第11話 猫

文字数 2,794文字

「暑さもすっかり和らいで、秋の気配ですねぇ旦那様ぁ」

 応接間の畳の上、ハルが徳利(とっくり)を傾けると、器の口からとくとく流れ出した酒をお猪口(ちょこ)で受けとめる栄達(ひでたつ)。右手に持った小さなお猪口(ちょこ)の中でゆらゆら揺れる透き通った酒を、彼はくいっと(あお)った。

「あぁ、なんて男らしい飲みっぷりでありんしょ。流石(さすが)あちきのだ・ん・な・さ・ま」

 ハルは(つや)っぽい声を出しながら、左手の甲を栄達の顎にそっと当て、そこから(ひげ)を掻き分けるようにして彼の顔を上に向かって()でていく。

「う……うおぉ……」

 妙ちきりんな(つぶや)き方をした栄達に、ふたりの正面で様子を眺めていたトモは呆れた表情へと変わる。上の(まぶた)を下げて、眉間に皺を寄せ、鼻を鳴らした。

「お父様、そんな台詞(せりふ)はありませんよ。おかしな声を出さないでくださいまし。それにハル。ありんしょ、ではなくて、ございましょう。あちき、でなくて、わたくし。これでは言葉の練習になりません」

 ハルは口を尖らせ頬を膨らまして、押し退()けるようにして栄達から離れた。トモに近付き、本に書かれた文章を読む。最近少しずつではあるが、書かれている文字を読めるようになってきたのだ。

「むむ。確かに、わたくしと書いてるでありんす。……ございましょう……ござりまんしょ……ござりんしょ……? わ、わたくし……わたち……わちき……」
「口癖というのは恐ろしいものですね」
「にゃあ」

 トモとハルは同時に栄達を見た。

「……お父様。今、猫の鳴き真似をしましたか?」
「いや。私ではないぞ。酒を自分で()いで、飲んでおったからな」
「旦那、酔って猫になっちまったのでござりんす?」
「だから私ではないと……」
「にゃあ」

 鳴き声は中庭から聴こえていた。トモも、ハルも行灯(あんどん)から放たれる光の届かぬ先、闇夜に向かって目を凝らす。じぃっと……、じぃっと……。

 ミヨの顔がにゅっと現れた。

『ぎゃああああああああ!!』

 トモとハルは大袈裟に叫び散らかして座ったまま後退(あとずさ)った。闇夜から行灯の光の中へ移ったミヨは、()(えん)に腰掛けた。

「なんですか夜半に騒々しい。猫なら逃げて行きましたよ」
「お、お母様はそこで何を……?」
「夕方から其処此処(そこここ)で白い子猫を見かけたので、探していたのです。親とはぐれてしまったのかも知れないからね。でもまたどこかへ行ってしまったみたい」

 そこまで言って、ミヨはハルを睨んだ。

「いつまでも遊んでないで、さっさと寝部屋に戻りなさい。トモも、あなたもですよ」

 叱られた三人は一転姿勢を正し、『はい!』と威勢良く(こた)えた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日の昼下がり、珍しく水野商店の店頭に現れたハルに、平太が声を掛ける。

「おいハルぅ、(なん)かの用事でやんすか?」
「猫を、探してるんでありんす。白い子猫。逃げ足の速い」
「逃げ足が速い……、ハルみてぇだなぁ」

 ハルは平太を一瞥(いちべつ)して、溜息混じりに店から引っ込もうとする。ばつが悪くなった平太は何やらを持ちハルを追いかけて来た。

「待ちなよっ。それなら、これを持っていけ」
「くんくん。魚の匂い? 行灯の油でありんしょか?」
「これは鰹節(かつぶし)。猫は魚が好きだから、匂いにつられて()んじゃないかなぁ」
「ほぅほぅ。平太、かたじけねぇこってす」

 ハルは微笑んで、受け取った鰹節を大切そうに抱えて駆けて行った。

──ゴン!

