるわ」
「あの先生は本も書いてるんでありんすか」
「挿絵だけね。でも、お話もひらがなが多くて読みやすそう。今度はこの本で平太にも漢字を教えてあげようかしらね。学校の本は面白くないから」
「……ひらがなだけの本は?」
「それじゃお勉強にならないでしょう。さ、これを買いましょ」
少し不服そうなハルを差し置いて、トモは勘定場で本を買った。ウメも苦悶の表情で代金を支払い目的の本を手に入れた。どうやらウメの懐 を冷やす額だったようだ。
帰りの途次 、ハルがいかにも自然な動きで、道脇の屋台へすぅっと吸い込まれていった。
「ちょっとハル、どこ行くの!」
ウメに続いてトモも、ハルを追いかける。
屋台に並ぶのは、あんパン。じろじろ見てハルは涎 を垂らしている。トモとウメは目を見合わせた。
「あなたも涎 が出ていますよ」
「……ご冗談を。あっしはそんなもの垂らしません」
「ウフフ。店主、三つで幾らになりますの?」
「へぇ。一 つで一銭、三ついっぺんなら二銭五厘でごぜぇやす」
「では三つ、くださいな」
一人一つのあんパンを受け取り、店横の長椅子で座って食べる。
あんパンを頬張りハルは喜色満面。同じくしてあんパンに齧 りついたウメも、にんまりと微笑む。
「あんた、ほっぺにあんこがくっ付いてるよぉ。もう……」
ウメが人差し指でハルの頬 からあんこの欠片を取り去り、そのまま自分の口へ入れた。その光景にトモは目尻を下げる。
……まるでハルのお母さん。ううん、わたしとお母様よりかよっぼど仲が良いみたい。羨 ましいなぁ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
其れから其れから翌週になり。
女学校から戻ったトモは裏門の通用口を開けようとして、ウメの叫び声に気付く。扉を開けて中庭を見ると、予想通りハルが走り逃げ回っていて、それを追いかけるウメの姿があった。
「待でごらァ! ハルぅ!」
他の女中たちがトモを見つけて急ぎ走り寄って来た。
「ハルが粗相を!」
「ウメさんの本を!」
それだけの言葉では判然としない。とりあえずトモはハルの進行方向に立ち、彼女の体を受け止めた。勢い余って二人とも地面に転がる。
「あぁぁお嬢様ぁ! 大概にしなさいよハル!」
「ごめんトモ。痛かった?」
「よいしょ……わたしは大丈夫。でも今度は何をしでかしたのかしら」
立ち上がったトモの着物をハルとウメが下へ向け叩 いて、土汚れを落としていく。
「聞いてくださいよ、お嬢様。この阿呆 がこれ!」
ウメは端 っぽが焦げた本を、両手でグイッと前に出して見せつける。
「この前ウメが買った魯文の本ね。どうして燃えたの? ……まさか」
「ハルのやつが火吹きしながら本を読んでやがったんです。それでこんなになっちまって……まだ途中だったのに」
トモは溜息一つ吐 いてハルの肩に手を置き、顔を覗 き込んだ。
「駄目ですよハル、人様の物を燃やしたりして。それに火事になっていたらどうなさるおつもり? あなたは……」
そこまで言ってトモはハッとした。ハルの瞳に涙がじんわり滲 んでいる。涙の出所は叱られたことでなく、大火を思い出したことによるのかも。
「あの……、次のお休みに同じ本を買いに行きましょう。わたしが払います。ウメ、それでいいですね」
「……あっしはいいんですがね。ハルをとっちめとかないと、こいつまたやりますよ」
「それには及びません。きっともう、やらないでしょうから。ね、ハル」
ぽろぽろ涙を零 すハルに向けて優しく微笑み、トモは両腕を広げた。
「ハル、おいで」
ハルは泣き噦 り、トモの着物に顔を埋 める。
泣き止むまで、トモはずっと彼女の背中を摩 り続けた。
「ひぃええぇえ〜!!」
ハルは恐怖のあまりウメに飛びついた。
「ちょっとぉ、どこに隠れてんのさ!」
着物の
「フジが死んじまう! 幽霊ってやつにやられるでありんす!」
「まだ話の途中だよ。このあとフジが幽霊を退治するのかも知れないだろ」
あまりの怖がりように、トモは腹をおさえて笑う。
「ふふふ……。まだ、この本の半分も読んでいません。続きはもっと怖いんですけどね」
「トモぉ、違う本を読んで頂戴な」
「こら、お嬢様ってお呼びなさいな。あんたは言葉よりも先に身分を学ばないとねぇ」
ウメは
女中部屋の下階でトモが、ハルに本を読み聞かせしていた。そこに興味を持ったウメが加わったところこのような惨状である。
そろりと開かれた引き戸の隙間から、
「言葉を習ってこいって、旦那の
「あら平太。あんた小学校を出たんでなくって?」
「すぐ奉公にあがりやして、ほとんど勉強できなかったんでやんす。だからハルと一緒に勉強しとけって言われたんす」
「旦那も人の
「よろしゅうおねげぇしやす」
平太が
「足の透けた女はフジを追って川へ……」
「ひぃいいいぃぃい!」
またハルはウメの着物の中へ隠れようとする。
