第4話 風呂
文字数 2,782文字
「あっちぃぃい!!」
日暮れ前の中庭にハルの悲鳴が轟 く。
「ちょっと、静かにおし! まだ表 はお仕事なさってるんだよ!」
かまどに火吹竹 で息を送り込んで立ち上がり、ウメは五右衛門 風呂に浸かったハルを面倒くさそうな表情で見る。彼女は円筒形の大きな檜 桶 に溜められた熱い湯の中で、顔も身体も真っ赤にしながら文句ばかりたれている。
「熱すぎるでありんす! もちっと加減できねぃんですかい?!」
「贅沢言いしなさんな。行かずの銭湯、あんたが悪いのさ」
熱さで唸 るハルの期待に応 えるように、ウメは柄杓 の冷 や水 を上からざぱんとかけてやった。
「つ、つめたぁ……」
「これであんたも風呂もちいとは冷 めるだろ。とっとと髪と身体を洗いぃな。べらぼうに汗臭かったんだから」
女学校から戻ったトモが、騒ぎを聞きつけて様子を覗 きに来た。
「ウメ、ハル、大きなお声を出して何を……あら、昔使ってたお風呂ね」
「聞いてくださいよ。ハルのやつが、どうあっても銭湯に行かねぇんです。腕を引っ張っても足を引っ張ってもじたばたじたばた。仕方なくこうやって風呂を使わしたら今度は文句ばっかり。ハァ……」
目の前でぶつくさ言われてハルは口を尖らせる。そのまま湯の中に顔半分まで突っ込みブクブクと泡 を生み出す。
「では、わたしも入 ります。隣は良 くって?」
「え? そりゃちいとは空 いてるけど熱いよトモ……お嬢、様」
脱いだ着物をい草 の筵 の上に放 っぽらかし、柄杓 で湯を掬 ってざぱん、ざぱんと身体にかける。そしてトモは踏み台から檜の縁 を乗り越えて熱湯に浸かった。
「あつーい!」
「ほぅらウメ。あちきの言った通り、やっぱり湯加減が下手くそなんでありんす」
「……お嬢様が入 るなら、もっときちんとしましたのに」
ウメは足元の湯桶 を持ち上げて、井戸水を汲みに行こうとする。
「あら、このくらいの熱さの方 がたくさん垢 を落とせるでしょう。ねぇハル、いつまで浸かっていられるかの勝負をしない?」
にやりと笑みを見せたトモに同調して、ハルも口端を上げた。
「合点 承知 の助 ! こちとら我慢比べなら負けないよ!」
……其 れから其 れから刻 は経 ち。
筵 の上に、ハルとトモが裸で寝そべっていた。
「めまいくらくら……。まったくあなた、やせ我慢が過ぎるのよ」
「あちきの勝ちでありんす。ちぃとだけトモ……お嬢の方 が先に出やした」
「ちゃぷちゃぷお湯を揺らすんですもの。静かに浸かっていれば負けなかったわ」
ふたりは顔だけ傾けて合い向かいになり、笑う。
他の女中と共に風呂の片付けをしていたウメが、両手をパンパンと鳴らした。
「さあさ、お嬢様はお夕飯です。早くなさりませんと奥様に叱られますよ」
「あらあら。楽しいことをしていると、あっという間ですね」
トモはゆるりと体を起こして、着物を羽織り、帯を締めた。
「ハル、次は負けないわ」
「へへ……。いつでも受けて立ちますぜ」
ハルのしたり顔に着物がばさっと覆い被さる。
「あんたは仕事!一昨日 からの雨で洗濯物が溜まってるんだよ。陽が残ってるうちに洗って干しといてくれ」
「へぇ……。あの……ウメ、ありがとうごぜぇやした」
珍しいハルのお礼に、ウメは目を丸くした。
「あんたにも感謝の心ってもんがあったのねぇ。兎 にも角 にも、さっさと着替えて自分の仕事をしな」
そう言い残して、のっしのっしと母屋へ歩いて行った。そんなウメの背中を、ハルは微笑みながら見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕食のあと、トモは廊下で母のミヨに呼び止められた。
「トモ、下女 とあんまり親しくするものではありません。下手 に出ていると舐められますよ。少しは自分の立場を考えなさいな」
どうやら先ほどの風呂の様子を見られていたようだ。もしくは誰かから報告を受けたのか。トモは、しっかりミヨを見据えて反論する。
