第2話 雨音
文字数 3,580文字
ハルはよろけて、水がたっぷり入った洗濯桶をひっくり返した。庭の土に水が広がり染み込んでいく。頭をポリポリ掻きながら転がる桶を見下ろす彼女に、膳を持って通りがかったウメが目くじらを立てる。
「ぞろっぺえことしぃさんな。満杯まで入れたらそりゃあ重たくなるでしょうよ。手前 で持ち上げられる分だけにしときな」
「へぇ……」
ハルはウメから目を逸らして、頬を膨らます。
「なんだいその顔は! あんたがとんちきなんだろ!」
唾を飛ばして叱りつけるウメの口へ、やにわに甘い香りが放り込まれた。彼女はぽかんとしてその甘味 を舌で転がす。トモは紙の包みからビスケットをもう一つ取り出し、ハルの口元にも近付ける。
口を開けてビスケットを受け入れたハルは、もぐもぐ噛んで、ヒマワリのような明るい笑顔を見せた。
「おいしいぃ。ありがてぇこってす」
「お母様が頂いた夜会 の残り物よ。余らすと番頭さんに取られてしまうから、さっさと食べてしまいましょう。あれより太ってしまったら大変だものね」
悪戯 な笑みを浮かべながらウメにもハルにも一つずつ配って、トモは最後に残った一つを頬張る。ビスケットの甘さでウメの溜飲 が下がったようだ。
「そうそう。ウメ、今夕の会食に着ていく服を選んでおいてちょうだいね」
「かしこまりました。和服でよござんすか」
「ええ、そうね。ドレスはコルセットで締めつけられるから嫌よ」
ウメはひとつお辞儀して、食器の載った膳を持ち上げて去っていった。
「ハル。もっとウメと仲良くしなさいな」
「でもあちき頓馬で、聞いたことをすぐ忘れちまうでありんす」
「……昨日わたしと友だちになったこともお忘れ?」
「それは嬉しかったから忘れてない! トモは友だちでござりんす!」
「よろしいことです。ウメには、もう少し辛抱してもらうように言っておきますね」
「かたじけねぇ。かたじけねぇこってす」
「フフ……。あと、皆 の前ではお嬢様と呼んでくださいまし」
そう言って微笑み、トモは母屋へ歩いていく。人の親切をあまり知らないハルは、不思議そうな顔で彼女の後ろ姿を見送っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昼過ぎの空は鈍 色ががっており、生温 い風が町を吹き抜けていく。あずま袋を両手で持ちながら歩いていたハルは、派出所の前で立ち止まったウメを追い越してしまった。
じいっと掲示を眺めるウメに歩み寄る。
「雨天勝チ、だってさ。雨が降るかもしれないから、早 う帰って洗濯物を取り込まないとねぇ」
「ウメも袋を持ってくだせぇ。重てぇでありんす」
「もう、あんたが自分の袋を忘れたからこんなになってるんだよ。頑張りぃな」
「……けちん坊」
ウメはきっとハルの顔を睨 む。睨むが、朝トモに辛抱しろと言いつけられたので、今度は我慢することにした。
大きくひと息吐いて、ぷいっと顔を逸らして足早に歩き始める。ハルは追いかけるようにして小走りになった。このあとあずま袋の中の荷を盛大にひっくり返したのは言うまでもない。
屋敷に戻って洗濯物を片付けていると、恰幅の良い番頭の一助 がやって来た。
「もし、旦那は町の見廻りかね」
分からずあたふたするだけのハルの背中をぽんと叩き、代わりにウメが答える。
「旦那様は、麹町 にお嬢様をお連れになりました。夜会だそうで」
「おや、昨日も夜会に出掛けてらっしゃったぞ。連日留守にされては決めるものも決められんなぁ」
ぶつくさ言いながら一助は店へ戻っていく。ハルが見上げた空は、さっきよりも随分と色を濃くしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
