第45話 歩幅
文字数 2,220文字
標高七千メートル、デスゾーン手前だが立ち塞がる山の頂は遥か遠い、見下ろせば白い宇宙に取り残されたような錯覚、上下が解らなくなる空間識失調に陥る。
一人でいれば孤独感に自死する者がいても不思議はない。
酸素は地表の半分程度、アラタでも経験のない高度、全ての生物を拒否する世界。
さすがにマリッサの体力が限界に近い、寡黙に泣き言ひとつ言わないが、唇は割れ乾き、褐色の肌が色を失っている。
高山病に間違いない、危険領域だ、通常なら徐々に低酸素状態に身体を慣らしながら数か月をかけて塔頂する高度をほんの数日で登ってきた。
身体に変調をきたしていないアラタの方が異常だ。
爺婆の夏小屋を出発してから吸血蟻や巨大ミミズとも遭遇していない、ユルゲンの脅威も無くなり敵は高度だけだ、しかし最も強敵だ。
マリッサの足取りが重く、つま先が地面から離れていない、体重が前のめりにかかり背が曲がっている。
アラタの衰えぬラッセルの轍を踏んでも遅れ始める。
「まずいな・・・」
雪原の斜面の向こうに白い雪原に墨を落としたような雲が渦巻いている。
「嵐が来る!」
今まで好天が続いたが、ここに来てついに恐れていた悪魔がやって来る、避難場所の確保が急務だ。
どんな風速がくるか見当がつかない、三十メートルを超えるようならテントごと吹き飛ばされる、雪原ではハーケンも効きにくい。
急いで周囲で隠れる事の出来る岩を探す。
「あった!」
五十メートルほどの距離に二人で隠れることの出来そうな岩の窪みを見つけた。
「マリッサ、あそこに・・・マリッサ!?」
振り返った先にマリッサがいない、ラッセルした轍に倒れて雪に埋もれてしまっている。
「しっかりしろ!マリッサ!」
抱きかかえたが既に返答はない、重篤なのは明らかだ、やはり高度順応なしにデスゾーンに挑んだのは無茶だった。
悪魔の脚は早い、遥か遠かった黒雲が既に目の前に迫っている。
早く移動しなければホワイトアウトになる、一メートル先に進むことさえ出来ない白い闇が来る。
両腕にマリッサを抱えて雪を割って永久の五十メートルを急ぐ、僅かな速度アップがレッドゾーンまで体力を一気に削る。
僅かな速度アップに肺が酸素を何十倍も要求してくる、横隔膜が激しく動き酸素を消費する、結果要求どおりの酸素は手に入らない。
身体の不満が苦痛となってアラタを襲う、痛みを無視して平然と筋肉を突き動かす。
苦しさを通り越すと脳が危険信号を出すことを諦める、むしろ快楽を感じる物質で身体を守ろうとする。
遠ざかる意識、雲の中に浮かんでいるような浮遊感、アラタの匂いがする。
心臓の音だ、力強く、はっきりとした鼓動がリズミカルに脈打つ、アラタの心臓の音。
温かく強く眩しい、愛おしく、苦しく、切なく、哀しい。
その音だけが生きる事の道標、溶ける寸前の意識を呼び戻す音。
「・・・アラ・・タ」
意識と共に身体の感覚が戻ってくる、暖かい、幻覚じゃない。
(私は今、天空の神殿に向かって・・・)
「!!」
狭い岩の間に横たわっていた、テントに包まれて外側をアラタのカラダが塞いでいる。
アラタが風よけになっているから暖かいのだ。
いや、それだけじゃない、二人の間に抱かれたムトゥスの繭が熱を持っている。
ムトゥスの意志か、それとも孵化への準備なのか。
さらに息苦しさが遠のいている、酸素も放出しているのかも知れない。
目を閉じたアラタは眠っているのだろうか、動かない。