「ハル! こんなんじゃ進まないだろ!」
叱るウメ笑うトモにきょとんとする平太。結局、本日の授業は怪談を読むだけで終わってしまった。
刻は流れ、空が夕焼け色に染まる頃、洗濯場から出てこないハルの様子を偵察にきたウメが驚きの声を上げる。
「ハァァ? あんた、何やってんのさ」
ハルは
「洗濯板はこうやって使えって言われたでありんすが……」
「そうじゃあないよ。本を読みながらお仕事する人がいるもんか。まずは洗濯をこなして、
「時分なんて、さっぱり無いですぜ」
「当たりき。あんたはお仕事でここに住んでるの。だからお嬢様のお休みの日を待ちぃな」
言いながらウメが本を取り上げる。ハルはぶつくさ
夕食の
「
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
平太も誘ったが、仕事から抜けられないとあっさり断られてしまう。
トモとウメ、ハルの三人は日本橋の本屋通りを訪れていた。一番大きな本屋の前に立ち、まず目を引いたのは西洋文字の店名が入った看板だ。
「トモ、あれはなんて読むんですかい?」
「ひ・し・や、と書いてあるわ。……お嬢様って呼ばないと、またウメにどやされますよ」
「はいよぉトモ……お嬢……」
群青色の暖簾をくぐる。店内では
ウメが棚の本を幾つか手に取ったあと、きょろきょろ顔を動かして何かを探すそぶりを見せた。
「
「ろぶん?」
「高名な作家さんの
「ウメ、こちらにありましたよ。
「紐は自分でやり直すんで、安いのを買います。……ありゃ、それでもそこそこ値が張りますねぇ」
一方、ハルは本を開いて、挿絵だけを眺めて棚へ戻していた。
「ハル、何か良い本はあったかしら」
「色っぺぇ女の絵がありんした。これは?」
「……これは駄目。まだわたしたちの歳で読んではいけない本よ」
「そうなんだぁ。面白そうなのに」
しばらく棚から本を出しては読んで戻して廻った。トモが一冊の本を開いてハルに見せる。
「ねぇこれ。
「あの先生は本も書いてるんでありんすか」
「挿絵だけね。でも、お話もひらがなが多くて読みやすそう。今度はこの本で平太にも漢字を教えてあげようかしらね。学校の本は面白くないから」
「……ひらがなだけの本は?」
「それじゃお勉強にならないでしょう。さ、これを買いましょ」
少し不服そうなハルを差し置いて、トモは勘定場で本を買った。ウメも苦悶の表情で代金を支払い目的の本を手に入れた。どうやらウメの
帰りの
「ちょっとハル、どこ行くの!」
ウメに続いてトモも、ハルを追いかける。
屋台に並ぶのは、あんパン。じろじろ見てハルは
「あなたも
「……ご冗談を。あっしはそんなもの垂らしません」
「ウフフ。店主、三つで幾らになりますの?」
「へぇ。
「では三つ、くださいな」
一人一つのあんパンを受け取り、店横の長椅子で座って食べる。
あんパンを頬張りハルは喜色満面。同じくしてあんパンに
「あんた、ほっぺにあんこがくっ付いてるよぉ。もう……」
ウメが人差し指でハルの
……まるでハルのお母さん。ううん、わたしとお母様よりかよっぼど仲が良いみたい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
其れから其れから翌週になり。
女学校から戻ったトモは裏門の通用口を開けようとして、ウメの叫び声に気付く。扉を開けて中庭を見ると、予想通りハルが走り逃げ回っていて、それを追いかけるウメの姿があった。
「待でごらァ! ハルぅ!」
他の女中たちがトモを見つけて急ぎ走り寄って来た。
「ハルが粗相を!」
「ウメさんの本を!」
それだけの言葉では判然としない。とりあえずトモはハルの進行方向に立ち、彼女の体を受け止めた。勢い余って二人とも地面に転がる。
「あぁぁお嬢様ぁ! 大概にしなさいよハル!」
「ごめんトモ。痛かった?」
「よいしょ……わたしは大丈夫。でも今度は何をしでかしたのかしら」
立ち上がったトモの着物をハルとウメが下へ向け
「聞いてくださいよ、お嬢様。この
ウメは
「この前ウメが買った魯文の本ね。どうして燃えたの? ……まさか」
「ハルのやつが火吹きしながら本を読んでやがったんです。それでこんなになっちまって……まだ途中だったのに」
トモは溜息一つ
「駄目ですよハル、人様の物を燃やしたりして。それに火事になっていたらどうなさるおつもり? あなたは……」
そこまで言ってトモはハッとした。ハルの瞳に涙がじんわり
「あの……、次のお休みに同じ本を買いに行きましょう。わたしが払います。ウメ、それでいいですね」
「……あっしはいいんですがね。ハルをとっちめとかないと、こいつまたやりますよ」
「それには及びません。きっともう、やらないでしょうから。ね、ハル」
ぽろぽろ涙を
「ハル、おいで」
ハルは泣き
泣き止むまで、トモはずっと彼女の背中を