第2話 異界の踊り子
文字数 2,077文字
つむじ風に運ばれる、曲がりくねった道を果てまで進む。異界に渡る方法は多々あれど、僕の場合、闇に落ちることだった。古びた学生寮の一室で、僕は夜遅くまで『エーレ国農民の特性と物語』を読んでいた。
質素なベッドに座り、震える指先でページをめくる。君と神様の間には立てないよ。秋風が隙間から入り込み、学生寮は楽器のようにひゅうひゅうと鳴った。僕は外套を着込み、白い息を吐く。蝋燭のか細い火は、そのひと息で消えてしまった。
バグパイプの調べが重々しく響き出す。ジョッキをぶつけ合う、ごくごくと喉元を動かす、大きな口で粗野に笑う。そんな音が、廊下の闇から聞こえてくる。僕は本に栞を挟み、机の上に置いた。
部屋の戸を開き、つま先で廊下の闇に触れる。闇に感触はなかった。自室に残った足を跳ね上げれば、そのまま闇に落ちていく。
風は感じない。力無き力で、奈落に引き寄せられる。笑い声が強まる。足先が木の床に触れた。
古城の大広間は、善き隣人でいっぱいだった。
蝶の翅を生やした小人が、輪になって踊っている。悪戯好きの騾馬が前足で拍子をとり、げらげらと歯をむいて笑う。ブルネットの女性が長い髪を大胆に振り回し、悲鳴のような声で歌う。
空の酒樽が転がり、テーブルの上には生牡蠣、シチュー、肉肉肉、ご馳走がうず高く積まれていた。幾何学模様の刻まれた柱は、角研ぎや吐瀉物でぼろぼろだ。首無し騎士、植木鉢、弦楽器の高貴な鳴り。大広間は音もモノも隣人も満杯で、場末の安酒場のようだった。
今宵はどんな妖精譚が僕を待っているのだろうか?
「ダン!」
大気が波打つ。あらゆる話し声、音楽が、波に呑まれて沈黙した。善き隣人が一斉に同じ方向を向く。人食い猫も、藁の灯もそうだ。靴音一つで大広間の注目を一身に浴びた少女・ミースは、そっと笑みを浮かべる。
小刻みに床を踏み鳴らし、踊り出す。
「タタタタ、タタタタ、タタタタ、タッタッ――」
床を叩く足は繊細で、上半身は微動だにしない。波打つ髪先がぴょこぴょこと撥ねる。薄手のネグリジェは透明感があり、若緑色のケープがふんわりとミースを覆っていた。頬は上気し、瞳は歓びを語り、唇は神秘的に閉ざされている。絶世の美女と呼ぶには幼く、可憐な乙女と呼ぶには凛々し過ぎる。少女と女性の過渡期、人間のような体躯で人間離れした美貌。古俗収集家の卵を名乗る僕でさえ、ミースがどの隣人か判別できない。
鋲を打った靴で跳び撥ね回り、華麗な足技を見せつける。つま先で、足の腹で、踵で、素早く床を踏む。瞬く間に数回、見つめる間に数十回、聞き惚れる間に数限りなく、ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ、目にも止まらぬ早さだった。
「ダダ、ダン!」
最後の一打、その余韻に浸ること数秒後、ミースは汗光る笑顔を見せる。
荒い呼吸で、胸が上下した。
拍手喝采、馬鹿騒ぎ。しわがれた魔女が乙女の黄色い歓声を上げ、水棲馬が野太い声で猛り走る。すげぇな祝いだ酒だと靴作りの小人がジョッキを呷った。楽しい! 最高だ! 大広間に満ちる感情は、それだけだった。
給仕係の小人がフィドルを鳴らす。ミースは激しく足を動かしながら滑らかに移動し、近くの隣人との距離を詰めた。一緒に踊ろうよ。蝶の翅を生やした小人は、差し出されたミースの指先を掴む。
踊りの輪が長く大きくなっていく。くるくると回る。無意味にひたすら回る。技巧や知性とはかけ離れた、心のままの踊りだった。
「どうぞ」
全力を使いきったミースは、壁に手をあてて呼吸を整えていた。僕は通りかかったように近づき、仕方なくといったようにジョッキを差し出す。
ミースは迷いなく受け取って唇に運ぶ。ひと息で豪快に飲み干し、ジョッキを振り下ろすと一言。
「冷たい!」
それから僕の存在に気づいた。
「あれ、アラン君だ」
「やあ」
ミースは近くのテーブルで二杯目をつぐ。
「踊らないの? 楽しいよ?」
僕は首を振る。
「見聞きするのが、僕の役目だから」
「何それ。変なの」
キッシュを手で掴み、かじりつく。
「深入りしたくないんだよ。籠の中に捕らわれて、三日三晩呑まず食わずはあれきりにしたくてね。危険は犯したくない」
「なら来ないのが本物じゃない? 最近、毎日会ってるよ?」
「そうだっけ」
とぼけてみる。無垢な隣人の視線がむずがゆい。浮遊霊と半魚半人が言い合い、ダンスバトルが勃発する。藁の灯がぽつぽつと浮かび、黒妖犬の尻尾に燃え移る。こんな愉快痛快な世界を知って、遊びに来ないなんて馬鹿だ。
リスクを取る価値が、妖精譚には存在する。
「見つけたぜ、踊り子の嬢ちゃん」
いつの間にか足元で、老いた小人がグレイパイプをふかしていた。煙が立ち昇り、蛇のようにミースに巻きつく。固体のように流動性を失い、ミースをきつく縛り上げた。そのまま空中に浮かせ、横に倒し、まるで羽根のように小人の腕の中にミースを滑り込ませる。
