第8話 第三の婚活「王女」

文字数 2,094文字

 目を覚ますと、僕は学生寮の自室にいた。

 雨脚が強く、屋根打つ音は絶え間ない。呼吸がしんどい。左半身が動かしづらい。身を起こす気力さえ湧かず、舌の上では常に煙の味がした。炉に放り込まれた泥炭みたいに、全身がやわく燃えている。左腕の煙は延長し、胸を一周する。明日にはもう、異界の大広間に赴く体力さえ残っていないだろう。

 昼間は寝て過ごした。少し回復して夜、体を引き摺り闇の中に飛び込む。水の精霊が羽衣を揺らし、見惚れた狼男や酔っ払いの小人が列を為す。ミースと旦那様と鉢合わせし、それぞれがそれぞれの顔色を窺う。

 旦那様が溜息をついた。

「オレ様は明日で千歳になる。なのに、嫁が二人しかいない」
「執着が足らないからでは?」
「愛されてないからだよ」
「黙れ!」

 一喝する。怒気を孕んだまま、三度語り出した。

「今夜が最後だ。千歳の誕生日を孤独に過ごすなんて、想像するだけで心臓が縮み上がるぜ。オレ様はちやほやされてぇんだよ!」

 僕は眉根を寄せる。

「攫った二人がいるでしょう」
「ふざけんな。あんなの話し相手にもなりゃしねぇよ」

 旦那様が一服すると、煙の中から花嫁と牛飼いの娘が飛び出た。

 服も肌も煙に汚染され、灰色一色だ。体から煙が染み出ている。ばたりばたりと床に落ちたそれは、さながら火山灰に埋もれた人体化石だった。ぴくりとも動かず、生の息吹を感じない。こみ上げる心配から、保身が騒ぐ。僕もいずれこうなるのか。

「命令しても喋りゃしねぇ。笑わねぇしカチコチだし、これじゃ谷合の岩のほうがまだマシだぜ。なぜいつもこうなる? オレ様はハッピーバースデーの祝福が聴きたいだけなのに、すぐに壊れちまうんだ」

 その発言は、罵るというより、哀愁を漂わせていた。

 僕は思わず言う。

「僕が、祝いましょうか?」

「はっ! そりゃ当然のことだろ。お前さんにとって、オレ様は最高のご主人様だからな」

 旦那様が旨そうにグレイパイプを吹かす。怒りも哀愁も霧散し、心なしか楽しげでさえあった。命令なく、僕が祝うと尋ねたからか。旦那様は、もしかしたら、さみしいだけなのかもしれない。そんな仮説が頭を過る。

「王城に行く。準備しろ」
「王城って……まさか、姫のレプリカですか?」

「なんだそりゃ。今夜の嫁は、エーレ国の王女だよ。今世紀最高の美女と評判じゃねぇか。オレ様に相応しい嫁と思わねぇか?」

 大広間を飛び出す。回廊を渡り、中庭を横切り、地中に潜り空間を貫通し、死線を越えて進んでいけば、野原に到着した。淀んだ沼から灯心草を取ってくる。僕らは灯心草の馬で空を翔け、一目散に王城に向かった。

 エーレ国の首都・タラの町並みが近づく。赤、緑、青、派手に塗られた家屋が遠目からでもはっきりとわかった。工場の明かりはまだ消えていない。首都大学の古びた噴水は沈黙していた。

 首都の中央、小高い丘の上に、王城はそびえ立つ。外観は無骨で、チェスのルークが二つ、左右に配置されていた。石造りの城壁は風雨に黒ずんでいたが、欠けたところは一つもない。上王家を守り続けてきた、その頑強さを証明している。

 なぜか王城の裏手に回る。掘っ建て小屋が城の影に隠れている。薄い壁は一部腐り、少しの風で屋根が浮かび上がった。空間に縮こまるそのみすぼらしい姿は、毛の剥げたアナグマのようだ。

 戸口の鍵穴からうにょうと中に入る。

 見た目に反し、中は豪奢だった。暖炉はぴかぴかに磨かれ、意匠の凝ったクローゼットは重厚感がある。本棚は高価な書物で埋まり、勉強机には紙が散乱していた。

 天蓋付きベッドの中に、王女様はいない。

 夜も深い。王女様が夜遊び? 僕は首をひねる。

「ここであっていますか?」
「間違いねぇ。だが、人間の熱を感じねぇ。どうなってやがる?」

 旦那様はグレイパイプを硬く噛んだ。

「王女に会いたいの?」

 黄燐マッチを擦り、ミースが暖炉に焔を灯す。泥炭をくべれば、淡い光が屋内に広がった。ミースの痩身が照らされる。

「当然だ」
「その気持ち、本当? 嘘偽りないと約束できる?」
「ああ」

 旦那様の断言に、ミースは気を良くした。

 部屋から追い出される。侵入したら叩き切る。ミースの脅しに屈し、僕と旦那様は暫し秋風に晒される羽目になった。外套が安物で寒い。グレイパイプの煙が風で拡散されていく。

 戸口が開かれる。僕と旦那様は顔を見合わせ、屋内に戻った。月の光が差し込まれている。炉火の光と勢力争いを繰り広げる。

 その境界に、王女様がいた。

 冬の湖のように落ち着いた佇まい。薄く化粧をしているのか、肌色が明るい。目はくっきりと映え、慈しみを象徴する三日月形だ。華やかなドレスはスカーレットで、満天星さながら、夢見る乙女の胸中のようにスカートが膨らんでいる。絹の手袋は刺繍が施されて、か細い指に馴染んでいた。香水の香りが漂う為か、大人っぽく髪を結い上げている為か、王女様は僕など及びもつかない気品に満ちていた。

「はじめましてだね。少なくとも気持ちの上では、本当にはじめまして。わたしがエーレ国第一王女ミース・E・オコナーズだよ。

 ――驚いた?」

 悪戯っぽい笑みは、間違いなくミースだった。
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