トモは鹿鳴館 に行ったことがない。一時期は豪華な晩餐会や舞踏会が頻繁にあったそうだが、世人の顰蹙 を買い、数年前に其処 での会は催されなくなったと聞く。しかしお偉方の邸宅や他の迎賓館では未だに夜会が続いている。
父の栄達 は商売のために、足しげく夜会へ顔を出していた。母は連日の夜会を嫌がり、今日は家で留守番だ。
晩餐は洋食ばかりで濃い味だし、フォークやナイフの作法に気を揉んで胃も心も疲れ果ててしまう。それでトモは気晴らしに、上階のテラスへ出て外の風に当たっていた。
表通りでは、点消方 が瓦斯 灯に点火棒を差し入れて廻っている。いつもならたくさんの星を望める夜空が今は黒い雲に閉ざされ、瓦斯灯の明かりの届かない道端はすでに暗闇の支配下となっていた。
栄達が空を眺めながらテラスに出て来た。手すりに寄っかかり、大きく息を吐く。
「三郎くんはまだだな。汽車が遅れているのかもしれん」
「……三郎さんを待っていたわけではありませんよ。胃がもたれて風に当たっていただけです」
この夜会で、久しぶりに許嫁 の三郎と会うことになっていた。親の同伴で何度か話したことがある程度のため、トモはあまり彼のことを知らない。彼は端正な顔立ちで言葉少な、何を考えているのかいまいち掴めないところがある。
「雨の匂いがするな。さあ、中へお入りなさい」
促されてトモが屋内へ入った途端、雨粒が窓ガラスをパタパタと叩き始めた。あっという間にざあざあ降りとなり、にわかに使用人たちの動きが慌ただしくなる。
帰りは馬車と聞いているけれど、力車 であろうと馬車であろうと、俥夫 や御者 はずぶ濡れになってしまうだろう。かようなつまらない用事のせいで、それぞれの収入のためとはいえ大変な思いをさせてしまうことに、トモは心苦しさを感じていた。
このどしゃ降りの中を三郎がやって来るとも思えず、立食のテーブルを眺めて持ち帰る菓子を選ぶ。朝見たハルの笑顔を憶 い出し、トモはくすっと微笑んだ。
しばらくして、窓際の紳士たちが何やら騒ぎ出した。トモは気掛かりになり、栄達に問う。
「お父様、何かあったのですか」
「うむ。どうやら、正門の脇に人がずぶ濡れで立っているらしい」
トモは窓に歩み寄り目を凝らす。瓦斯灯の明かりでぼんやりと、ハルの姿が見え隠れしていた。
……どうしてハルがここに?
トモは下階で給士 から小豆 色の洋傘を借り、急いで邸宅を出て、水溜りを靴で蹴りながら門まで走った。トモに気付いたハルが安心したような笑みを浮かべた。
「ハル、ここで何をなさってるの?」
「ウメと店の人が旦那様もトモも戻ってこねぇって喋くり合ってたから、厄介ごとにあったかと思って来たんでありんす」
彼女の手には閉じた雨傘がぶらさがっていた。取り敢えず近付いてハルを洋傘の下に入れる。ここまで走って来たのか、汗の匂いがぷんと漂う。
「どうやってここまで……。あなた、道がお分かりになったのかしら」
「曲がり角のたんびに、人に道を訊 いて来やした。走ってたから傘もさせなくて」
ハルは自嘲気味に笑う。
「そんなにお気遣いをなさらずとも、わたしはちゃんと帰りますよ」
「でも、もう友だちをなくすのは嫌だ。あちきの友は、トモだけでござりんす」
「ハル……」
トモは得心した。親しい人が焼けて亡くなったばかりで、新しくできた友だちを失くしたくないという気持ち。
手を差し出し、雨に濡れて冷えたハルの手をしっかりと掴む。
「約束。わたしはいなくなったりしません。どこに出掛けても必ずあなたのもとに戻ります。だから、心を安らかにして待っていてくださいまし」
ハルは握られた手をじっと見て、呟 く。
「面目ねぇこってす。トモの着物も濡れさしちまいました」
後ろから傘をさして歩いて来た栄達に、トモは洋傘を渡す。
「わたしはハルと共に帰ります。傘を持って来てくれたようですから」
「それではふたりとも濡れてしまうだろう。馬車を呼ぼうか」