バタバタと強風が二人を包むテントを煽るがアラタの身体が遮り岩の隙間は静かだ、寝息がマリッサの顔にかかるのを感じる。
そっと腕をアラタの首に回して引き寄せる、唇を重ねた。
涙が溢れる、なんの涙なのかマリッサ自身にも分からなかった。
痛くて哀しい幸せ、全てを失い、全てを手に入れた気がする。
「愛してる・・・」
テントの隙間に向けて呟いた小さな声は、強風に攫われて飛び去った。
その身を盾にして自分を守ってくれている、愛されていることを強く感じる、でも一番ではない、誠実な男は亡くなった妻のことを忘れない、恋にはならない。
アラタの心を奪うことは叶わない、それでもいい、自分がアラタを現世に留める鍵になれればいい。
何者かになれるのであれば脇役でかまわない、自分の人生に確かな意味が産まれる。
昼なのか夜なのかさえ分からないほどに吹き荒れた風雪は、朝日と共に過ぎ去った。
東の水平線から駆け上る太陽の光が空気中の氷の結晶に反射して幻想的に輝いている。
悪魔の吹雪は空気中の罪を全て吹き飛ばし、神々の庭を美しい純白に染め直していた。
空気中の水蒸気が妖精となってキラキラと遊んでいる。
「綺麗だな・・・」
「私は、この景色を一生忘れない」
「俺もだ」
二人の前に尾根が始まっている、その先にあるのがドラゴンホーン、天空の神殿への入り口だろう、鋭い角の下に目が虚空となって二人を、ムトゥスを誘う。
登り始める前に二人の腰をザイルで結ぶ。
尾根が始まる場所まで並んで歩く、風雪が鍛え圧縮した雪は思いのほか歩きやすい。
どちらからともなく手を伸ばして握った。
彼の左手と彼女の右手がそこにあるべきものになった。
デスゾーンの世界に二人だけが命を持って神殿へ一歩一歩ゆっくりと登る、帰れないかもしれない、最後になるかも知れない世界を踏みしめる。
二人の影は神殿の入り口の虚空へ消えていった。
一人でいれば孤独感に自死する者がいても不思議はない。
酸素は地表の半分程度、アラタでも経験のない高度、全ての生物を拒否する世界。
さすがにマリッサの体力が限界に近い、寡黙に泣き言ひとつ言わないが、唇は割れ乾き、褐色の肌が色を失っている。
高山病に間違いない、危険領域だ、通常なら徐々に低酸素状態に身体を慣らしながら数か月をかけて塔頂する高度をほんの数日で登ってきた。
身体に変調をきたしていないアラタの方が異常だ。
爺婆の夏小屋を出発してから吸血蟻や巨大ミミズとも遭遇していない、ユルゲンの脅威も無くなり敵は高度だけだ、しかし最も強敵だ。
マリッサの足取りが重く、つま先が地面から離れていない、体重が前のめりにかかり背が曲がっている。
アラタの衰えぬラッセルの轍を踏んでも遅れ始める。
「まずいな・・・」
雪原の斜面の向こうに白い雪原に墨を落としたような雲が渦巻いている。
「嵐が来る!」
今まで好天が続いたが、ここに来てついに恐れていた悪魔がやって来る、避難場所の確保が急務だ。
どんな風速がくるか見当がつかない、三十メートルを超えるようならテントごと吹き飛ばされる、雪原ではハーケンも効きにくい。
急いで周囲で隠れる事の出来る岩を探す。
「あった!」
五十メートルほどの距離に二人で隠れることの出来そうな岩の窪みを見つけた。
「マリッサ、あそこに・・・マリッサ!?」
振り返った先にマリッサがいない、ラッセルした轍に倒れて雪に埋もれてしまっている。
「しっかりしろ!マリッサ!」
抱きかかえたが既に返答はない、重篤なのは明らかだ、やはり高度順応なしにデスゾーンに挑んだのは無茶だった。
