第27話 旅路の果てに

文字数 2,056文字

 少女が大河に釣り糸を垂らしている。バケツもたも網もなく、無論釣果もない。すでに飽きているのか、しきりと欠伸していた。お姫様のようなネグリジェ姿で胡坐をかき、ケープを身に寄せて暖を取っている。庭師が近づいていくと、少女は緩慢な動きで振り返った。

「あれ、庭師だ」

 胡坐を崩してしどけなく座るその姿は、陸に上がった人魚姫のように愛らしかった。肩を抱くように縮こまり、幼い顔つきに八重歯が見える。その声音はローレライのように美しく、ローレライとは別の意味で、庭師を脅かした。庭師は腰が引けていた。いまにも逃げ出さんばかりに後退る。

「君があの庭から出るなんて、誰の命令?」

 エーレ国第一王女ミース・E・オコナーズが釣り糸を引き揚げる。

 先端には餌も、針もなかった。

「や、やあ。別に命令なんてないよ」

 庭師は子犬に怯える熊だった。視線が泳いで瞳がミースを映さない。ミースは釣り竿を捨て、岩場から飛び下りる。

 庭師の足元で、見上げながら押し潰す。

「それはおかしいよ。君に意思はないんでしょ? 前に即答したじゃない」
「あ、あるよ。あるさ」
「ほんとうに?」

 ミースは追求を緩めない。肉食獣のような存在感で威圧する。庭師は呼吸を荒げたが、それでも逃げなかった。

「はじまりは、あんたの言う通りさ。誰かの指示、期待だった。でも、いまは違う。俺は俺の願いを求めて、みんなの大事を自分で背負って、旅を続けているんだ。自分の意思で、あんたに会いに来たんだ」

「ふうん。変わったんだ」
「そ、そうだよ」

 庭師は頑張って胸を張った。

「俺は、もう違う」

 言い切る。唐突に違和感が押し寄せる。もやもやが胸をかき立てる。ミースに対する苦手意識だけではない。また別の何かが、庭師の心を縛っていた。脂汗が止まらない。わからないことがつらい。

「それは、」

 庭師はミースの言葉の刃に身構える。

「良いことだね」

 ミースはそっと笑った。

 少なくとも一難去って、庭師の緊張は決壊した。がくりと膝を折り、両の手のひらを地面につける。悪いことしたかなと、ミースはあっけらかんと言う。いや、君、わざとでしょ。なんのこと? どうせ認めないし、どちらにせよ関係ない。

 庭師の復活を待たずに、ミースは言った。

「わたしは最後の試練、ただの案内人だよ。真実を繋げるのが役目ね。――上流へ行って。全部、そこで終わるから」

 確信ある言葉に、疑義を挟む余地はなかった。

 ミースと別れ、上流に向かう。

 星降る道を行く。悠久の流れに逆らい、ただ真っ直ぐ前に進む。答えを求めて、一歩一歩着実に、無言で地面を踏んでいく。

 流星だけが付き人だった。

「なんだ、親父じゃないか」

 長い道のりの果てに、庭師は故人の父親と再会した。

「久しぶりだな、わが息子よ」

 父親は庭師より背が高く、紳士服で見た目を整えていた。強靭な筋肉が紳士服の外からでもはっきり見て取れる。振る舞いは優雅で落ち着きがあり、黒い髪がきっちりと固められていた。生真面目な顔が庭師そっくりだ。

 親子は大河を前にして座る。

「どこに行くつもりだ」
「問いの答えを探しているんだよ。親父なら答えられるか?」
「やってみよう」

 庭師は託された問いを口にした。

「なぜ心臓は必要なんだ?」

「生の証だ。大事なものが少なくとも一つあると、人々に知らせる為だよ。仮に抉られたとしても、そこに愛があることに変わりない」

「愛と血の他に、何が小鳥の心臓を満たすんだ?」

「神の恩寵さ。あの小鳥のことは、私も聴き及んでいる。天国の使者が、なかなか見つけられないと嘆いていたな。よほどの愛で護られているのだろう。体の一部でも夜空に映せば、ひとっ飛びなのにな」

「ルビーもサファイアも金箔も、心臓さえない彫像が、絶対的な貧困を前に、どう立ち向かえばいい?」

「ただ一つ。何よりも尊いことだ。――愛することさ」

 あっという間に答えを得られて、庭師はいたく感心した。父親はよく待ち、最適のタイミングで切り出す。

「託された問いは終わった。あとはお前だけだ。わかっているとは思うが、私が答えられる問いは、一人一つだけだ。けして問いを違えるな」

「もちろんだよ」

 庭師は自分の問いを問う。

「どうして春の庭は……」

 言葉が詰まる。

 再度試みる。声が漏れない。力を込めても息しか出ない。虚を突いても妨害される。庭師が庭師を喋らせない。

「さあ、お前の問いはなんだ?」

 父親にもう一度問われ、庭師は固まった。

 記憶が巡る。

 自分の意思はないの? まあね。君は人間だろ、ミース! 自分の足で踏み出したことは……割れた心臓は、あんたの心臓なのか? 本物の恋人に、何を頼むつもりなの? どうしてこの国で、あんただけが、激しく心臓を打ち鳴らしているんだ。

 なぜ俺は彼らに問うた。何が知りたかった。他人の事情に首を突っ込むなんて、俺らしくない。変わったからと信じていた。こんなほんの短い旅路で、俺の本質が変わるものか。俺が変われるものか。

 なにせ旅路の中で、俺は一度も感情を抱いていない。

 心揺れ動いていない。
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