第31話 もし、あの飢饉を乗り越えられたのなら

文字数 2,599文字

 体形は人間に近い。ぬめぬめと全身に光沢があり、腰から尻尾がちょこんと飛び出ている。骨がないように体は柔軟で、空中で龍のように波打っていた。黒く長い翅が背中から生え、幾層も重なり、忙しなく動き続ける。

 僕は眉をひそめた。僕の知るアルプルハラとは違う。アルプルハラの少年はその困惑の隙をつき、僕に飛来してジョッキをひったくった。息つく間もなく口に運び、喉を鳴らし始める。

「もぉ無理ですぅ、あたしも行きますぅ!」
「お待ちください! 頭目!」

 二匹のアルプルハラがミースの口から出てくる。少女と青年は先の少年より翅が短く、色合いも黒色より褐色が目立っていた。尻尾は先の少年より長く、それぞれ身長の半分近くある。僕の知るアルプルハラに近いのは、どちらかと言えばこの二匹だった。

 頭目と呼ばれたアルプルハラの少女が僕から音もなく水差しを盗み、注ぎ口に直接口をつけた。ちびちびと飲むさまが小動物みたいだ。巻き毛で頭の上が爆発している。アルプルハラの青年はそんな頭目に嘆息し、やれやれと首を振った。痩身は無駄なく引き締まり、立ち姿に隙が無い。苦労人らしく眉間の皺が板についていた。

「仕方ありません。皆さん、出てきていいですよ」

 ミースの口内で瞳がきらめく。すかさず四匹目、五匹目が出てくる。一方の翅は黒く、もう一方は褐色だ。六匹目と七匹目は黒く、八匹目はそもそも翅が生えていなかった。残りの九匹目から十三匹目は、一匹が褐色の翅、四匹が黒色の翅を有していた。

 青年以外のアルプルハラは、別のテーブルの水差しに群がっていく。

「人間とは珍しいですね」

 青年に話しかけられる。彼が腰に刺すレイピアは磨き込まれていた。

「私達の対処方法までご存じとは、博識でいらっしゃる。随分前に、エーレ国を去った身なのですが」

「それが繋ぎ、継ぐ人間の力だよ」

 僕は大事に備えて、黒い柄の剣の位置を確認した。

 その唯一の目的は、餓死。人間の体内に侵入し、人間の食糧を掠め取る悪しき善き隣人。民話では小川に飛び込んでめでたしめでたしだったが、目の前に立ってくれるのなら、文句の一つも並べたくなる。

「そういうことね」

 ミースが宝剣カラドボルグを顕現させ、近くの頭目に斬りかかった。頭目は軽く飛び上がって回避する。水差しの最後の一滴を舐めとり、幸せそうに息をついた。他のテーブルで暴飲していた黒い翅のアルプルハラ――全員年若く、十にも満たない背丈――が、他の隣人に追い立てられて頭目のもとに集まってくる。首無し騎士、ブルネットの女性、給仕係の小人がその後を追い、自分の酒を奪ったと彼らを糾弾した。

 ミースの殺意満ちる眼光と合わせて、子ども達は怯える一方だ。

 頭目が水差しを捨てる。給仕係の小人が床にぶつかる寸前に掴まえる。いつの間にか頭目は、目に涙を浮かべていた。

「ひ、ひどいですぅ」

 猫撫で声が嘘っぽい。

「見てくださいよぉ、ほとんど女と子どもですよぉ? 大剣を向けるなんて、弱い者虐めじゃないですかぁ?」

 ミースは構わなかった。

「死にかけたの、わたしなんだけど」

「餓死寸前で立ち去る予定だったんですよぉ。大陸の飢饉で食糧が足りなくて、仕方なかったんですぅ。栄養不足の体で旅を続けて、荒れ狂う海峡を二つも越えてきたんですよぉ? 折角ふるさとに戻ってきたのに、こんな出迎え、あんまりじゃないですかぁ?」

「どうして君達の事情を汲まなきゃいけないの?」

 ミースの顔が歪む。頭目は作戦を変えた。

「とっても居心地の良い寝床でしたぁ。自分たちも優しい気持ちになれるような、そんな最高の胃袋でしたよぉ? あなたの清廉さは、中で過ごしたあたし達が一番よく知ってますぅ」

「で、なに。見逃せというの?」

「必死だったんですぅ、命懸けだったんですぅ。はじめから素直に頼んでおけば良かったって、いまめっちゃ後悔してますぅ。ほんと、ほんと、ごめんなさいですぅ」

「……」

「ほら、みんなも謝って、ですぅ」

 アルプルハラの面々が頭を下げる。青年や翅無き壮年、残り二匹の褐色の翅も頭目のもとに集い、エーレ国の隣人に慈悲を乞うた。一番最初に飛び出た少年だけは、テーブルの上で黙々とマッシュポテトをかきこんでいる。

「何してるんですぅ、あなたもですよ、あなたも!」

 青年に襟首を掴まれ、彼も一団に連れ戻される。それでも咀嚼を止めず、大皿もちゃっかり持参していた。過ちを知らない目で不思議そうに訴える。どうしていけないの? 悪気が無いのは見て取れるから、青年も強くは言えない。僕は微笑んでいた。首の皮一枚、繋がるかどうか。生きるか皆殺しか。危機的な状況に気づきもせず、食欲を優先する彼に、実弟の幻影を見る。

 お腹が空くとよく暴れた。食材や調理が悪いと拒否して、不機嫌に頬を膨らませるんだ。食事時以外は天使だったから、うまく説教できなかったな。更に年下の妹と一緒に昼寝している時なんか、堪らなく愛おしくて……。

 泣きそうになる。

 もし、あの飢饉を乗り越えられたのなら。
 僕の弟も、彼くらい大きくなっていたのだろうか?

「ミース、」

「まさか君も復讐に反対なの? 謝罪だけでゆるすなんてぬるすぎ」

 僕は真っ当に主張した。

「あの翅の機動力は高そうだ。宝剣だけだと全員狩れないし、長期戦に持ち込まれたら面倒この上ない。ここは恩を売っておいたほうが、得策だと思うな」

「わたしの行き場のない怒りはどうするのよ」

「そんな粘着質でもないでしょ」

 ミースは言い返せなかった。

 頭目がミースに抱き着く。殺されかけたのに、仕返ししないなんて偉過ぎますぅ。物語の主人公みたいですぅ、惚れちゃいますぅ。しつこいほどの謝意に、ミースも満更ではなさそうだ。青年が首無し騎士、ブルネットの女性、給仕係の小人に酒樽を贈呈する。彼らの激怒は忽ち酒の味に塗り替えられ、一滴でも多く吸引しようと全員飛びついた。

 幕引きは呆気ないものだった。

 アルプルハラの面々は、しばらくエーレ国に滞在した。

 壮年が酔っ払いの小人と酒を酌み交わす。褐色の翅の頭目や青年はガレットを齧り、ミースや他の隣人と意見をかわす。黒い翅の子ども達はほくほくのじゃがバターをふくみ、じゃがいものしゃきしゃき炒めに舌鼓を打つ。柘榴をもぎ、葉っぱを毟り、樹皮に齧りつく。給仕係の小人の頭巾まで口に入れ、涎でぐしょぐしょにする。

 飢饉の翅音に気づく者は、まだいなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み