悪魔の脚は早い、遥か遠かった黒雲が既に目の前に迫っている。
早く移動しなければホワイトアウトになる、一メートル先に進むことさえ出来ない白い闇が来る。
両腕にマリッサを抱えて雪を割って永久の五十メートルを急ぐ、僅かな速度アップがレッドゾーンまで体力を一気に削る。
僅かな速度アップに肺が酸素を何十倍も要求してくる、横隔膜が激しく動き酸素を消費する、結果要求どおりの酸素は手に入らない。
身体の不満が苦痛となってアラタを襲う、痛みを無視して平然と筋肉を突き動かす。
苦しさを通り越すと脳が危険信号を出すことを諦める、むしろ快楽を感じる物質で身体を守ろうとする。
遠ざかる意識、雲の中に浮かんでいるような浮遊感、アラタの匂いがする。
心臓の音だ、力強く、はっきりとした鼓動がリズミカルに脈打つ、アラタの心臓の音。
温かく強く眩しい、愛おしく、苦しく、切なく、哀しい。
その音だけが生きる事の道標、溶ける寸前の意識を呼び戻す音。
「・・・アラ・・タ」
意識と共に身体の感覚が戻ってくる、暖かい、幻覚じゃない。
(私は今、天空の神殿に向かって・・・)
「!!」
狭い岩の間に横たわっていた、テントに包まれて外側をアラタのカラダが塞いでいる。
アラタが風よけになっているから暖かいのだ。
いや、それだけじゃない、二人の間に抱かれたムトゥスの繭が熱を持っている。
ムトゥスの意志か、それとも孵化への準備なのか。
さらに息苦しさが遠のいている、酸素も放出しているのかも知れない。
目を閉じたアラタは眠っているのだろうか、動かない。
バタバタと強風が二人を包むテントを煽るがアラタの身体が遮り岩の隙間は静かだ、寝息がマリッサの顔にかかるのを感じる。
そっと腕をアラタの首に回して引き寄せる、唇を重ねた。
涙が溢れる、なんの涙なのかマリッサ自身にも分からなかった。
痛くて哀しい幸せ、全てを失い、全てを手に入れた気がする。
「愛してる・・・」
テントの隙間に向けて呟いた小さな声は、強風に攫われて飛び去った。
その身を盾にして自分を守ってくれている、愛されていることを強く感じる、でも一番ではない、誠実な男は亡くなった妻のことを忘れない、恋にはならない。
アラタの心を奪うことは叶わない、それでもいい、自分がアラタを現世に留める鍵になれればいい。
何者かになれるのであれば脇役でかまわない、自分の人生に確かな意味が産まれる。
昼なのか夜なのかさえ分からないほどに吹き荒れた風雪は、朝日と共に過ぎ去った。
東の水平線から駆け上る太陽の光が空気中の氷の結晶に反射して幻想的に輝いている。
悪魔の吹雪は空気中の罪を全て吹き飛ばし、神々の庭を美しい純白に染め直していた。
空気中の水蒸気が妖精となってキラキラと遊んでいる。
「綺麗だな・・・」
「私は、この景色を一生忘れない」
「俺もだ」
二人の前に尾根が始まっている、その先にあるのがドラゴンホーン、天空の神殿への入り口だろう、鋭い角の下に目が虚空となって二人を、ムトゥスを誘う。
登り始める前に二人の腰をザイルで結ぶ。
尾根が始まる場所まで並んで歩く、風雪が鍛え圧縮した雪は思いのほか歩きやすい。
どちらからともなく手を伸ばして握った。
彼の左手と彼女の右手がそこにあるべきものになった。
デスゾーンの世界に二人だけが命を持って神殿へ一歩一歩ゆっくりと登る、帰れないかもしれない、最後になるかも知れない世界を踏みしめる。
二人の影は神殿の入り口の虚空へ消えていった。