第26話 女王と心臓/分断者は誰?
文字数 2,174文字
中庭の惨状に気づく。庭師は弁償すると女王に謝り倒した。女王はあらゆる謝罪を拒否し、先へと急かす。あなたはもう十分、あたしの孤独を癒してくれた。
庭師は食い下がった。
「ならせめて、問うてくれよ。俺があんたの願いを持っていく」
「願いなんてないわ」
「それは嘘だ。癒される孤独が、良い孤独か?」
「……」
庭師はついに核心をついた。
「どうしてこの国で、あんただけが、激しく心臓を打ち鳴らしているんだ」
身を乗り出して女王を見つめる。眼差しは誠実だった。指一本で自分をぺしゃんこにできる初対面の巨人をお茶に誘う女王であっても、庭師の迫力にひるんだ。嘘偽りを知らない眼に、本心を隠しきれない。
心臓の鳴る者は近づかないで。期待を裏切って壊れたら、余計つまらないから。かつてこの国に君臨した幼い女王は、そう侍従に命令した。歴代の女王を除き、富める者も貧しい者も、全員が心臓を抉り出された。
その古き掟が、未だこの国を縛っている。
「いまの女王はあんただろ。やめればいい」
「人民が恐れているのよ。体が重くなって寝たきりになる。鼓動音がうるさくて夜に眠れなくなる。くだらない俗説に惑わされて、未だ心臓を拒んでいる。父様が早死にしたのだって、母様とあたし、二つの心臓に追い立てられたからと思い込んでいる」
「そんな馬鹿なこと」
「普通はそうよね、心臓が鳴るのなら。だけど、考えが根本から違うのよ。心臓の鳴らない彼らに言っても、聴く耳なんて持たないわ」
女王は背もたれに深く背を預ける。
「どうしようもないのよ」
取り澄ましたその表情は、かつての幼い女王そっくりだった。
「それで孤独は違うだろ……」
庭師の手が震える。振動がテーブルを揺らし、カップを倒す。テーブルクロスの継ぎ目が順々に裂けた。女王の諦めに対し、庭師は未知の思いに支配されていた。
「心臓の鳴らない彫像はいい奴だった。心臓の鳴る小鳥は愛の為に命を捧げた。心臓の鳴らない大臣や近衛兵の影法師は、あんたを全力で追い、あんたを本気で心配していた。孤独ってなんだよ。あんたが願ったのは、心臓の鳴る話し相手だけかよ。拒絶しているのは、あんたじゃないか。
心臓の有無を、心の有無にすんなよ!」
庭師が怒鳴り散らす。
予想だにしない自分の熱量にはたと気づき、口に手をあてた。
女王は驚きぱっと顔を伏せた。目の端に涙を滲ませ、唇を噛み締める。両親が早世し、ただ一人の跡継ぎとして存分に甘やかされた女王は、怒鳴られる経験に乏しかった。巨人とならばひとしおだ。
けれど庭師は、善き巨人だった。
「会ったばかりの俺の話を、真剣に聴いてくれたようにさ。心臓の鳴らない人民の声も、聴いてやれよ。あんた、いい奴だろ。そんくらい、簡単だよ」
「そ、それは、でも、だって、」
「怖いのか?」
庭師の率直な問いに、女王が繰り返し頷く。目尻の涙が零れ落ち、ドレスを色濃く湿らせる。この指で拭えたのなら、良かったのに。庭師は巨人であることを、はじめて厭った。ジャスミンの花を摘み取り、女王の上で手放す。
「そうだよな。怖いよな」
庭師はただ女王を受け入れた。
倒れた鉢植えが風に転がる。左右対称は崩れ去り、天人花の鉢植えは個性を求め、我先にと夜空に枝を伸ばし始めた。噴水も整列が乱れ、誰が一番遠くまで水を飛ばせるか競争するように、弧を高く大きくする。
時間が必要だった。