「ほらこの通り、もう存分に濡れていますから、このまま歩いて帰りますわ。三郎さんがお見えになったら、よしなにお伝えください」
トモは父の返事を待たずに、ハルから受け取った小さな雨傘を開き、彼女の手を引いて歩き出した。
少し歩いて、ハルがトモの顔色を窺 う。気付いたトモは彼女に微笑みかけた。
「実は、早く帰りたかったの。ハルのおかげで退屈な夜が楽しくなりました」
「あちき、大道芸なんてできませんぜ」
「フフ……。そういうものではなくってよ。わたしはこうしてハルと手を繋いでいるだけで楽しいの」
トモはハルの手を強く握る。冷たいはずのハルの手から伝わってくる不思議な温もりで、トモの心は熱を帯びていた。
「トモ、約束って、ずっと?」
「もちろん、ずっとです。わたしは何処にいても、ハルのことを想います。ハルもわたしとお話ししたことを忘れないでくださいね」
「うん! トモの言うことはぜぇんぶ覚えておく! 約束!」
トモとハルは、目を見合わせて笑った。
「でも、下女が主人の娘に、うん、うんと相槌を打つのは良くありませんよ。はい、とお返事できるかしら」
「うん! できる!」
トモは引き攣 ったような笑みを浮かべた。
「……まあ、お返事はゆっくりと覚えていきましょうね」
ハルは屈託のない笑顔で応える。
「うん!」
「ぞろっぺえことしぃさんな。満杯まで入れたらそりゃあ重たくなるでしょうよ。
「へぇ……」
ハルはウメから目を逸らして、頬を膨らます。
「なんだいその顔は! あんたがとんちきなんだろ!」
唾を飛ばして叱りつけるウメの口へ、やにわに甘い香りが放り込まれた。彼女はぽかんとしてその
口を開けてビスケットを受け入れたハルは、もぐもぐ噛んで、ヒマワリのような明るい笑顔を見せた。
「おいしいぃ。ありがてぇこってす」
「お母様が頂いた
「そうそう。ウメ、今夕の会食に着ていく服を選んでおいてちょうだいね」
「かしこまりました。和服でよござんすか」
「ええ、そうね。ドレスはコルセットで締めつけられるから嫌よ」
ウメはひとつお辞儀して、食器の載った膳を持ち上げて去っていった。
「ハル。もっとウメと仲良くしなさいな」
「でもあちき頓馬で、聞いたことをすぐ忘れちまうでありんす」
「……昨日わたしと友だちになったこともお忘れ?」
「それは嬉しかったから忘れてない! トモは友だちでござりんす!」
「よろしいことです。ウメには、もう少し辛抱してもらうように言っておきますね」
「かたじけねぇ。かたじけねぇこってす」
「フフ……。あと、
そう言って微笑み、トモは母屋へ歩いていく。人の親切をあまり知らないハルは、不思議そうな顔で彼女の後ろ姿を見送っていた。
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昼過ぎの空は
じいっと掲示を眺めるウメに歩み寄る。
「雨天勝チ、だってさ。雨が降るかもしれないから、
「ウメも袋を持ってくだせぇ。重てぇでありんす」
「もう、あんたが自分の袋を忘れたからこんなになってるんだよ。頑張りぃな」
「……けちん坊」
ウメはきっとハルの顔を
大きくひと息吐いて、ぷいっと顔を逸らして足早に歩き始める。ハルは追いかけるようにして小走りになった。このあとあずま袋の中の荷を盛大にひっくり返したのは言うまでもない。
屋敷に戻って洗濯物を片付けていると、恰幅の良い番頭の
「もし、旦那は町の見廻りかね」
分からずあたふたするだけのハルの背中をぽんと叩き、代わりにウメが答える。
「旦那様は、
「おや、昨日も夜会に出掛けてらっしゃったぞ。連日留守にされては決めるものも決められんなぁ」
ぶつくさ言いながら一助は店へ戻っていく。ハルが見上げた空は、さっきよりも随分と色を濃くしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
トモは
