第15話 胸の谷間が語ること

文字数 2,506文字

 黒フードが浮遊魔法を解き、僕とミースは床に降り立つ。火の玉が浮かび、部屋のあちこちに影が差す。黒フードにチーズケーキを献上し、赤子の生家に乗り込んでみれば、現実が待ち構えていた。

 赤子は僕の腕の中で、健やかに眠っている。

 冗談じゃない。

「他の家族は? この蛮行をどうして見過ごせる」

 僕の疑問は、ミースに悉く消化された。

「父親は毎日くたくたになるまで工場で働いて、夜はパブを梯子する生活。赤子のしつけ方を指導するはずの婆様は、田舎でのんびり暮らしてるよ」

「チェンジリングを察して、あえてそうしてるとか……」

「なら虐待の前に、お湯を沸かすでしょ? 仮にチェンジリングと確信があったとして、万が一を怖れないの? 子どもそっくりの善き隣人を虐待して、笑っていられるかな? それに、何、隣人さんなら虐待していいの?」

「隣人を追い払ったら、帰ってくるかもしれないじゃないか」

「あはは。それ、嘘だから。隣人さんはそんなサービス精神に溢れていないよ。取り返したいなら、自ら乗り込まなくちゃね」

 すべて言い終えて、僕は口を閉ざした。もし赤子を返したら、明日の夜にはもう、死体となっているかもしれない。赤子の寝顔を覗き込む。安らかなそれが、歪み、壊れ、血に染まるさまなんて、想像したくもない。

「ほら、あったよ。火かき棒」

 ミースが暖炉から長い鉄の棒を取ってくる。先端は折れ曲がり、くの字型だ。火の玉で炙り、真っ赤に焼けば、善き隣人の天敵が完成する。黒フードも密かに距離を取っていた。ミースが僕に火かき棒を手渡す。

「君の覚悟を見せてよ」

 火かき棒の持ち手は冷たく、手のひらに貼り付いて離れなかった。両手で支えても、その重さに膝が折れそうだ。酸素が足りない、呼吸が早まる。平然とことを為すほうが変だ。僕は揺り籠に歩き出した。

 子に親は選べない。やっていくしかないんだ。赤子には同情するが、僕はすでに腹を決めていた。こんな選択しか出来ない僕を、恨んでくれ。

「ごめんな」

 誰への謝罪か。

 赤子は眠るばかりで、己の悲劇に気づかない。

 僕は揺り籠の中へ、火かき棒を思い切り突き刺した。

「――何してるの!」

 光が迸る。火かき棒は光に弾かれ、その辺に浮いていた黒フードに向かった。黒フードは慌てて魔法で空中に留め置き、ひと息つく。きしゃああと猫のように威嚇しかけたが、ミースを見て自重する。

 手の痺れ以上に、僕は驚いていた。

 宝剣を振るったミースは、明らかに動揺していた。

 感情的に声を荒げる。

「虐待する母親のもとに赤子を返すことが、正しいというの? 何が国民の為に尽くせよ。アラン君こそ、この子の将来を考えて行動して」

 気迫の形相に怪訝を抱く。何がミースをここまで急き立てる。僕は迎え撃った。

「他にどんな方法がある。あの大広間で、君が世話するって? 昼は? 夜だって、毎日通えるわけじゃない。食事の準備、おむつの替え方、接し方、あやし方! 何も知らない王女様一人で、ほんとにできると思っているの?」

「昼は隣人さんに頼むよ。世話の方法なら、勉強する。それでいいでしょ」

「よくないよ。忍耐強い連中じゃない、異界で赤子は貴重だ。柔肉が好物だっていう隣人も知っている。護り切れるはずがない――まだ、あの母親のほうがましだ。善き隣人は危険なんだよ」

「知らない。わたしが護る。宝剣を侮らないで」

 僕はムッとして問い詰めた。

「君になんの義務がある。優しく清廉潔白な王女様なんて、嘘なんだろう? どうして赤子を庇おうとするの」

「それは、だって、」

 言葉が続かない。僕は催促するように見つめる。ミースは悶々と悩んだ果て、実に渋々といった様子で言った。

「わかったよ。見せてあげる」

 宝剣を光に崩す。追い出された闇たちが戻ってくる。火の玉の淡い光に目が順応するまで、多少時間がかかった。

「覚悟してよね」

 緊張を誤魔化すように、ミースは冗談に頼った。

 ケープを脱ぐ。
 ネグリジェの襟を大胆にはだけさせた。

 ネグリジェの襟は、縦に裂かれているのが常だ。就寝中息苦しくならないよう、配慮されているのだろう。ただでさえよく見える胸の谷間を、丸々解放する。二つのなだらかな丘陵が……。僕は即座に首を捻じった。一介の学生が、王女様のそれを拝んでよいはずがない。目の端が最後までミースの胸元を収めようとして困った。暗闇に感謝だ。若干、憎かった。

 ミースがずいと近づく。丘陵が僕の肋骨の下に納まる。わずかな接触面に全神経が集中し、弾力を探って燃えていた。ひひゃああ。

「ちゃんと見てよ」
「そ、そそそそんないやああええっと、」
「何言ってるの」

 ミースは実力行使を厭わない。背伸びして僕の後頭部を掴み、僕の頬を胸元に押しつけた。脳が壊死するほど甘い香りに、罪の意識でくらくらする。頬を通じて鎖骨の硬さと、ぶよぶよとした肌の感触が伝わってきた。ミースが胸の位置をずらすたび、不自然な凹凸を味わう。

 思わず身を引いていた。まじまじとミースの胸元を見つめる。劣情なんて忽ち吹き飛び、その意味を解釈しようと必死だった。

 凄惨な火傷跡。

 鎖骨から胸の上部に至るまで、肌は生々しく腫れていた。

「あの女の言葉を、よく覚えているよ」

 ミースの語りは平坦だった。

「あんたは娘じゃない。化け物だ。従順で気配りのできる優しいあの子を返せってね。面白過ぎるよ。従順でないわたしは、娘じゃないんだって。どんな気持ちで従順に振る舞ってきたかなんて、聴きもしないくせにさ」

 僕は二の句が継げない。ミースの声が熱を帯びていく。

「見下げ果てた親はたくさんいるの。泣くから叩く、ぶん回す、踏み潰す。善き隣人と似ているから、レプリカだから、焼いた火かき棒で突き殺そうとする。子は親の所有物? 育て上げれば心身を踏み躙っていいの? わたし達は、あんな奴等のおもちゃじゃない。

 理不尽に抗って、何が悪いの」

 凛と言い放つ。硬い闘志が燃え上がる。

「いまここで、あの子を母親に返せば、あの女の行いを見過ごすことと同義となる。戦いを放棄するの。それだけは、絶対に受け入れられない。

 わたしが赤子を護る」

 ミースの決意は揺るぎなかった。
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