第5話 夢

文字数 3,418文字

 女学校にて。若葉を(まと)ったイチョウの木の下で、トモは学友のハツから別れを打ち明けられた。

「私ね、この月で学校を辞める。結婚が決まったの」
「そんな、突然? 確か卒業して幾年か働いてからと言ってなかったかしら」
「そのつもりだった。でも向こうの親御さんが『家庭のことは家庭に入って学べばいい』って。学校はお裁縫とかお料理くらいしか勉強させないと思ってるみたい」
「ハッちゃんのお父様は、反論してくださった?」
「駄目よ。うちの親より向こうの立場が上だもの。へへぇー、娘をよろしくってなもんで、私の希望なんか聞きやしない」
「でもハッちゃん、先生になりたかったんじゃ……」

 ハツは正門を見やる。ちょうど力車(リキシャ)が停まったところだった。

「今日は会食。式の段取りを打ち合わせるらしいわ。こっちの気持ちも知らずに、どんどん話だけ進んでいくのよね」

 少し歩いて、思い出したように振り向いたハツの目は涙を(たた)えていた。

「夢を諦めるのってすごく辛い。トモは夢、叶えるのよ」

 手を振り再び正門に向いて歩き出したハツに、トモはかけるべき言葉を見失い立ち尽くす。

「わたしの、夢……」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 水野商店の表通りを真っ直ぐ進み、幅の広い橋を渡り切り、右手にずっと伸びる川沿いの土手。そこには近くの園芸店の花畑由来と思われるベゴニア、フウリンソウ、カザグルマ、エニシダなどの綺麗な花をもつ植物が元気に自生している。

 そこでハルは花を摘んでいた。昨日の夜に降った雨のせいで足元はぬかるんでおり、少し注意を怠ると傾斜のある土手を滑り落ちてしまう。よって、すでにハルは当たり前のように泥だらけだ。着物も草履(ぞうり)も両手も左の頬も、全部が土に(まみ)れていた。

 それでも必死こいてせっせと花を摘み、籐籠(とうかご)へ入れていく彼女に、土手の上の(ほう)から声がかかる。

「そんなに(ひと)(ところ)で花を()ったら、川向こうからの景色が悪くなるんじゃないかな」
「……なんでい、あちきを捕まえるんですかいな」
「こんな格好の警察が、いると思うかね?」

 彼は両腕を上げて見せる。背広(スーツ)にインバネスコートはともに暗い色、西洋ハットで隠しているのは散切(ざんぎ)(あたま)だろう。眉が太く精悍な顔つきで、立派な風に見えなくもないが何者か。

「だったら何用ですかい。こちとら忙しいんですぜ」
「ほぅ、急いでるのか。じゃあ……」

 男は道から土手に()り、そろりそろり足を運んでハルの近くまでやって来た。革靴がぬかるみに(はま)って既に泥塗れになっている。それでも、ハルの真似事で両足をぐっと開き踏ん張る。

「どの花を採ったらいいのかなぁ」
「あ、えっと……、足元の青いのをお(ねげ)ぇしやす」
「あい、分かった」

 ズボンとコートの(すそ)も靴も何から何まで泥に(まみ)れるのを気にもせず、楽しそうに花をつまんで籐籠に入れていく。ハルがぽかんとその姿を見ていると、彼はちらり顔だけ振り向いた。

「急いでいるんだろ。君も早くしなよ」

 そう言われて慌てて動き始めた途端、ハルはずざざっと土手を滑り落ちてしまった。それにも気付かないくらい、彼は花摘みに集中している。

 その(あと)、ハルと名も知らぬ男は作業を続け、籐籠が満杯になった時点で道に上がって帰途に着いた。

「あの……旅のお(かた)、いつまでついてくるんですかい?」
「ハハ、僕は旅なんぞしてないよ。用事があって水野家にお邪魔するところだ」

 水野商店の裏口に回る。遠目からでも分かるほどの怒りの感情を(まと)ったウメが、腕を組んで仁王立ちしていた。

「ハぁぁぁルぅぅうう! いつまでさぼってんだい! それに雨が降るから外に干すなってあれほど……」

 ハルの後ろに立つ男に気付いて、ウメの文句が止まる。

「……三郎さん?」

 三郎と呼ばれた泥だらけの男は、軽く右手を挙げた。

「やぁ、ウメさん」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 裏門の通用口から入ったトモに、ウメら女中三人がわぁっと寄って(たか)る。

「ど、どうなされましたの?」
「三郎さんが……三郎さんが家事の手伝いをおやりです!」
「しかも泥だらけで!」
「しかもハルが滅茶苦茶なやり(かた)ばっかり教えて!」