父の
晩餐は洋食ばかりで濃い味だし、フォークやナイフの作法に気を揉んで胃も心も疲れ果ててしまう。それでトモは気晴らしに、上階のテラスへ出て外の風に当たっていた。
表通りでは、
栄達が空を眺めながらテラスに出て来た。手すりに寄っかかり、大きく息を吐く。
「三郎くんはまだだな。汽車が遅れているのかもしれん」
「……三郎さんを待っていたわけではありませんよ。胃がもたれて風に当たっていただけです」
この夜会で、久しぶりに
「雨の匂いがするな。さあ、中へお入りなさい」
促されてトモが屋内へ入った途端、雨粒が窓ガラスをパタパタと叩き始めた。あっという間にざあざあ降りとなり、にわかに使用人たちの動きが慌ただしくなる。
帰りは馬車と聞いているけれど、
このどしゃ降りの中を三郎がやって来るとも思えず、立食のテーブルを眺めて持ち帰る菓子を選ぶ。朝見たハルの笑顔を
しばらくして、窓際の紳士たちが何やら騒ぎ出した。トモは気掛かりになり、栄達に問う。
「お父様、何かあったのですか」
「うむ。どうやら、正門の脇に人がずぶ濡れで立っているらしい」
トモは窓に歩み寄り目を凝らす。瓦斯灯の明かりでぼんやりと、ハルの姿が見え隠れしていた。
……どうしてハルがここに?
トモは下階で
「ハル、ここで何をなさってるの?」
「ウメと店の人が旦那様もトモも戻ってこねぇって喋くり合ってたから、厄介ごとにあったかと思って来たんでありんす」
彼女の手には閉じた雨傘がぶらさがっていた。取り敢えず近付いてハルを洋傘の下に入れる。ここまで走って来たのか、汗の匂いがぷんと漂う。
「どうやってここまで……。あなた、道がお分かりになったのかしら」
「曲がり角のたんびに、人に道を
ハルは自嘲気味に笑う。
「そんなにお気遣いをなさらずとも、わたしはちゃんと帰りますよ」
「でも、もう友だちをなくすのは嫌だ。あちきの友は、トモだけでござりんす」
「ハル……」
トモは得心した。親しい人が焼けて亡くなったばかりで、新しくできた友だちを失くしたくないという気持ち。
手を差し出し、雨に濡れて冷えたハルの手をしっかりと掴む。
「約束。わたしはいなくなったりしません。どこに出掛けても必ずあなたのもとに戻ります。だから、心を安らかにして待っていてくださいまし」
ハルは握られた手をじっと見て、
「面目ねぇこってす。トモの着物も濡れさしちまいました」
後ろから傘をさして歩いて来た栄達に、トモは洋傘を渡す。
「わたしはハルと共に帰ります。傘を持って来てくれたようですから」
「それではふたりとも濡れてしまうだろう。馬車を呼ぼうか」
「ほらこの通り、もう存分に濡れていますから、このまま歩いて帰りますわ。三郎さんがお見えになったら、よしなにお伝えください」
トモは父の返事を待たずに、ハルから受け取った小さな雨傘を開き、彼女の手を引いて歩き出した。
少し歩いて、ハルがトモの顔色を
「実は、早く帰りたかったの。ハルのおかげで退屈な夜が楽しくなりました」
「あちき、大道芸なんてできませんぜ」
「フフ……。そういうものではなくってよ。わたしはこうしてハルと手を繋いでいるだけで楽しいの」
トモはハルの手を強く握る。冷たいはずのハルの手から伝わってくる不思議な温もりで、トモの心は熱を帯びていた。
「トモ、約束って、ずっと?」
「もちろん、ずっとです。わたしは何処にいても、ハルのことを想います。ハルもわたしとお話ししたことを忘れないでくださいね」
「うん! トモの言うことはぜぇんぶ覚えておく! 約束!」
トモとハルは、目を見合わせて笑った。
「でも、下女が主人の娘に、うん、うんと相槌を打つのは良くありませんよ。はい、とお返事できるかしら」
「うん! できる!」
トモは引き
「……まあ、お返事はゆっくりと覚えていきましょうね」
ハルは屈託のない笑顔で応える。
「うん!」