第9話 祭

文字数 3,462文字

 昼下がり、トモより幾分か背の低いハルは、ピョンピョン飛び跳ねながら往来を見晴るかす。平時はだだっ広い浅草の大通りも、(まつり)の賑わいで黒山の人だかりができていた。

 ぎゅっとハルの手を握り、周りの人たちの流れに逆らわずトモは歩き始めた。左右から押されてよろめきながらも、後ろについたハルをぐいぐい引っ張って行く。

「離れないで。探すのが大変だから」
「承知。トモも足元に気を付けなすって」

 足をひたすら動かし人流に沿って歩んでいたが、右へ右へと押されて茶屋の店先に弾き出されてしまう。つんのめったところ長椅子で休憩中の男たちに受け止められた。

「大丈夫かね、お前さんたち」
「いたた……。あの、お休み中に申し訳ありません」
「ひゃあ、かたじけねぇこってす」

 苦笑いで会釈して、そそくさと男たちから離れ、ふたりは茶屋と隣の建物の隙間に入った。ゆっくり息を整えて目を見合わせ、笑い転げる。

「フフフ。なんだか楽しい、けどウメたちに追いつけないね」
「あちきもこの騒ぎっぷりは好きでありんすが……」

 ハルは路地を進み、川縁(かわべり)に出て辺りを見廻す。彼女の手招きに従ってトモが近寄る。茶屋から十数軒先までの裏口に、横向きでならなんとか通れそうな細道が続いていると分かった。

「まさか、これを渡って行くおつもり?」
「うん。ここなら誰にも邪魔されないよ」
「それはそうだけど、落ちたらずぶ濡れじゃないの」
「あたりきしゃりきのこんこんちき。さぁ、行くぜぃ!」

 意気揚々と横向きで足を運び始めたハル。その(そで)をガシッと掴み、続いてトモも進んでいく。今日の着物に合わせて靴ではなく草履(ぞうり)にしてきたから、足元のツルツルした岩で何度も滑りそうになる。

「ねぇハル、やっぱり無理。戻りましょう」
「残念、もうここまで来たら橋まで行っちまうのが(いき)ってもんよ」
「なに粋って。男衆じゃないんだから」
「はいはい、ぺちゃくちゃ口ばっか動かしてないで足、足」

 まるで小さなウメがそこに居るようだ。とうに数軒分の裏口を通り越していたので、ここから戻るのも進むのも地獄。同じ地獄なら進まにゃ損とでも言わんばかりに、()らぬ顔でハルは壁伝いに歩み続ける。

 どのくらいの(とき)が経ったか、トモが落下の恐怖から逃れるため無我の境地へ至った頃、ようやく橋の(たもと)まで達した。

「いやぁ、なかなかの綱渡りでありんし……トモ? やい、トモぉ」

 ハルが顔の前で手を振っても気付かない。肩を揺すっても返事が無い。心配になってトモの胸に耳を当てたら、そのまま強く引き寄せられてしまう。

「あぁ……怖かった……」
「苦しい、苦しいよぉ」

 しばらくの(あいだ)トモは震えながら、ハルの柔らかな感触を抱き締めていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「お嬢様ァ! こっちです!」

 ウメが大きく手を振り、道行(みちゆ)く祭客を通り抜かすようなやかましい声を上げた。トモはハルの手を引いて橋を離れ、人波を掻き分けて、ウメのほか女中二人が待つ蕎麦(そば)屋の店先へと至る。

「やっとのことで追いつきました。あら、蕎麦を食べてたのね」
「あっしらもここまで来るのに随分と骨が折れましたから。小休(こやす)みですよ」

 ハルを見ると、女中たちの傍らに腰掛けて蕎麦の残りを貰っている。トモはごくりと生唾を飲み込んで、しかしついさっき昼飯(ちゅうはん)を取ったばかりであることを思い出し、首を横に振って湧き上がる食欲を頭から追い出した。

「あ、店の(みんな)があっちにおりますよ。流されて橋を渡って、神輿(みこし)を観に行くんでしょうねぇ」
「……今渡るの? あの橋、壊れないかしら」
「壊れるくらいヤワな作りなら、もう壊れてます。サァ(みんな)、行くよ!」

 女中二人に続き、ハルも蕎麦で頬をぱんぱんに膨らませたまま立ち上がった。トモの小腹が(かす)かな悲鳴を上げる。蕎麦をもぐもぐ咀嚼して飲み込んだハルは、恨めしそうなトモの視線に気付く。

「なぁんでぃ、トモ……お嬢」
「何でもなくってよ。さ、しっかり手を握っててちょうだい」
「あいよっ」

 女五人衆はひと(かたまり)になって、人群れの海流へ飛び込んだ。あっという間に飲み込まれ、橋際を通る頃にはウメたちを見失ってしまった。トモとハルはまた不安いっぱいの航行を余儀なくされる。