大臣や近衛兵、お付の影法師が集まってくる。女王の好物を散らし、喜劇が開幕し、中庭は宝石で満たされた。女王を泣き止ませようと、誰もが必死だった。庭師は中庭から退席し、外の壁の前で夜空を見上げる。
なぜ人々が星屑の軌跡に願いを預けるのか、庭師はその理由をようやく理解した。
「取り乱してごめん」
女王がやってくる。腫らした目は充血していたが、涙は止まっていた。涙の跡は残っていたが、表情は力強かった。
白い花を庭師に手渡す。
「いや、うん。俺も、もっと言い方を探るべきだった」
庭師は受け取った花の香りを味わう。
「ねえ、あたしの問いの答えも探してくれる?」
「当然だ」
女王は真剣に問うた。
「なぜ心臓が必要なの?」
庭師は微かに笑う。
本当に不思議だと、女王に賛同した。
オリーブの国を出る。
星降る道を行く。星空が回らないから、時間の経過がわからない。流星に導かれて、なだらかな丘陵地帯を東に進む。
崖を前に、庭師が問うた。
「どうして層状に積まれているんだ?」
言われてみれば、不思議だね。
「貝殻も混じっている。海からは、かなり遠かったと思うけど」
崖を迂回して通る。天の川を仰いで、庭師はおむもろに立ち止まった。長い腕を星空に伸ばし、ぽつんと呟く。
「あの星々は、どのくらい遠くにあるんだ?」
君でも届かないんだ。
「点にしか見えないけど、もしかしたら、もっとずっと大きいのかな?」
乳色の大河に辿り着く。庭師でも一跨ぎできそうにないくらい川幅は広く、急流が魚たちに試していた。水が撥ねるたび、甘くとろける匂いが立ち込める。永遠に、ゆるゆると、乳が流れゆく。
「この河は枯れないのか?」
上流で雨が降り続けているんじゃないかな。
「雨雲は見えないよ。どうしてこの河にだけ水が集うのかな? 乳色は雨起因? 乳色の雨なんて見たことないのに。大量の水はどこから来たんだ?」
庭師の問いが減ずることはなかった。
庭師は食い下がった。
「ならせめて、問うてくれよ。俺があんたの願いを持っていく」
「願いなんてないわ」
「それは嘘だ。癒される孤独が、良い孤独か?」
「……」
庭師はついに核心をついた。
「どうしてこの国で、あんただけが、激しく心臓を打ち鳴らしているんだ」
身を乗り出して女王を見つめる。眼差しは誠実だった。指一本で自分をぺしゃんこにできる初対面の巨人をお茶に誘う女王であっても、庭師の迫力にひるんだ。嘘偽りを知らない眼に、本心を隠しきれない。
心臓の鳴る者は近づかないで。期待を裏切って壊れたら、余計つまらないから。かつてこの国に君臨した幼い女王は、そう侍従に命令した。歴代の女王を除き、富める者も貧しい者も、全員が心臓を抉り出された。
その古き掟が、未だこの国を縛っている。
「いまの女王はあんただろ。やめればいい」
「人民が恐れているのよ。体が重くなって寝たきりになる。鼓動音がうるさくて夜に眠れなくなる。くだらない俗説に惑わされて、未だ心臓を拒んでいる。父様が早死にしたのだって、母様とあたし、二つの心臓に追い立てられたからと思い込んでいる」
「そんな馬鹿なこと」
「普通はそうよね、心臓が鳴るのなら。だけど、考えが根本から違うのよ。心臓の鳴らない彼らに言っても、聴く耳なんて持たないわ」
女王は背もたれに深く背を預ける。
「どうしようもないのよ」
取り澄ましたその表情は、かつての幼い女王そっくりだった。
「それで孤独は違うだろ……」
庭師の手が震える。振動がテーブルを揺らし、カップを倒す。テーブルクロスの継ぎ目が順々に裂けた。女王の諦めに対し、庭師は未知の思いに支配されていた。
