第20話 飛翔
文字数 2,392文字
「鰻の絵。頼まれたのは、う・な・ぎ、なんだぞ」
「だから描いたじゃありんせんか」
玅安 は、仁王立ちするハルの表情と、その人物から生み出された絵画を交互に確かめる。作者は、いたって真面目な顔だ。そして作品は……。
「これ鰻じゃなくて翼が生えたなにがしだぜ。鳥? とんぼ? いや龍 か? 才の向ける方向をこれだけ間違えるとは、いやはや困ったなぁ。あー、困った」
「なにが駄目なんでありんすか。鰻が上昇してどこまでも高く飛んでいく、格好良い鰻がそこに在るのでござりんす」
「ねぇよ。空飛ぶ鰻なんて描いた奴はお前 以外に居 りゃしねぇんだ。居てたまるか。無駄に背景も上手くてどうしたって飛んでるようにしか見えないし。本当、勿体無いことしたなぁ」
絵具を片付けていたウメが、ハルの両肩に手を置いて後ろから絵を覗く。
「あら、いいじゃないの。さっきまではただの鰻だったのに、翼が生えて自由になったんだねぇ。こいつはどこに向かってるの?」
「むむ。そう言われると困るでありんすが。……多分、長崎辺りかな」
「そりゃお前 自身の願望じゃねぇか。ウメさんも止めてくれなきゃ。出来次第で報酬が変わる仕事なんだからさ」
「あっしにゃ絵心は無いんで。こうしてハル大先生の絵具を洗ったり準備したり。そんな手伝いしかできませんよ」
「ハァぁ、なんだかなぁ。これじゃ天下を取る前に寿命が尽きそうだぜ」
玅安はがっくり肩を落とし、工房から出た。そろそろ鰻屋の主人である寛次郎が絵を観に来る時刻だった。表へ出て古い木造の壁にもたれ、真っ青な空を悲しそうな目でぼんやりと眺める。昨日までは鰻だった。しかし今日になって、ハルは何かが足りないと言って翼を描き足してしまった。
水を捨てるために出てきたウメへ声を掛ける。
「そういやぁ、トモから手紙は来たのかい?」
「昨日届きましたよ。……あっ、それで翼を描いたのかも」
「なんでだよ。そうしろって書いてあったのか?」
「お嬢様の文で、翼があったらすぐにでも会いに行くのにって。うんうん、それで翼を描いたんですねぇ」
「なんてこったい。……お、寛次郎が来ちまったな。さて、どうしたもんか」
一人で歩いて来た寛次郎を工房へ招き入れ、玅安は妙な汗をたくさんかきながら彼に絵を見せた。
「ほおお〜。流石は吉野玅安の一番弟子。筆使いが大胆で、流れるような線に、鰻の光沢もしっかり表現しているな。……しっかし、なんで翼?」
やはりそう来たか。玅安は、からからになった喉から、絞るようにか細い声を出す。
「……ぅなんだよ」
「へ?」
「おっほん。これはな、飛翔を表現してんだ。鰻登りなんてなぁ所詮 小さな川とか滝が舞台だろ。こいつは違う。空を目指してるんだよ。遥か上、お天道 様を目指して羽ばたいてる。そのくらい商売が繁盛することを願って、立木 ハルが心を込めて翼を描きました!」
「う、うぉぉぉ。そいつはすげぇや。とんでもない才女が現れたもんだ!」
玅安と寛次郎が活気付いて絵を褒めちぎる様 に、ウメは冷淡な目を向けていた。なんだか逆にハルの絵が愚弄されているような。
そういえば、さっきからハルの姿が無い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ウメが近くの川を辿ると、川辺に座って物思いに耽 る、ハルを見つけた。近寄って、ハルが着物の袖で目を擦 っていることに気付く。
「こら、大切な目を傷めるよ。手ぬぐいで拭きな」
「……ありがとう」
「それにまだ風は冷たいんだから、ほら」
ウメはハルの肩に赤 毛布 を掛けた。