老いた小人は、接吻するようにミースの鼻先に顔を寄せた。
「嬢ちゃんは、いまからオレ様の嫁だ」
物理法則の如く断定する。
なぜそうなる。
質素なベッドに座り、震える指先でページをめくる。君と神様の間には立てないよ。秋風が隙間から入り込み、学生寮は楽器のようにひゅうひゅうと鳴った。僕は外套を着込み、白い息を吐く。蝋燭のか細い火は、そのひと息で消えてしまった。
バグパイプの調べが重々しく響き出す。ジョッキをぶつけ合う、ごくごくと喉元を動かす、大きな口で粗野に笑う。そんな音が、廊下の闇から聞こえてくる。僕は本に栞を挟み、机の上に置いた。
部屋の戸を開き、つま先で廊下の闇に触れる。闇に感触はなかった。自室に残った足を跳ね上げれば、そのまま闇に落ちていく。
風は感じない。力無き力で、奈落に引き寄せられる。笑い声が強まる。足先が木の床に触れた。
古城の大広間は、善き隣人でいっぱいだった。
蝶の翅を生やした小人が、輪になって踊っている。悪戯好きの騾馬が前足で拍子をとり、げらげらと歯をむいて笑う。ブルネットの女性が長い髪を大胆に振り回し、悲鳴のような声で歌う。
空の酒樽が転がり、テーブルの上には生牡蠣、シチュー、肉肉肉、ご馳走がうず高く積まれていた。幾何学模様の刻まれた柱は、角研ぎや吐瀉物でぼろぼろだ。首無し騎士、植木鉢、弦楽器の高貴な鳴り。大広間は音もモノも隣人も満杯で、場末の安酒場のようだった。
今宵はどんな妖精譚が僕を待っているのだろうか?
「ダン!」
大気が波打つ。あらゆる話し声、音楽が、波に呑まれて沈黙した。善き隣人が一斉に同じ方向を向く。人食い猫も、藁の灯もそうだ。靴音一つで大広間の注目を一身に浴びた少女・ミースは、そっと笑みを浮かべる。
小刻みに床を踏み鳴らし、踊り出す。
「タタタタ、タタタタ、タタタタ、タッタッ――」
床を叩く足は繊細で、上半身は微動だにしない。波打つ髪先がぴょこぴょこと撥ねる。薄手のネグリジェは透明感があり、若緑色のケープがふんわりとミースを覆っていた。頬は上気し、瞳は歓びを語り、唇は神秘的に閉ざされている。絶世の美女と呼ぶには幼く、可憐な乙女と呼ぶには凛々し過ぎる。少女と女性の過渡期、人間のような体躯で人間離れした美貌。古俗収集家の卵を名乗る僕でさえ、ミースがどの隣人か判別できない。
鋲を打った靴で跳び撥ね回り、華麗な足技を見せつける。つま先で、足の腹で、踵で、素早く床を踏む。瞬く間に数回、見つめる間に数十回、聞き惚れる間に数限りなく、ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ、目にも止まらぬ早さだった。
「ダダ、ダン!」
最後の一打、その余韻に浸ること数秒後、ミースは汗光る笑顔を見せる。
荒い呼吸で、胸が上下した。
拍手喝采、馬鹿騒ぎ。しわがれた魔女が乙女の黄色い歓声を上げ、水棲馬が野太い声で猛り走る。すげぇな祝いだ酒だと靴作りの小人がジョッキを呷った。楽しい! 最高だ! 大広間に満ちる感情は、それだけだった。
給仕係の小人がフィドルを鳴らす。ミースは激しく足を動かしながら滑らかに移動し、近くの隣人との距離を詰めた。一緒に踊ろうよ。蝶の翅を生やした小人は、差し出されたミースの指先を掴む。
踊りの輪が長く大きくなっていく。くるくると回る。無意味にひたすら回る。技巧や知性とはかけ離れた、心のままの踊りだった。
「どうぞ」
全力を使いきったミースは、壁に手をあてて呼吸を整えていた。僕は通りかかったように近づき、仕方なくといったようにジョッキを差し出す。
ミースは迷いなく受け取って唇に運ぶ。ひと息で豪快に飲み干し、ジョッキを振り下ろすと一言。
「冷たい!」
それから僕の存在に気づいた。
「あれ、アラン君だ」
「やあ」
ミースは近くのテーブルで二杯目をつぐ。
「踊らないの? 楽しいよ?」
僕は首を振る。
「見聞きするのが、僕の役目だから」
「何それ。変なの」
キッシュを手で掴み、かじりつく。
「深入りしたくないんだよ。籠の中に捕らわれて、三日三晩呑まず食わずはあれきりにしたくてね。危険は犯したくない」
「なら来ないのが本物じゃない? 最近、毎日会ってるよ?」
「そうだっけ」
とぼけてみる。無垢な隣人の視線がむずがゆい。浮遊霊と半魚半人が言い合い、ダンスバトルが勃発する。藁の灯がぽつぽつと浮かび、黒妖犬の尻尾に燃え移る。こんな愉快痛快な世界を知って、遊びに来ないなんて馬鹿だ。
リスクを取る価値が、妖精譚には存在する。
「見つけたぜ、踊り子の嬢ちゃん」
いつの間にか足元で、老いた小人がグレイパイプをふかしていた。煙が立ち昇り、蛇のようにミースに巻きつく。固体のように流動性を失い、ミースをきつく縛り上げた。そのまま空中に浮かせ、横に倒し、まるで羽根のように小人の腕の中にミースを滑り込ませる。
老いた小人は、接吻するようにミースの鼻先に顔を寄せた。
「嬢ちゃんは、いまからオレ様の嫁だ」
物理法則の如く断定する。
なぜそうなる。