「心臓の鳴らない彫像はいい奴だった。心臓の鳴る小鳥は愛の為に命を捧げた。心臓の鳴らない大臣や近衛兵の影法師は、あんたを全力で追い、あんたを本気で心配していた。孤独ってなんだよ。あんたが願ったのは、心臓の鳴る話し相手だけかよ。拒絶しているのは、あんたじゃないか。
心臓の有無を、心の有無にすんなよ!」
庭師が怒鳴り散らす。
予想だにしない自分の熱量にはたと気づき、口に手をあてた。
女王は驚きぱっと顔を伏せた。目の端に涙を滲ませ、唇を噛み締める。両親が早世し、ただ一人の跡継ぎとして存分に甘やかされた女王は、怒鳴られる経験に乏しかった。巨人とならばひとしおだ。
けれど庭師は、善き巨人だった。
「会ったばかりの俺の話を、真剣に聴いてくれたようにさ。心臓の鳴らない人民の声も、聴いてやれよ。あんた、いい奴だろ。そんくらい、簡単だよ」
「そ、それは、でも、だって、」
「怖いのか?」
庭師の率直な問いに、女王が繰り返し頷く。目尻の涙が零れ落ち、ドレスを色濃く湿らせる。この指で拭えたのなら、良かったのに。庭師は巨人であることを、はじめて厭った。ジャスミンの花を摘み取り、女王の上で手放す。
「そうだよな。怖いよな」
庭師はただ女王を受け入れた。
倒れた鉢植えが風に転がる。左右対称は崩れ去り、天人花の鉢植えは個性を求め、我先にと夜空に枝を伸ばし始めた。噴水も整列が乱れ、誰が一番遠くまで水を飛ばせるか競争するように、弧を高く大きくする。
時間が必要だった。
大臣や近衛兵、お付の影法師が集まってくる。女王の好物を散らし、喜劇が開幕し、中庭は宝石で満たされた。女王を泣き止ませようと、誰もが必死だった。庭師は中庭から退席し、外の壁の前で夜空を見上げる。
なぜ人々が星屑の軌跡に願いを預けるのか、庭師はその理由をようやく理解した。
「取り乱してごめん」
女王がやってくる。腫らした目は充血していたが、涙は止まっていた。涙の跡は残っていたが、表情は力強かった。
白い花を庭師に手渡す。
「いや、うん。俺も、もっと言い方を探るべきだった」
庭師は受け取った花の香りを味わう。
「ねえ、あたしの問いの答えも探してくれる?」
「当然だ」
女王は真剣に問うた。
「なぜ心臓が必要なの?」
庭師は微かに笑う。
本当に不思議だと、女王に賛同した。
オリーブの国を出る。
星降る道を行く。星空が回らないから、時間の経過がわからない。流星に導かれて、なだらかな丘陵地帯を東に進む。
崖を前に、庭師が問うた。
「どうして層状に積まれているんだ?」
言われてみれば、不思議だね。
「貝殻も混じっている。海からは、かなり遠かったと思うけど」
崖を迂回して通る。天の川を仰いで、庭師はおむもろに立ち止まった。長い腕を星空に伸ばし、ぽつんと呟く。
「あの星々は、どのくらい遠くにあるんだ?」
君でも届かないんだ。
「点にしか見えないけど、もしかしたら、もっとずっと大きいのかな?」
乳色の大河に辿り着く。庭師でも一跨ぎできそうにないくらい川幅は広く、急流が魚たちに試していた。水が撥ねるたび、甘くとろける匂いが立ち込める。永遠に、ゆるゆると、乳が流れゆく。
「この河は枯れないのか?」
上流で雨が降り続けているんじゃないかな。
「雨雲は見えないよ。どうしてこの河にだけ水が集うのかな? 乳色は雨起因? 乳色の雨なんて見たことないのに。大量の水はどこから来たんだ?」
庭師の問いが減ずることはなかった。