第1話 キャロル・デイリーの災難

文字数 2,510文字

 エーレ国第一王女ミース・E・オコナーズと僕の妖精譚は、大団円とは呼び難かったし、教訓は時に残酷で、現実の無情に侵されていた。たとえるなら、田舎の襤褸屋敷で、炉火だけが唯一の熱、光だった、あの凍てつく冬の闇夜だ。冷気が男たちの心を蝕み、暗闇が男たちの魂を貪り、炉火が男たちの顔を――農作業で疲弊しきった男たちの顔を焼いた、あの夜の悲哀だった。

 当時、僕はまだ幼かった。月と星は雲に埋もれていた。道は闇と同化し、土の感触だけが道を示した。ランプの光を追いかけ、襤褸屋敷の掛け金を外した理由を、僕はもう覚えていない。父親は、僕を追い返さなかった。

 炉の正面、老人の足元に座る。老人は村の最年長で、歴史家だった。皺は深く、人生が刻み込まれていた。

「キャロル・デイリーという若者がいた」

 老人の瞳が炉火を映す。男たちは頷きだけを返した。

「デイリーは北からやってきた大柄な男で、恐れ知らずだった。彼らを恐れないことは、とても善いことだ。彼らの土地を横切らない、本当の名を呼ばない。礼儀作法に則れば、悪いことはまず起こらないからな。

 だが、世の中には、礼儀なんてどぶに捨てちまえという無鉄砲な輩もおる。身に沁みなければ、愚かさを理解できない連中だ。キャロル・デイリーは、まさにそういう男だった。

 この時はまだ、自分の足で立っていた」

 男たちは結末を知っていた。デイリーは傲慢で、彼らを見下していた。代償は大きく、教訓は明白だった。

「夕暮れ時、デイリーは垢ぬけた男と出会う。体は木立のように細く長く、シルクハットが様になっていた。快活に挨拶をかわした後、デイリーは男に尋ねた。

 どちらまで? この丘の頂上まで。男はすぐに答えた。
 こんな時刻に、どんな御用で。
 ええ、まあ、要するに、善き隣人ですよ。

 デイリーが妖――と言いかけたが、男が慌てて言葉を被せた。正気ですか。痛い目を見てからでは遅いのですよ。

 男は立ち去った。迂闊なことはしないものですよ。親切心から漏れ出た言葉が、デイリーをイラつかせる。何が迂闊だ、何が善き隣人だ。雄鶏の鳴き声で逃げ出すような連中に、なぜ俺が畏まらなければならない。あんな大男を操って、いい気になりやがって。

 月を覆う雲が途切れる。月明りに照らされた丘は色っぽかった。男の長身が上方に浮かび、デイリーは意地悪そうに笑う。善き隣人を見てやろうじゃないか。本当にいるというのなら。

 嗜虐心が沸き立ち、デイリーは丘を登り始めた」

 老人は立ち上がる。土間で泥炭を抱えてくる。暖炉にくべ、油をかければ、ぱっと焔が輝いた。男たちの瞳に映る朱が、強く濃くなる。

 僕は待っていた。老人は再び語り出した。

「頂上に男の姿はなかった。代わりに見つけたのは、黒い縦穴だ。大人一人容易に飛び込めるくらい幅広い。その底は月明りでも見通せなかった。

 黒い縦穴は、異界の古城への入口だ。かつて縦穴の深さを計ろうと、綱を垂らした測量士がいた。測量士は縦穴に引きずり込まれ、それきり戻ってこない。噂話、迷信に過ぎない。妖精譚にびくつく男ではない。デイリーは岩を掴んだ。

 黒い縦穴に勢いよく岩を投げ入れる。岩が何かにぶつかる破壊音を期待したが、不思議なことに、辺りは逆に静まり返った。雲をさらう強風は停止し、獣たちは呼吸を止める。

 星の瞬きさえ聴こえるような、無音が響く。

 岩はどうなったか。デイリーが縦穴を覗き込んだ途端のことだ。

 投げ入れた岩が縦穴から射出され、デイリーの顔面をぶち壊した。岩はデイリーの鼻を折り、唇を潰して破裂させる。顔の皮膚はぐちゃぐちゃに混ざり、眼球が飛び出た。デイリーはひっくり返り、山腹に転がり出す。道中乗り越えた岩場にぶつかり、弾け飛んで別の岩に激突し、残る岩すべてに体を叩きつけていく。必然的に腕や足は折れ、体は捻じれ、意識は彼方に吹き飛んだ。

 あくる朝、デイリーは麓の道で見つかった。顔の痣は生涯残った。二本の足で歩くことは二度となかった。生きていただけで僥倖だ。

 それからだ。キャロル・デイリーは、善き隣人の庭に近づかなくなった。本当の名はもちろん、善き隣人とさえ呼ばなくなった。やっと礼儀を心得たわけだ。ちとやりすぎだがな。善き隣人とて、人間を自在に殺せるわけじゃない。

 付き合い方さえ間違えなきゃ、案外愉快なものだ」

 男の一人が煙草を配り、別の男が火を貸す。老人はパイプに火を入れ、煙をくゆらせた。男の数だけ、紫煙が立ち昇る。男たちは暖炉を見つめ、めいめいに物思いに耽った。儚き人生、永遠の死。今年の冬を越せるかどうか、老いがたつく体、ひと時も休まらない心。妖精譚だけが、日々に彩りを与えてくれる。

 僕はただ待っていた。

 烈風が襤褸屋敷を揺らす。悲鳴と共に打ち寄せ、打ち寄せる。炉火は心もとなく、厳冬は終わらない。氷の獣が男たちの背中をよじ登り、頭から喰らおうと口をあけた。呑み込まれれば最後、もう太陽は望めない。いや、既に、胃の中か。温もりが消えていく。青々とした春の丘、陽光のもとではしゃぐ子どもたち。

 音の消えた襤褸屋敷と、無数の凍死体。
 哀しみが充満する。押し潰される。泥炭をくべろ。炉火が、ぷすぷすと……。

「次は?」

 男たちははっとし、一斉にパイプから口を離した。紫煙が煙突に吸い込まれていく。僕は老人の膝を揺らした。

「ねえ、次の話は?」

 柔和な眼差しが蘇る。老人が泥炭を取りに行く。燃料が投下され、一瞬、炉火は生き生きと燃え上がった。

 老人が語り出す。僕は毛布をくるまい、妖精譚に耳を傾けた。大団円はない。教訓なんて殊勝なもの、見つからない。子ども心に辛辣な描写。希望はない。探さなければ、足掻かなければ、望む未来は手に入らない。

 だから聴く。
 生き残るために、善き隣人を知る。

 この夜から十数年、国中を震撼させた王女神隠し事件から数年、大飢饉まで残り一年、エーレ国第一王女ミース・E・オコナーズと僕が出会い、敵対し、協力し、泣いた物語は、フェアリーテイルとは呼べなかった。

 骨をも凍りつく極寒の夜の如く。
 現実の妖精譚の中で、ミースと僕は善き隣人と再会した。

 炉火は、まだ、燃えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み