第44話   罪の轍

文字数 2,247文字

 夏小屋を出発して二日、標高は六千メートルを超えている、魔笹の群生は遥か下だ。
 初夏とはいえ見渡す限り雪原が広がっている、雪が目映く太陽光を反射する。
 天気はいい、今は風もなく穏やかな表情を見せている、しかし、油断は出来ない、昨夜は強風が吹き荒れた、小さなテントがいつ吹き飛ばされるかと眠れぬ夜を過ごした。
 アラタが所属していたのは山岳旅団、アルペンの山を主戦場とする山のプロだ。
 もっと過酷な状況での行軍も経験している。
 酸素は地上の半分以下、幸い二人に高山病の気配はなかった。
 ゆっくりと一歩一歩足を前に運ぶ、焦ってはならない、呼吸を一定にフッフッフーッ、深くなりすぎない。
 残雪は膝下の深さがある、固い、押し固められた雪は凍る一歩手前、ザクザクと雪を割りながらアラタが先行する、ラッセル車のごとく急な斜面を登っていく。

 「どうだ、何か見えるか」
 マリッサは直射日光から目を守るためのベールをずらして周囲を見渡す。
 「ごめん、何も見えないわ」
 「お前が謝るなよ、まだ頂は遠い」
 「言い伝えではドラゴンホーンと呼ばれる南面の氷壁にあるというけれど、見た人がいないのだから地図なんてないし正確な位置が解らないのは辛いわね」
 「ムトゥスに変わりはないか?」
 「ええ、変わらないわ」
 マリッサの胸に大事に抱かれた繭は変わらず固いままだ。
 二人を誘う繭の目的地はまだ遠いようだ。
 百メートルほど上に岩肌が露出した場所があった、休憩するには良い場所だ。
 この高度で無理は禁物だ、頂きを征服することが目的ではない、ムトゥスを安全に届けるのが目的だ。
 「あそこで休もう」
 一時間に一度は休憩を挟む、同時に周囲を警戒する、ユルゲンの驚異はなくなっていない。
 岩場には人員的な傷が付けられている、幾方向にも矢印が掘られていた。
 「これはマップメーカーが付けたものね」
 「マップメーカー?」
 「この山の地図を作っていたのかな、誰かの依頼で」
 「イーヴァンじゃないのか」
 「分からない、聞いていないわ」
 「そうか、この矢印の意味はなんだろう」
 「この岩を起点に道を作ったんだと思う、線の長さが高さかな?」
 「矢印の前に何かの絵が描いてあるわ、下手すぎて解んないわね」
 「真ん中が羽根に見えなくもない、ドラゴンてのは羽根があったよな」
 「羽根・・・何を象徴しているかは微妙だわ」
 「両脇の絵は・・・さっぱり解らん」
 「マップメーカーは自分にしか解らないように絵を記すからね」
 「なるほど、誰にでも解読できたら商売にならないか」
 線の方向を仰ぎ見たアラタの目がキラリと光る金属光を捕らえた。
 「!!伏せろ」
 間違いない、あの鈍く光るのは98式クルツ銃の銃口、やはりいた、ユルゲンだ。
 「あいつなの!」
 「間違いない・・・が変だ」
 銃口が覗く岩まで百メートル、とっくに射程内だ、どうして撃ってこない。
 慎重に覗くと銃口の下に色褪せた金髪が風に揺れているのが見える。
 「寝ているのか?」
 遠巻きに岩を回り込むと徐々に銃を担いだユルゲンの姿が確認できた。

 ザッザッ アラタとマリッサはユルゲンの前に立った。
 「・・・」
 ユルゲンは凍っていた、目を開けたまま中空を見据えている。
 その表情は薄く笑っているように見えた、異世界に転移してから数千人の魔族をその銃で殺し、魔王イーヴァンの命を奪った男。
 アラタを待ち構えるために、吸血蟻に抉られた足を引き摺り、岩に身を潜めていたまま氷雪に晒されながら命の火を消した。
 もし、生きていたなら殺されていたのはアラタとマリッサだったろう、絶好の射撃ポイントだ。
 その笑みは勝利を確信したものだったのか、地獄に落ちる喜びか、もう知る者はいない。
 しかし、その顔に残る表情は絶望ではない、何かを狙う意思を感じる。
 「この男がイーヴァン様を!!
 怒りにマリッサがユルゲンを殴りつけようと拳を振り上げた。
 「まて!!
 ユルゲンの身体に触るのを慌てて制止する、背中を覗くとやはりトラップがあった。
 手榴弾のピンが抜かれて挟んである、揺れると落ちて爆発する仕掛けだ。
 「危なかった!」
 「それは爆発するの!?なんてやつ!」
 マリッサは憎々しげに見下ろしたユルゲンの執念に身震いした。
 不自然な表情の意味は手榴弾のトラップだったのかもしれない、自身の死に際に自爆トラップを自分の背に仕込んだのだ。
 アラタでなければ地獄へ道ずれにされていただろう。
 「残念だが地獄へは一人でいってもらう、俺を待つ必要はないぞユルゲン」

 十分な距離を取ってマリッサがブレスガンを構える。
 「イーヴァン様の仇!」
 ドゴオッ 最大出力の青い光が放たれ、閃光がユルゲンの身体を包んだ。
 バッシュンッ 空間を切り取る様な音と共に岩ごとユルゲンの身体は消失した。
 後には青白い煙が棚引いていたが、直ぐに風に乗って飛び去っていく。

 マリッサの頬に流れた涙が氷となって張り付く、擦った肌からパリパリと剥がれて落ちた。
 ユルゲンが消えてもマリッさの悔恨が消えることはない、イーヴァンを守れなかった自分を責めて生きていく、アラタと同じように。
 ユルゲンも同じだった、どこで違ってしまったのか、大切な人を失くし、自分を責め、取り返しのつかない罪を背負う。
 生きていれば大なり小なり罪を背負う、重すぎる罪に膝を折りながら立ち上がり前に進む。

 アラタとマリッサは登る、消えない重荷に喘ぎ、涙を凍らせながら天空の神殿に一歩、一歩轍を刻んでいく。
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