「ハル、わたしに掴まって!」

 橋の中ほどで、ハルはトモの背中にぴったりくっ付いた。五月も終盤につき昼間の暑さあり、さらに周りから放たれた熱気も伴って、ふたりは汗だくになりながら進んでいく。

 流れ流れて橋を渡り切るところで、引っ付いていたはずのハルの気配が無くなった。

「ハル? ハルぅ!」

 トモは首をぶんぶん右へ左へ振りながら彼女の姿を探す。だが相変わらず視界を埋め尽くす人流(じんりゅう)によって捜索は困難。ひとまず外へ向かい、やっとこさ流れから飛び出す頃には、橋からかなり離れてしまっていた。

「おろろ、お嬢様でねぇすか」

 平太(へいた)の声に振り向くと、番頭の一助(いちすけ)ほか店の男衆が露店の茶で一服していた。

「平太さん、ハルを見なかった?」
「見なかったでやんす。番頭、見やした?」
「いや……そういやぁウメたちなら、神輿を追いかけて行ったみたいすね」
「ウメは図太いから大丈夫よ。困ったわ、ハルが潰されてないといいけど」
「あいつがそんな弱っちいわけねぇ……」

 一助の手刀が平太の頭を揺らす。

「こら。お嬢様が心配なさってんだ。おら(みんな)、さっさと探せ」
『へぇ!』

 男衆がきょろきょろしながら散らばり、人波に消えていく。

「ありがとうね、一助さん」
「どうってことありゃしませんよォ。おい平太、行くぞ!」
「……そりゃ番頭はお嬢様が……」

 また一助の手刀の餌食になった平太は、(えり)を掴まれてずるずる引っ張られていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 人気(ひとけ)の少ない場所を進みながらハルを探し続けるトモの前に、ひときわ凄まじい人集(ひとだか)りが現れた。火消し隊による梯子(はしご)登りの演技が披露されていて、そこへ向かって見物客がわぁっと押し寄せているようだ。

 ようやくウメらを見付け、押され押されながら足に力を入れて前進し、女中たちと合流した。

「フゥ……。ハルが見当たらないの」
「さっき平太にも()かれましたけどね、あっしたちゃあ見ておりませんよ」
「そう。どこ行っちゃったのかな。……怪我でもしてたらどうしよう」

 泣きべそをかき始めたトモの肩を引き寄せ、ウメが優しい声で(なだ)める。

「きっと大丈夫ですハルは。毎日あっしが鍛えてやってますからね」

 一助ほか店の男衆がやって来た。

「今度は平太の行方が分からなくなった。どうなってんだいまったく」
「平太ならさっき、あっちの、(ほう)に……。アッ!」

 トモと一助は、ウメが指差す先を見遣(みや)る。

「ハル! あんな所で何を……」

 驚き声を上げるトモの視界に、梯子のてっぺんへと登り詰めたハルの姿が映った。(ひたい)の前で右手を横一文字に伸ばし、目を細めて辺りを一望している。平太も梯子の中ほどで、梯子持ちの男たちに(すそ)を引っ張られながら、何やらをハルに向かって叫んでいる。

 ハルはトモを発見し、ひとつ笑顔を浮かべてやにわに梯子から飛び降りた。ワァッと歓声が上がり、ハルは喧騒の中へ落ちて消えた。慌てて駆け寄ろうとするトモの動きをウメが制する。

「今行くのは不味(まず)いです。あんなことしたら……」

 その時、ハルと平太が見物客の足元から這い出てきた。一助が有無を言わさず左腕にハルを、右腕に平太を(かか)えてその場から逃げ出す。ウメは狼狽(うろた)えるトモの腕を引き、続いて女中たちや男衆も走り始めた。

 大通りから離れてしばらく走り、民家の脇の路地に入って、一助がふたりを放り投げた。

「勝手に梯子を登って消防組の顔を潰しやがるとはな! 顔を覚えられたら終わりのすけだって(わか)ってんのかい?!」

 その剣幕に、ハルと平太は驚く。

「すいやせん。おいらはハルを()めに……」
「あちきは(みんな)を探したくて……」

 駆けつけてきたトモが、ハルの周りを点検するようにくるくる回って、ホッと安堵の息を漏らした。

「よかった。あんな高い所から落ちたのに、怪我はしてないのね」
「がっしりした(かた)に受け止められたでありんす。なんやら言われそうになってすぐ逃げやしたが」

 男衆とウメら女中たちも追いついた。一助が路地から顔を出して様子を(うかが)い、戻ってきてさらなる小言を放つ。

「……まぁ、誰も追いかけて来んくて良かった。じゃじゃ馬たち、もう無茶はよすんだぞ」

 ハルと平太が首を傾げて、顔を見合わせる。

「番頭さん、無茶ついでにもう一つ……」
「おいらたち……」
『神輿を担いできやす!』

 満面の笑みで同時に走り出す。叫びながら追う一助、唖然とするトモとウメ。女中らと男衆は大いに笑い転げていた。
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