「ウメはお母さんみたい。あちきには今、お母さんが二人もいるんだ。こんなに幸せでいいのかな」
ハルはまだ水野家の下女だが、絵の仕事に集中して良いと言われ、ほぼ毎日を玅安の工房で過ごしていた。こうして時々ウメが様子を見に来てくれる。水野家に帰れば、ミヨが話を聴いてくれる。そんな愛情溢れる生活に、いささか戸惑いを隠せないハルなのであった。
ウメがハルの隣に座り、肩を寄せる。
「いいんだよ。アンタは絵の仕事を頑張ってるじゃない。皆 、アンタのことが好きで、好きだから応援してるんだよ。いっぱい甘えな。それで、世の中が驚くような作品を描いてくれたら、あっしは大満足さ」
春が近づく川辺で、ハルは花の匂いを思い切り吸い込んだ。
「いつか、あちきが描いた絵をトモに観てもらうんだ。有名になって、色んなところに絵を載せてもらって、それがトモに届くまで。あちきは頑張る。絶対に諦めない」
ウメは、ハルの頭をわしわし撫 でた。
「その心意気 だよ。きっと届くと思う。なんてったって、ハルの絵はすごいんだから」
「おーい! ハル!」
玅安が笑顔で駆けて来た。しかし滅多に運動をしない彼は、随分と手前で立ち止まり息を整えている。
ウメとハルは目を見合わせて微笑み、立ち上がると、玅安へ早足で歩み寄った。
「鰻の絵は売れたのかい? それとも駄目だった?」
「やっぱり翼は余計だったでありんしょか」
ようやく声が出るようになった玅安は、顔を上げ、満面の笑みを見せた。
「……売れた! そんでもって、次の仕事も決まったぞ。聞きたいか?」
「ちょっとぉ、勿体ぶらないでよ」
「大きい仕事でありんすか?」
「次の仕事はな……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから時は流れ、二年後。
汽車は新橋駅に到達した。
西洋帽子を被った洋服の女性が客車から降りる。
「……お父様。お久しぶりです」
「うむ。長旅、ご苦労様。お腹は大丈夫かな?」
「まだ時々気持ち悪くなることはあるけど、すぐにおさまります」
「それは良かった」
栄達 は、トモの荷物を引き取った。
「水野家に向かうか? それとも……」
「そうねぇ。まずは一番大切な人のところに行きたいかな」
「そう言うと思ったよ。力車 には乗れるか?」
「あんまり揺らさない方が良いから、歩いて行きます。少しは運動しないと」
桜舞う、うららかな春の日。
彼女は一枚の古紙を抱きしめながら、歩き出した。
「だから描いたじゃありんせんか」
「これ鰻じゃなくて翼が生えたなにがしだぜ。鳥? とんぼ? いや
「なにが駄目なんでありんすか。鰻が上昇してどこまでも高く飛んでいく、格好良い鰻がそこに在るのでござりんす」
「ねぇよ。空飛ぶ鰻なんて描いた奴はお
絵具を片付けていたウメが、ハルの両肩に手を置いて後ろから絵を覗く。
「あら、いいじゃないの。さっきまではただの鰻だったのに、翼が生えて自由になったんだねぇ。こいつはどこに向かってるの?」
「むむ。そう言われると困るでありんすが。……多分、長崎辺りかな」
「そりゃお
「あっしにゃ絵心は無いんで。こうしてハル大先生の絵具を洗ったり準備したり。そんな手伝いしかできませんよ」
「ハァぁ、なんだかなぁ。これじゃ天下を取る前に寿命が尽きそうだぜ」
玅安はがっくり肩を落とし、工房から出た。そろそろ鰻屋の主人である寛次郎が絵を観に来る時刻だった。表へ出て古い木造の壁にもたれ、真っ青な空を悲しそうな目でぼんやりと眺める。昨日までは鰻だった。しかし今日になって、ハルは何かが足りないと言って翼を描き足してしまった。
