第12話 落語

文字数 3,200文字

「……う~ん、よしとこう。夢になるといけねぇや」

 横丁長屋の前、(むしろ)の上で平太(へいた)は、閉じた安物の扇子(せんす)で手前の小さな木箱をタン、タンと叩いた。小噺(こばなし)の終わりを告げる合図のはずが、ハルはじめ二十人ほどの聴衆はぽかんと口を開けて次の言葉を待っている。

「なんでぃお(めぇ)ら。落ちは付いたんでやんす。ちったぁ拍手くらいしたらどうなんすか」

 口をあんぐりさせていた最前列のハルが、首を(かし)げて問う。

「それで、どういうお(はなし)だったんでありんす?」
「お、おぅ……さっぱりか。ハルには難しいかも知れんす」
「えぇと、勝之進が酔っぱらって……」
勝五郎(かつごろう)、な」
「酔っぱらった勝五郎が浜で財布を落として……、女房(にょうぼう)にだまされて全部取られた?」
(ちげ)ぇよ。そりゃ出来が(わり)いだけの男じゃねぇすか。浜で大金の入った財布を拾ったはずだけど、女房にそれを酔っぱらって見た夢だって言われて、勝五郎は酒をやめて真面目になんの。そんでもって、しっかり自分の店を立派にしたところで女房から大金の入った財布を見せられて、夢じゃなかった、もう酒も飲んでいいって言われるけど、また夢になるといけねぇから飲まねぇって(はなし)だい」
「はぁ」

 いまいち面白さが分からず、ハルは薄ら笑いを浮かべた。ハルなりに気を遣ったつもりの表情であるが、平太はがっくりと肩を落とした。気付けば長屋の住人たちは散り散りになっていて、ハルの他にはどこぞの(はな)垂れ小僧しか残っていなかった。

「平太にぃ、なにいってっかわかんねぇぞ」
「うっせぇよ。て(めぇ)にゃまだ早いんでぃ」

 小僧は、あっかんべして逃げて行った。

 平太とハルは、幅の広い河川に架かる大きな橋を渡り、大通りから水野商店の手前で曲がって、裏門へとぼちぼち歩く。すると、台所から白い煙が立ち昇っていた。

「くん、くん。昼は秋刀魚(さんま)でありんすかねぇ」
「秋刀魚といえば、目黒の秋刀魚ってな噺もあるでやんす。落語は何でもお題目にしちまうんでぃ。酢豆腐(すどうふ)時蕎麦(ときそば)唐茄子(とうなす)、あとは饅頭(まんじゅう)……」
「まんじゅう! まんじゅうは好きでありんす!」

 活気づくハルだが、裏門前で仁王立ちするウメの姿を見つけた瞬間、一気に血の気の引けたような顔に変わった。

「やいハルぅ! 買い(もん)に行ったアンタが昼飯時まで戻らずに何も持ってないってのはどういう了見だい?!」
「……白ネギ!」
「道草食って満腹になってんじゃないよ! さっさと行ってこいやぁ!!」

 ウメの気迫に追いかけられるようにして、ハルはぴゅうと駆けて行った。どたばたとした足取りを眺めて、平太は大笑いする。

「あいつ、与太郎(よたろう)みてぇでやんすなぁ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 夕飯の片付けが済み、トモはハルを誘って銭湯へ行こうと、女中部屋の下階の土間に入った。
 (むしろ)の上に座したハルが幾つもの丸い泥団子と睨み合っており、その(かたわ)らでは白い毛の子猫が毛づくろいをしていた。

「どうしたの、ハル」
「へぇ、聴いてくだせぇトモお嬢。実はあちき、まんじゅうの形が怖くなっちまったんでありんす。このまぁるくて柔らかくて、うま……まずそうなもんが苦手でやん……ありんす」

 トモはすぐに、ハルの企てを察知した。

「それは困りましたね。せっかく銭湯の帰りに饅頭でも食べようと思っていましたのに」
「!!」

 ハルが泥団子を裸足で踏み潰すと、驚いた子猫は急な木階段をタタッと上がり女中部屋へ逃げ込んでしまった。

「いま、今しがたまんじゅうが好きになりやした! まんじゅう、大好き!」
「はいはい。さ、銭湯に行きましょ」
「へぇ、合点(がってん)でぃ!」

 通用口の戸を開けて小道を歩き、ふたりは大通りへ出た。夕陽が山の()に隠れ始めていて、橙色に輝く街は帰りの棒手振(ぼてふ)りや力車(りきしゃ)、往来する人たちで(せわ)しない。水野家から銭湯までの道には最近になって瓦斯灯(がすとう)が幾つか設置されたし、夜まで開いている茶店もちらほら。銭湯からの帰りが少しばかり遅くなっても良いのである。