 なんだか妙ちきりんなことが起きているらしい。トモは背中を押されて洗濯場へ向かう。女中たちも、彼女を押しやりながら恐る恐る後をついてくる。

 洗濯場にはハルと三郎がいた。ハルはいつも通りに、三郎は辿々しい動きで洗濯板と石鹸を使い法被(はっぴ)を洗っている。肩をトントン叩きながら頭を上げた三郎は、トモの姿に微笑みを浮かべた。

「やぁトモ。久しぶり」
「それは女中のお仕事ですよ。即刻おやめください」
「おやおや、どうしてかなぁ」
「もう……ちと来てくださいまし!」

 トモは三郎の腕を取って洗濯場を出る。中庭を勢い良く突っ切り、母屋の土間へ入った。そして三郎から手を離して向き合う。

「母が在宅でしたら面倒なことになってましたよ。殿方が女中のお仕事を奪ってはいけません!」
「そう? うちではお手伝いさんと一緒にお菓子を焼いたりするけどね。ここのしきたりが古式ゆかしいんじゃあ……」
「三郎さん、それは侮辱に当たります。取り消してください」
「いやぁでも……」

 トモは三郎をきっ、と睨みつける。

「取り消して、くださいまし」
「……分かった、御免よ。世世(せぜ)の伝統を守るのも立派なことだよね」
「そうです。なんでも新しいことが()いと思わないでください」

 大きく息を()いたトモに一礼して、三郎は(きびす)を返した。

「今度はどちらへ?」
「トモに会えたことだし、もう帰るよ」

 そう言ってさっさと中庭へ戻ってしまい、ウメからコートを受け取り通用口から出ようとする。三郎はハルを見つけ、にこっと微笑んで手を振った。ハルは三郎とトモを交互に見て困惑の色を浮かべている。

「またね、ハルさん」

 ひと言放って戸を()け外へ出た三郎に、トモが走り寄る。

「お見送りいたします!」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 三郎は町の景色をにこにこ見廻(みまわ)す。陽が下がり始めた時刻で、家路を急ぐ人や力車(リキシャ)、積荷車を引く人たちなどの喧騒の中、鉄道馬車の発着場を目指して歩く。後ろには三歩遅れてトモが従う。

「トモは女中たちに慕われてるよなぁ。僕がハルさんと遊んでる間中ずっと、君の戻りを待ってたんだ」
「今日は母が出掛けていましたので、他に頼れる者がなかっただけでしょう。それより遊びって(なん)ですの。家事は遊びではありません」
「生活にまつわることだって、楽しもうとするのは()いことじゃない?」
(みな)の迷惑になるようでは、ただの独りよがりです。自分が楽しければそれでいいのですか」

 三郎はおもむろに足を止め、振り返った。

「やっぱりトモは優しいね。他人(ひと)の気持ちを大切にする。僕にはできない素敵な振る舞いだよ」
「誤魔化し。それに今更おだてても後の祭りです」
「あれま。……そうかぁ」

 夕焼けの色に染まり始めた空を見上げて、三郎は息を()いた。

「ハルさんが、トモの話ばかりするんだよ」
「……ハルが?」
「うん。トモと絵の先生の所に行ってるとか、風呂で勝負をしたとか。毎日声をかけてくれる、いつも笑顔で話しかけてくれるってね」
「だって、友だちですもの……」
「こうも言っていたよ。『トモはずっと、いつまでも一緒にいてくれる』って。それで……」

 トモは目を見開く。確かにハルと約束した。いなくならない、必ずハルの元へ帰ると。それは自分が水野家にいる(あいだ)のことと考えていたが、どうやらハルは、その先まで約束が続くと(とら)えてしまったようだ。

「……(ひど)いことをしてしまいました。ずっと、なんて言葉を使ってハルに誤解されるようなことを……」

 目を(うる)ませて(うつむ)いたトモ。その肩に両手を置いて、三郎は彼女の顔を(のぞ)き込む。

「ハルさんをうちで雇えないか、父に頼んでみるよ。結婚してもトモと一緒にいられるようにさ」
「そんなことが……?」
「無理かも知れない。だから、トモはあの()に別の夢を与えてやってほしい。例えば、絵なんかでも()いだろう。離れても辛くないように、悲しまないように」
「わたしは……、はい。ハルの悲しい顔はもう見たくありません。できるだけのことをしてあげようと思います」
「そうだね。ふたりで……あっ」

 遠景に鉄道馬車を確認した三郎が、慌てて駆け出す。

「またねっ、トモ!」
「あの、……お気をつけて!」

 手を乱暴に振りながら駆けて去る三郎を見送りながら、トモはふと違和感を覚えた。

「……結婚?」

 まるで近く結婚するつもりであるかのように話していたことに気付き、独り赤面して立ち(すく)むのであった。
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