第29話 異界の美女はジョークがお好き

文字数 2,186文字

 やせ細った少年が泥道を歩く。粗末な服の裂け目から、浮き出た背骨や肋骨が覗いていた。拳一個分は腹が凹み、脚は骨と皮膚だけで、肉がない。少年はとても大事そうに桶を抱え、周囲を警戒していた。

「おい小僧」

 妖艶の美女が石垣に立つ。イブニングドレスは扇情的な肉体をほとんど隠さなかった。つま先から鼠径部まで生肌が艶めき、熟れた果実のような乳房が形を露わにしている。女の匂いがきつく、吐き気を催すほどの卑猥さだ。頽廃的な美貌を前に、抗える男など存在しなかった。

 少年の目から理性の光が失われていく。

「結婚式と通夜の違いを知っておるか?」

 美女は大威張りで言った。

「酔っ払いが一人少ないのだよ」

 少年は目をぱちくりとする。

「首無し騎士、ブルネットの女性、給仕係の小人がパブでエールを頼んだ。そしたらな、くそ忌々しいことにだ、それぞれのエールに蠅が落ちたわけだ。――首無し騎士は酒を返せと蠅を斬り、ブルネットの女性は酒を返せと蠅を絞め上げ、給仕係の小人は酒を返せと蠅を搾り上げたとな」

「お、おい、」

「まあ待て。諦めるのは早いぞ」

「いや、」

 場違いに着飾った未亡人のように、美女は自信満々だ。

「ある男が奥方に訃報を伝えた。『奥さん! 大変です、旦那さんがビールの大桶に落ちました!』『まあそんな! あの人は苦しまずに逝けましたか?』『すぐに、とは言えませんね。トイレに三回行きましたから』」

「……」

「ふむ。小僧に酒の味は解らんか」

 美女は勝手に納得し、話の拙さを少年のせいにした。

「ひと笑い、いかがかと試してみたが、なかなかどうして。次は小僧向けのネタも仕入れておこう。楽しみにしておけ」

 少年が冷静に答える。

「笑いで腹は膨れねえよ」
「だが、豊かになれる」

 少年はせせら笑った。乾いた唇はよく回った。

「豊かってのは、牡蛎や羊肉や砂糖たっぷりの紅茶に囲まれて、毎日腹いっぱいで過ごすことだろ。草の根を掘り、井守を齧り、泥炭を口に含んで、にこっと笑えば豊かかよ。死にかけの親を叩き殺して、ぐつぐつ煮込んだほうがまだ笑えるね」

「お主のジョークはつまらん」

 少年が吐き捨てる。

「夏の長雨のせいだ。全部、全部――」

「ふむ。理不尽を理不尽と諦めるのは、己自身よ。お主の心が貧しいのは、畢竟お主が弱いからだ」

 美女が石垣から飛び下りる。少年の前に立てば、長身が少年を威圧した。長髪が少年に纏わりつき、生き物のように蠢く。

 少年は半身で桶を隠した。桶の中には、泥水で薄めに薄められた、白い液体が溜まっていた。

「こ、これはオレのミルクだ! 病気の妹と弟に飲ませてやるんだ!」
「知ったことか」

 美女が少年の口を乱暴に掴む。少年は抗おうとするも、急遽金縛りに見舞われた。首を振ることも、目を逸らすことも出来ない。

「村長が苦情を言うには、『うちの村の神父さんは、ゴミの日に大量の酒瓶を出すんでえ。けしからん!』その地区の主教が答えるには、『実にけしからん! 酒は樽で買えとあれほど説法したのに!』」

「……」

「笑え」

 目に突き刺さらんばかりに、女性が少年の口角を上げた。

「あは、あはははは」
「それでいい。楽しいだろ?」
「あはははは! あはは、あははははははははは!」

 笑いが止まらない。目尻に涙だけが集まる。少年は呼吸もままならないほど喉を酷使し、表情筋を狂わせた。

 不穏な笑い声が、一帯に響く。

 濃霧が立ち込め、牛車が現れる。箱は高貴な黒檀と金で造られ、泥道に不釣り合いな壮麗さだった。美女は悠々と牛車に乗り込む。小リスが美女の腕を駆け上がり、小鳥が美女の肩にとまった。

「思う存分笑え。ジョークは良いぞ」

「あはははははははははははははははははは!」

 牛車が濃霧の果てに消えても、太陽が西に傾いても、少年は笑い続けた。

 振り返ってみれば、少年が善き隣人と出会ったのは、これがはじめてだった。なんと理不尽な種族だろう。笑いが収束し、家に帰れたのは、深夜を過ぎてからだった。二度と隣人とは関わるまい。少年は固く誓った。

 飢饉の冬が始まる。

 体力のない幼子たちは、次々と倒れていった。

 暖炉の周りに、家族が集まる。呼吸音は弱まり、家族の嗚咽は止まない。沈痛な空気を打ち破ったのは、引き攣った少年の笑みだった。

「あ、ある人から聞いた、村長と主教さんの話があってな、」

 春が来て、夏になった。

 その年は稀にみる豊作で、じゃがいもに溺れるほどだった。

 たとえ腹は満ちなくとも、最期の笑顔は――太陽のように輝く笑顔ではなかったけれど、それでも笑顔だった。気遣いの笑顔だとしても、笑えずに逝くより、きっとずっと良かった。そう信じたかった。

 少年はそう信じると決めた。

 それからだ。

 少年はより積極的に襤褸屋敷に通い、村の老人らに物語をせがんだ。地下世界や海の果ては、どんな場所だろう。なぜあんなにも傍若無人に振る舞えるのか。どうすればまた会えるか、いつか一言、お礼を言えるだろうか。

 長い年月が流れた。姉が地主の息子と結婚し、家は豊かになった。妖精譚の研究が目に止まり、姉の夫の推薦もあって、少年は国立大学に通えるようになった。寮の暗がりの先に、善き隣人の世界を発見する。

 現実の妖精譚の中へ、少年は足を踏み入れた。

 エーレ国第一王女ミース・E・オコナーズと共に対峙したその現実は、少年の幻想とは裏腹に、無慈悲なくらい残酷だった。
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