第13話 心抉る叫び
文字数 2,461文字
黒いフード付きコートの裾がぶわりと広がり、夏の快晴にひと時悠久の宇宙が染み渡った。
「名案だ、名案だよアランさん! ここ数千年で一番びりびりきたさね! あんた、すごいよ。あたしゃ感動した!」
「う、うん」
「その子は母親のとこに戻して、十年後また顔を出せばいいんだね? 自分好みに育ったら収穫して、うっはうはなんだねぇ? あの母親が気に食わないけどねぇ、薄幸の美少年なんて、逆にそそるじゃないか……!」
黒フードがはしゃぎ飛び回る。僕は一気に脱力した。善き隣人らしいというか、迷惑千万というか。いまの快に全神経を注ぎ、未来に盲目的過ぎる。そう誰かに愚痴りたかったが、そんな余裕はなかった。覚悟を決めなければならない。拮抗が崩れたいま、猛獣が檻から解き放たれる。
「なら赤子はわたしのものだね」
ミースが巨大船舶から飛び下りる。僕の対面の小舟に、天の御使いの如く舞い降りた。光の宝剣がこれほど神々しく、おぞましく見えたことはない。赤子を力いっぱい抱き寄せる。エーレ国の未来ある熱源を、姫のレプリカに譲れるか。赤子はむずがゆそうに顔を歪めた。
「わたしには尋ねないの? なんでって」
ミースの笑みが勝利を確信している。腹立たしい。本気で襲われたら、その通り、勝ち目は皆無だ。僕にできることは、妥協点を見出すことだけ。
しかし、会話が成立するか?
「どうして、ですか、王女様」
ミースが不機嫌に口をすぼめる。ひと息吸って何か言いかけたが、その息は喉を鳴らさず、炭坑から漏れ出るガスの如く静かに吐かれただけだった。
「まあいいや。どうして、どうしてだっけ? うーん、どうしてかな? ちょっと難しいよね。いろいろあるんだけどさ、一番は、幸せだからかな」
「何が、誰が」
「もちろん、その子だよ」
ミースが赤子に目を向ける。
「攫うのが、最善なんだ」
赤子は大きな声で泣き出した。自分の存在を主張し、ひたすらに愛に飢えている。人間は生息しない。揺り籠は存在しない。ちょうどいい温度のミルクは遠すぎる。酔っ払いの巣窟、終わりなき乱痴気騒ぎ、理不尽な魔法。妖精譚は誰がどう考えても、赤子の生育には適さない。
それを最善と謳うこの娘は、何者だ?
僕は声を震わせる。
「赤子が異界で生き抜けるわけないでしょう。黒フードみたいな狂気に巻き込まれ、あっという間に喰い殺されます。憐憫なんて一欠片も落ちていない。親から子どもを引き離し、異界に連れ込むのが最善? 正気ですか?」
「そうだよ?」
悪びれもしない。飄々とした態度に、僕は怒りが抑え切れない。足先で何度も艀を叩く。赤子の泣き声がますます強まる。
「なんでそんな呑気なんですか。それでもエーレ国の王女様ですか? 王族の一員なら、上王様や皇太子殿下みたいに、国民を第一に考えるのが当然でしょう。その笑顔はなんですか」
「別に笑っては」
「笑ってもなくとも! なんの感慨もなく、赤子を攫えるなんておかしいでしょ! 感情が欠落しているとしか思えない!」
動じない。暴言を微笑みで受け流す。そうだ、僕は知っている。ミースは変わらない。自分の正しさを疑わない。ただ一つの目的に焦点を合わせ、他は些末と一切を切り捨てる。人間とは思えないほどの美貌、神的気配。迷いは確信へ、いら立ちは嗜虐へ、舵を取る。
僕は最悪を叫んだ。
「あんた、やっぱり、人間じゃないんだろ!」
その言葉の意味を、これっぽっちも考えていなかった。
呼吸が荒ぶる。漠然とした不安がせり上がる。けして言ってはならない言葉だ。王女様に不遜極まりない、現実なら親兄弟親戚まで嬲り殺される。保身が撤回しろと合唱するが、意地が弱気な心を締め出した。僕は何も間違っていない、だから謝らない。
「あははは」
ミースが乾いた笑いを漏らす。ぷつんと何か切れたような……風に翻弄されて道化の如く踊る木の葉のような……。
「アラン君、気持ち悪いね」
声はいたって平静だった。
「変な敬語も、王女様っていう呼び方も、ほんと嘘っぽい。人間は現実で生きるべきだという思い込みも、親子は一緒にいるべきだという盲信も、王女は国民の為に尽くすべきだという押しつけも、――わたしを品定めするその視線も、何もかも気持ち悪い。思考停止、ステレオタイプを当てはめるだけ、本物を探ろうともしない。まるで人間だね」
ミースは肩の力を抜く。
「なんだ。君もか」
嘆息する。
視線が遠のく。
そこに秘められた感情は、絶対的な諦めだった。
ああ、そうか……。
腑に落ちる。
糸切れた先は、木の葉は、道化は僕か。
僕は、見捨てられたのか。
「しょうがないね。殺し合おうか」
ミースは僕に宝剣を向けた。
その光には、毒々しい闇が混じっていた。
赤子は泣きやまない。誰か別の嘆きを発散するように、まだ足りないと声を上げ続ける。君も、とは、僕に期待していた? その他大勢とは違うと、信じていた? ミースに拒絶され――先に見捨てたくせに激痛を覚え、それが僕を現実に引き戻し、問いを溢れさせる。何が違った? ミースは気持ち悪いと、僕を蔑んだ。気持ち悪くないから、期待していた?
僕だけが本物だった?
「――」
理解が急速に進んでいく。違和感の間隙が埋まっていく。
善き隣人と疑われ、ミースは針のむしろだった。勝手な正義のもと、対話なく虐げられた。神隠し事件以降、そんな場所で戦い続けていたはずだ。一番傷ついたのは、ああそうだ、ミースだ。傷つけたのは、僕で、国民だった。国民の為に尽くせなんてどの口がいう。
唯一の慰めが異界だった。善き隣人にとって、ミースは姫のレプリカでなく、ただのミースでしかない。王女と知らず接してきた人間は、僕だけだった。そんな僕は、ミースにとって、人間の中で唯一の友達だったのかもしれない。旦那様のもとに嫁がなかった、唯一の希望だったのかもしれない。
なのに、僕は裏切った。
他の塵芥と同じ態度を見せた。
「ばいばい」
僕がそう断じたように、善き隣人の残忍さで以て、ミースが僕に斬りかかる。
その目は独りぼっちだった。