「……情けは人の為ならず。家で働く者に元気がなければ、元気をつけてあげたいと思って何が悪いのでしょうか。それにハルはわたしの友だちです。友だちのことを慮 ってはいけませんか」
「下女と友だちになる必要はありません。女中の手は足りてるのに、旦那の商 いのよしみで仕方なくあの娘 を受け入れたのです。あなたに悪い作用があるのなら考え直さなくてはいけませんね」
トモは怒り顔で食ってかかる。
「ハルを追い出したりしたら、わたしは三郎さんとの縁談をお断りします。それでこの家に居られなくなるようでしたら、喜んで路頭に迷いますわ」
ミヨの顔が歪 む。はっきり聴こえるほどの歯軋 り音 を立てて踵 を返し、肩をいからせて歩き始める。
「勝手におし!! いずれは自分が苦しむんだからね!」
大声を上げて座敷の襖 をピシャリと閉めた。
トモは佇んだまま「自分が苦しむ」という言葉を反芻 するが、どうしてもその趣意を測りかねていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ、お帰りなさいまし!」
翌 る日、帰宅したトモを見つけ、洗濯物を取り込んでいたハルが笑みを浮かべながら挨拶してくれた。ようやっとあの輝くような笑顔が戻ってきて、トモはほっとひと安心だ。
同じくしてトモを見つけたウメが、慌てふためいて走って来た。
「お嬢様! ハルが女中部屋の白壁に落書きをしたんです。どうやったら色を落とせるか分からなくて……。やめるよう言っていただけませんか」
「落書き? どんな絵なのかしら」
「どこぞの風景で、まぁ綺麗な絵なんですがね。いつの間に描いたのやら」
その絵に興味が湧いたトモは、土間から急勾配の階段を上がり、三人の女中が寝起きする八畳ほどの部屋へ入 る。中庭に面する壁には小さな木窓、その両脇の壁全体にびっしりと風景画が描 かれていた。
「これは、お花畑? あとは、川向こうの土手と町並み。そこに居るような気分になる素敵な絵ね。色はどうやって……」
壁際の畳の上に、花びらの欠片が幾つも落ちていた。土手から色のついた花を摘んできて、すり潰して指で塗りつけていたものと思われる。
「このまま落書きを続けさせましょう。ハルは絵描きの先生に才を認められました。できるだけその才を伸ばしてあげたいの」
ウメは驚きと失望と面倒くささの入り混じった表情へと変わった。
「いえね、なんだかお洒落 な感じの部屋になっちまって、落ち着いて寝られそうにないんですが……」
「あい、分かりました。わたしがカンバスを用意します。たくさん絵を描いてもらいたいから」
「はぁ、そうですか。しかしお嬢様はやたらハルのことをお気にかけられますねぇ。あんな何にも覚えられない下女、放っておけばよろしいでしょうに」
トモは胸を張り、腰に手を当てて、意気揚々と答える。
「ハルは大切な友だちだから、わたしが守ります! ウメも協力してくださいね!」
ウメはげんなりして、項垂 れ肩を落とした。
一方ハルは、春の嵐で飛ばされた手拭 いを追いかけ、パタパタと中庭を駆けずり回るのであった。
日暮れ前の中庭にハルの悲鳴が
「ちょっと、静かにおし! まだ
かまどに
「熱すぎるでありんす! もちっと加減できねぃんですかい?!」
「贅沢言いしなさんな。行かずの銭湯、あんたが悪いのさ」
熱さで
「つ、つめたぁ……」
「これであんたも風呂もちいとは
女学校から戻ったトモが、騒ぎを聞きつけて様子を
「ウメ、ハル、大きなお声を出して何を……あら、昔使ってたお風呂ね」
「聞いてくださいよ。ハルのやつが、どうあっても銭湯に行かねぇんです。腕を引っ張っても足を引っ張ってもじたばたじたばた。仕方なくこうやって風呂を使わしたら今度は文句ばっかり。ハァ……」
目の前でぶつくさ言われてハルは口を尖らせる。そのまま湯の中に顔半分まで突っ込みブクブクと
「では、わたしも