「で、平太から他にも色々吹きこまれたのかしら」
「……何のことでありんしょ」
「饅頭こわい、だけではないでしょう」
「ええと、(うなぎ)に逃げられるのと、豆腐が酸っぱくて不味(まず)いのと、何でも猫の所為(せい)にする(はなし)……」
「なんだか間の抜けた噺ばかりですね。そういえばあの子猫、名前を考えてあげた?」
「ウメに、別れる時つらくなるから名付けるなって言われたでありんす」
「別れる時……か。そうね、そうだよね……」

 トモは俯いて、それきり何も喋らなくなった。

 銭湯にて。着物を脱いでいる時も、洗体している時も、風呂に浸かっている時も、風呂から上がり着直している時も、トモは物静かに動いていた。いつもと違う雰囲気に、ハルは声を掛けることができず、さりとてどうしたらいいかも分からず。ただおろおろしていた。

 帰り道、茶店を通り過ぎてしまうトモの袖を、ハルがぐいっと引っ張った。

「トモぉ、……まんじゅう、こわい」
「あ、そうでしたね。食べていきましょうか」

 そう答えて微笑む。ハルが安心して大きく息を吐くと、その息はほんの少しだけ白くなって夕闇に消えていった。トモが二つの饅頭と二服の茶を買い、ふたりで店の軒下にある長椅子の赤座布団に座った。

「ハル、お月様が綺麗に見えるね。あれは三日月(みかづき)っていうの」
「あの細っちい月さん、みかづきって名前ですかいな」
「そう。一等大きいのが満月(まんげつ)、それから小望月(こもちづき)十三夜月(じゅうさんやづき)上弦(じょうげん)の月、三日月(みかづき)二日月(ふつかづき)新月(しんげつ)。他にもまだまだ月の名前はたくさんありますよ」
「いいなぁ、トモは何でも知ってて。あちきは学校に行けなかったから……」
「これからわたしが教えてあげます。わたしがハルの先生になります」
「……ずっと?」

 その問いに、トモはまたしても黙ってしまった。少し憂いを帯びた表情で月を眺めるトモを、ハルは潤んだ瞳でとらえている。

「わたしは……」

 トモは口をいったん引き結ぶ。
 茶碗を盆に置き、ハルの顔をしっかと見て、もう一度、口を開く。

「わたしは、どこへ行っても必ずあなたの所に戻ります」

 ハルの瞳から、ひとすじの涙が流れた。

「あちき、トモとずっと一緒に、居たい。本当に、どこに行っても戻ってきてくれる?」
「本当です。約束します」

 トモは、ハルに肩を寄せる。
 夕闇から吹き付けた秋風が、ふたりの少し濡れた髪を揺らした。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ……」
「にゃあ」

 昼下がりの中庭にて。ハルは子猫に向かい、何やらを唱えている。そこにミヨが猫の餌を持ってやって来た。餌は昨夕の秋刀魚(さんま)の残りをすり潰したものだ。

「ハルや、ぶつくさと何を言っているのですか」
「平太が猫の名前を考えてくれたんでござりんす。……ふうらいまつすいぎょうまつ……。でも長すぎて困ってるんでご、ごじゃります」
「それは寿限無かしら。寿限無(じゅげむ)寿限無(じゅげむ)五劫(ごこう)()()海砂利(かいじゃり)水魚(すいぎょ)水行末(すいぎょうまつ)雲来末(うんらいまつ)風来末(ふうらいまつ)()()(ところ)()(ところ)藪裏(やぶら)柑子(こうじ)ぶら柑子(こうじ)ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりんがんしゅうりんがんのぐうりんだいぐうりんだいのぽんぽこぴいのぽんぽこなの長久命(ちょうきゅうめい)長助(ちょうすけ)、……げほっ」
「にゃあ」

 げほげほと咳するミヨ。しかしハルの目は輝く。

「奥様すごい。あちきはいっぺんも最後まで言えてないんでごじゃりんす。この、じゅげむじゅげむ……」
「もう長助(ちょうすけ)にしたらどうですか(おす)なのだから。ねぇ長助」
「にゃあ」

 ミヨが餌の入ったブリキ皿を置くと、長助は勢い良く飛びついた。
 がつがつ秋刀魚のすり身を食べる長助の背中を、ハルは優しく(さす)る。

「ちょうすけぇ、ちょうすけ。んふふ」

 座り込んで楽しそうに声を掛けるハルの頭を、ミヨは思わず撫でる。
 撫でられて驚きハルは振り向く。と、耳を赤くしたミヨがそそくさと立ち去るところだった。

「あれは……本物の奥様なんでありんしょか」

 台所からウメが顔を出す。

「おぅい、ハルぅ。茶が沸いたけど飲むかいなぁ?」

 そこでハルは、にやりと笑みを浮かべて答える。

「よしとこぅ。さっきのが夢になるといけねぇ」
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