水を捨てるために出てきたウメへ声を掛ける。
「そういやぁ、トモから手紙は来たのかい?」
「昨日届きましたよ。……あっ、それで翼を描いたのかも」
「なんでだよ。そうしろって書いてあったのか?」
「お嬢様の文で、翼があったらすぐにでも会いに行くのにって。うんうん、それで翼を描いたんですねぇ」
「なんてこったい。……お、寛次郎が来ちまったな。さて、どうしたもんか」
一人で歩いて来た寛次郎を工房へ招き入れ、玅安は妙な汗をたくさんかきながら彼に絵を見せた。
「ほおお〜。流石は吉野玅安の一番弟子。筆使いが大胆で、流れるような線に、鰻の光沢もしっかり表現しているな。……しっかし、なんで翼?」
やはりそう来たか。玅安は、からからになった喉から、絞るようにか細い声を出す。
「……ぅなんだよ」
「へ?」
「おっほん。これはな、飛翔を表現してんだ。鰻登りなんてなぁ
「う、うぉぉぉ。そいつはすげぇや。とんでもない才女が現れたもんだ!」
玅安と寛次郎が活気付いて絵を褒めちぎる
そういえば、さっきからハルの姿が無い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ウメが近くの川を辿ると、川辺に座って物思いに
「こら、大切な目を傷めるよ。手ぬぐいで拭きな」
「……ありがとう」
「それにまだ風は冷たいんだから、ほら」
ウメはハルの肩に
「ウメはお母さんみたい。あちきには今、お母さんが二人もいるんだ。こんなに幸せでいいのかな」
ハルはまだ水野家の下女だが、絵の仕事に集中して良いと言われ、ほぼ毎日を玅安の工房で過ごしていた。こうして時々ウメが様子を見に来てくれる。水野家に帰れば、ミヨが話を聴いてくれる。そんな愛情溢れる生活に、いささか戸惑いを隠せないハルなのであった。
ウメがハルの隣に座り、肩を寄せる。
「いいんだよ。アンタは絵の仕事を頑張ってるじゃない。
春が近づく川辺で、ハルは花の匂いを思い切り吸い込んだ。
「いつか、あちきが描いた絵をトモに観てもらうんだ。有名になって、色んなところに絵を載せてもらって、それがトモに届くまで。あちきは頑張る。絶対に諦めない」
ウメは、ハルの頭をわしわし
「その
「おーい! ハル!」
玅安が笑顔で駆けて来た。しかし滅多に運動をしない彼は、随分と手前で立ち止まり息を整えている。
ウメとハルは目を見合わせて微笑み、立ち上がると、玅安へ早足で歩み寄った。
「鰻の絵は売れたのかい? それとも駄目だった?」
「やっぱり翼は余計だったでありんしょか」
ようやく声が出るようになった玅安は、顔を上げ、満面の笑みを見せた。
「……売れた! そんでもって、次の仕事も決まったぞ。聞きたいか?」
「ちょっとぉ、勿体ぶらないでよ」
「大きい仕事でありんすか?」
「次の仕事はな……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから時は流れ、二年後。
汽車は新橋駅に到達した。
西洋帽子を被った洋服の女性が客車から降りる。
「……お父様。お久しぶりです」
「うむ。長旅、ご苦労様。お腹は大丈夫かな?」
「まだ時々気持ち悪くなることはあるけど、すぐにおさまります」
「それは良かった」
「水野家に向かうか? それとも……」
「そうねぇ。まずは一番大切な人のところに行きたいかな」
「そう言うと思ったよ。
「あんまり揺らさない方が良いから、歩いて行きます。少しは運動しないと」
桜舞う、うららかな春の日。
彼女は一枚の古紙を抱きしめながら、歩き出した。