第28話 心臓を動かし始めた巨人

文字数 2,745文字

 春の庭で寝そべり、平和であれば満たされた。嬉しいも楽しいも望まず、辛いや苦しいがなければ、それで良かった。貧困、飢饉、際限ない貪欲と比べたら、何不自由なく生きられることが、どれほど幸福か知っていた。

 俺に願いはなかった。

 涙が溢れる。欲しがったものがわからない。彫像、姥目樫、女王、あんたらはなぜ願う、なぜ問う。必死で何かを求めるあんたらが、眩しかったんだ。春の庭の秘密なんて、どうでもよかった。あの庭は親父から引き継いだだけだ。思い入れなんて、たいしてない。

 春の庭が、春でなければいいと、なぜそう思った。もし春でなければ、焼けつく夏だったら、枯れゆく秋だったら、凍てつく冬だったら。

 もし平和でなくなったら、俺も変われるのかな――。

 そうして、庭師は自分の問いを悟った。

 か細い声が出た。

「どうして、俺は、虚無の巨人なんだ……」

 庭師が悲痛に顔を歪ませる。

「欲望がないんだ。大事を知らないんだ。食べなくても生きていけるからか? 天敵がいないからか? 平和を愛して何が悪い。いや、別に、悪くないって、ちゃんと知っている。満たされて、無事平穏で、当たり前のように強くて、生存できて……なのに足りないんだ。もの足りなくて、辛抱ならないんだよ」

 欲張りな奴。庭師は自分を蔑む。吐き気がこみ上げて、はじめて苦悩を知る。いつも食事なんてしないから、胃酸しかのぼらない。女王にもらったクッキーだけは、きちんと栄養にしたかった。腹に力を込める。嘔吐を堪える。息を絶え絶えに、弱さに心を譲らない。

「教えてくれ。俺の問いの答えを」

 父親と対峙する。現実から目を逸らさない。

「良き旅路だったな」

 父親はわが子の成長を歓迎した。

「お前が虚無だったのは、他者の大事でなく、自分の大事を知らなかったからだ。自分の心臓で血を巡らせなかったからだ。誰かと比較して自分を定義づけても、歪みが生じる。お前にならない。お前は自分の願いを長らく勘違いしていた」

 父親は滔々と流れゆく大河を見る。

「旅を続けるのだろう?」

 庭師は答えた。

「ああ」

 続く言葉には、庭師の感情があった。

「層状の崖、落ちてこない星、枯れない大河。知りたい答えが、たくさんあるんだ。一つだけじゃ全然足りない。親父の手を借りずに、俺は俺で答えを見つけたい。尋ね回ることしかできないのも嫌だ。誰かの役に立てる巨人になりたいんだ」

 父親が厳しく問う。

「険しき道だ。春の庭の庭師よりずっとな。心折れる日も来るだろう。それでも行くのか。お前はお前の平穏を捨て去るのか」

「違うよ、親父」

 庭師の目は希望に満ちていた。

「俺だけの平穏を超えて、みんなの平穏を掴むんだ」

 庭師が快活に笑う。長年閉じ込められていた感情はついに解き放たれ、そこに虚無の影は一切なかった。表情を彩る感情は、なんてことはない、ただの愛だった。

 庭師がずっと振る舞ってきたものだ。

「アラン・フリール」

 肩に立つ僕を手に乗せて、地面に下ろす。庭師は片膝をつき、僕と正面から向き合った。僕は目を瞠る。彼はこんなにも堂々と、誰かの目を覗ける巨人だったか。こんなにも強く、意思漲る巨人だったか。僕が手を貸したかったのに、いつの間にか僕を追い越して成長している。

「いままで俺に付き合ってくれて、ありがとう。独りじゃここまで来られなかった。あんたは、俺の恩人だ」

「君が頑張ったからだよ」

 庭師は律儀に前置きした。

「なあ、あんたにも一つ訊いていいか?」

 そんな質問されるまでもなく、僕は首肯する。

「どうして俺を旅に連れ出したんだ?」

「お礼だよ。君はミースを救ってくれた。エーレ国に繋ぎとめてくれた」

「それだけか?」
「まあね」

 それ以上に大事なことがどこにある。

 庭師ははにかんだ。

「優しい奴」

 一つの旅路が終わり、新しい旅路が始まる。庭師は上流に進んでいく。前を向いて歩いていく。庭師に託された三つの問いの答えは、僕が持ち帰ることになった。庭師からの言伝はただ一つ、次に会った時はもっとたくさん話そう。

「あんたともだよ。アラン」
「ああ。またな」

 僕と庭師は、大小不釣り合いな互いの拳をかちんと当てた。

 星降る道を戻る。空が白み、時間が動き出していた。流星は変わらず空を駆け抜ける。庭師と違って歩幅が小さいからか、やけに距離が長く感じた。

「あれ、アラン君だ」

 ミースと合流する。ちょうど独り旅が寂しかったところだ。二人西に向かい、オリーブの国に立ち寄った。

 女王の熱烈な歓迎を受ける。問いの答えを教えたら、そんなことはもう知っていると、笑われてしまった。大臣や近衛兵、お付の影法師をたまに鬱陶しそうにしつつも、女王は心臓の鳴らない友達に囲まれていた。

 南の紅い林に顔を出す。真相を伝えると、姥目樫は躊躇いがちに枝葉を開いた。夜空に映った小鳥の死骸が、星の光に包まれる。そんなところにいたのね。白い羽根を生やし、光の輪っかを有した女性が舞い降りた。女性が姥目樫に触れると、姥目樫が恋愛相談を受けてきた血が集まってくる。

 その一滴が、小鳥の心臓を湿らせた。

 心臓の穴が塞がり、紅く脈打つ。体内に戻り羽毛が閉じれば、半球状に膨れ上がった瞼がぱっちりと開かれた。庭師が想像した通り、くりくりの黒い眼だ。小鳥は元気に羽根を動かし、女性の手のひらに飛んでいく。さあ、行きましょう。遙かな夜空へ、女性と小鳥は共に飛び立った。

 その夜、えも言われぬほど美しい愛と感謝の歌声が、紅い林、西の都、その果ての砂沙漠まで、降り注いだという。

 東の栄えた町に出向き、彫像に愛を説く。結局オレは何もできねえのかよ! 彫像は大声を上げ、鉛の体が溶けるほどゆだった。僕は誤魔化そうとしたが、ミースが半端をゆるさない。そんなものだよ、そう甘くない。よくあるような風が吹き、溶けた鉛を固めていく。

 だから、愛なんだ。ミースは付け足す。彫像は苦々しげに、けれど吹っ切れたように、ぼそっと呟いた。仕方ねえか。愛だけなら、配り歩くほどあるしな。

 彫像はあちこちと動き回るのを遠慮し、いついつまでも、鉛の眼で町を見守った。

 春の庭は、やはり幸福そのものだった。

「一人一つだったんでしょ? アラン君は何を問うたの?」
「庭師の願いは叶うかって」
「どうだった?」

 一回り大きくなった子ども達が、活発に走り回っている。小鳥はひっきりなしに歌い、新緑が樹々の生命を迸らせていた。春の庭がずっと春だったのは、きっと庭師の為だ。以前の庭師では、春の庭を維持できない。その時が訪れるまで、庭師が安らかな場所に居られるようにと、誰かが祈ったんだ。

 僕はミースに教えてやった。

「願いがあり過ぎて、うまく答えられないって」

 薫風が吹き抜けて、たくさんの願いを遙か彼方まで届けた。
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