「痛ってぇぇぇぇええええ!」
「おら平太ァ、勝手に店のもんをハルにやんじゃねぇよ」
「……番頭、あれはお客に削って見せるためのもんで、商品じゃねぇす」
「分ぁってるよ。勝手にするなと言っとるんだ」

 そう言って、一助は平太の頭を押さえつけた。

「お(めぇ)さん、よっぽどハルに惚れちまったんだなぁ」
「ほ、惚れてなんかねぇす! ……あいつ見ると変な気分になるだけす」
「それを、惚れたってんだよ!」

 店頭でわちゃくちゃ絡み合うふたりを、街から帰って来た栄達が(うつ)ろな表情で見つめていた。

「仕事……してくれんかなぁ」

 それはさておき、ハルは棒状の鰹節を振りながら緩歩(かんぽ)していた。母屋の縁の下を覗いたり、庭木の枝葉を点検し、時々にゃあと鳴き真似してみたり。しかし何処(どこ)にも姿無く、昨日聞いた可愛らしい声も無し。

「ハル、洗濯は終わりましたか?」

 不意にミヨの声がして、ハルは恐る恐る振り返った。

「ま、だでござり……ます奥様。でも猫が……」
「猫は私が探しておきます。まず自分の仕事をなさい」
「へ……はい! かしこまりん!」

 鰹節をぐいっとミヨの胸元に押し付け、ハルは走って行く。その慌てっぷりと、慣れない言葉を使おうとする懸命な姿に、ミヨは僅かに口元を緩ませた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 女学校から戻ったトモは裏門の通用口を開ける。と、中庭の大きな松の枝にしがみつくハルの姿があった。すぐに駆け寄り、下から眺める集団内の一助に問う。

「どうなさったの? どうしてハルがあんな所に?」
「ハルが、あすこに居る猫を見つけましてね。猫は落ちたってどうにもなりゃしねぇって言ったんですが、あの()いきなり登り出しやして。猫を(ふところ)に入れたまんまもう半刻ほど動けずです」
「あらあら、ど、どうしましょう」
「落ち着いてください、お嬢様。いま、平太が火消しん(とこ)に走ってます。あいつら高梯子を持ってますんで」

 その時、強い風が吹いて松を大きく揺らした。と同時にメキッという音とともにハルの乗った枝が上下に激しく振れた。

「ねぇ一助! ハルが落ちてしまいますなんとか出来なくって?」
「そ、そう言われましても……」

 後方から、ミヨの大声が轟く。

(みな)どきなさい! 退()いて!」

 ミヨとウメ、それに女中2人が、それぞれたくさんの着物を抱えて走って来た。先頭のミヨは息を切らしながら、着物の巨大なかたまりを土の上に投げた。ウメらも同じ場所へ着物を置いてこんもりした山を作りあげた。

 それを待っていたかの様に、松の枝が折れた。
 大きな音が詰め掛けた奉公人と女中らの悲鳴でかき消される。

 広げられた着物の山に落っこちたハルは一度跳ね、ごろごろと転がり土の上、仰向けで止まった。目を瞑っており、両腕は(ふところ)の上で交差したままだ。

 「ハル!!」

 トモが滑り込むようにしてハルに覆い(かぶ)さる。しばらくして、ハルはゆっくりと目を開いた。

「ぅ……トモ……。あちき、ぃてて……」
「動かないで。すぐに診てもらいますからね」
「にゃあ」

 ハルの(ふところ)から顔を出した猫は、間の抜けた声で鳴いて、ひとつ欠伸(あくび)をした。

「ハル、どこが痛むのですか」

 ミヨが腰を下ろし、ハルの顔を見つめる。

「……肩、でやんしょか。腰……、足?」
「もう、全部じゃないの」
「にゃあっ」

 ミヨの持つ鰹節に、猫が飛びつく。ミヨは大事そうに毛の白い子猫を抱え、立ち上がった。

「あの、奥様。猫は……」
「親が見つかるまで。猫の面倒はハルの役目ですからね、早く身体を治しなさい」
「は、はいっ! ぃたたぁ……」

 こうして、水野家に一匹の家族が舞い込んできたのであった。
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