「え? そりゃちいとは
脱いだ着物をい
「あつーい!」
「ほぅらウメ。あちきの言った通り、やっぱり湯加減が下手くそなんでありんす」
「……お嬢様が
ウメは足元の
「あら、このくらいの熱さの
にやりと笑みを見せたトモに同調して、ハルも口端を上げた。
「
……
「めまいくらくら……。まったくあなた、やせ我慢が過ぎるのよ」
「あちきの勝ちでありんす。ちぃとだけトモ……お嬢の
「ちゃぷちゃぷお湯を揺らすんですもの。静かに浸かっていれば負けなかったわ」
ふたりは顔だけ傾けて合い向かいになり、笑う。
他の女中と共に風呂の片付けをしていたウメが、両手をパンパンと鳴らした。
「さあさ、お嬢様はお夕飯です。早くなさりませんと奥様に叱られますよ」
「あらあら。楽しいことをしていると、あっという間ですね」
トモはゆるりと体を起こして、着物を羽織り、帯を締めた。
「ハル、次は負けないわ」
「へへ……。いつでも受けて立ちますぜ」
ハルのしたり顔に着物がばさっと覆い被さる。
「あんたは仕事!
「へぇ……。あの……ウメ、ありがとうごぜぇやした」
珍しいハルのお礼に、ウメは目を丸くした。
「あんたにも感謝の心ってもんがあったのねぇ。
そう言い残して、のっしのっしと母屋へ歩いて行った。そんなウメの背中を、ハルは微笑みながら見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕食のあと、トモは廊下で母のミヨに呼び止められた。
「トモ、
どうやら先ほどの風呂の様子を見られていたようだ。もしくは誰かから報告を受けたのか。トモは、しっかりミヨを見据えて反論する。
「……情けは人の為ならず。家で働く者に元気がなければ、元気をつけてあげたいと思って何が悪いのでしょうか。それにハルはわたしの友だちです。友だちのことを
「下女と友だちになる必要はありません。女中の手は足りてるのに、旦那の
トモは怒り顔で食ってかかる。
「ハルを追い出したりしたら、わたしは三郎さんとの縁談をお断りします。それでこの家に居られなくなるようでしたら、喜んで路頭に迷いますわ」
ミヨの顔が
「勝手におし!! いずれは自分が苦しむんだからね!」
大声を上げて座敷の
トモは佇んだまま「自分が苦しむ」という言葉を
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ、お帰りなさいまし!」
同じくしてトモを見つけたウメが、慌てふためいて走って来た。
「お嬢様! ハルが女中部屋の白壁に落書きをしたんです。どうやったら色を落とせるか分からなくて……。やめるよう言っていただけませんか」
「落書き? どんな絵なのかしら」
「どこぞの風景で、まぁ綺麗な絵なんですがね。いつの間に描いたのやら」
その絵に興味が湧いたトモは、土間から急勾配の階段を上がり、三人の女中が寝起きする八畳ほどの部屋へ
「これは、お花畑? あとは、川向こうの土手と町並み。そこに居るような気分になる素敵な絵ね。色はどうやって……」
壁際の畳の上に、花びらの欠片が幾つも落ちていた。土手から色のついた花を摘んできて、すり潰して指で塗りつけていたものと思われる。
「このまま落書きを続けさせましょう。ハルは絵描きの先生に才を認められました。できるだけその才を伸ばしてあげたいの」
ウメは驚きと失望と面倒くささの入り混じった表情へと変わった。
「いえね、なんだかお
「あい、分かりました。わたしがカンバスを用意します。たくさん絵を描いてもらいたいから」
「はぁ、そうですか。しかしお嬢様はやたらハルのことをお気にかけられますねぇ。あんな何にも覚えられない下女、放っておけばよろしいでしょうに」
トモは胸を張り、腰に手を当てて、意気揚々と答える。
「ハルは大切な友だちだから、わたしが守ります! ウメも協力してくださいね!」
ウメはげんなりして、
一方ハルは、春の嵐で飛ばされた