第23話 ガンガラシバナ
文字数 2,132文字
カァーン カァーン
サガル神山赤岩沢大滝、通称ガンガラシバナの壁面にハーケンを打ち込む音が木霊する。
下から見上げた冥界神殿の入口と思われる場所はまだ氷結しているように見える。
アラタとマリッサは朝一から大壁面に取りついていた、夏小屋についてから一日は下から昇るルートを想定して過ぎていった。
見上げてばかりいたため首が痛い。
二人はザイルで身体を繋ぎ、アラタがルートを先行してハーケンを打つ、アンカーをかけて確実に足場を決めながら登る。
途中には平地に近い場所も存在するため、休憩と宿泊はその場所を想定している。
全行程三日はかかるかも知れない。
「あった!」
イーヴァンが打っただろうハーケンが残されているのを見つけた、やはり同じルートを辿ったようだ。
ズズズッズズッ ドサアァァッ
「アラタ!あれを見て」
「うおっ」
ガンガラシバナの巨岩のV字溝には頂きより流れる沢が流れている、時折遥か上流より春の日差しを受けた雪崩とも鉄砲水とも言える濁流が押し下っていく。
見物には良いが巻き込まれたら生き残る術はない。
「やっぱり黒笹を抜けた方が良かったかね」
本流のV字溝の脇には支流となる大小の沢もあり、それを跨ぎ超えていかなければならない、そこも危険だった。
「少し休もう」
「そうね」
赤岩の斜面に並んで腰を降ろす、まだ傾斜は緩く滑落の心配はないが、急傾斜には違いない、大腿の筋肉組合がストライキを起こしそうだ。
持ってきた水筒の水を今日初めて口にする、標高が高くなるとより乾燥が早くなる、山で呑む水はより美味い。
婆が持たせてくれた木の実や豆を煮て乾燥させた物を砂糖で固めたシリアルバーを齧る。
「甘いな」
「あら、甘いのは苦手なの?」
「あんまり得意ではないな」
「私は大好きだよ、甘いの、それだけでもいいくらい」
「お菓子の食べ過ぎは体によくないぞ」
「心配してくれるなんて優しいじゃん」
「まあ、若いお前なら食べ過ぎても肉にはならんかもな」
ふふっとマリッサが笑う、視線の先には遥か遠くに魔族領、魔城はもう見えない。
「春の午後はイーヴァン様と皆で良くお茶会をしたわ、リーナ姉さんはお菓子作りが上手だった・・・美味しかったな」
膝を抱えて遠くを見つめるその目には既に涙が浮いている。
危ない、発作の前兆だ。
アラタは黙って肩に手を置いて身体を引き寄せる。
マリッサの精神状態はまだ不安定だ、ふとしたことで変調してしまう。
アラタの腕にしがみつく様にして嗚咽を漏らし始める、二の腕に染みが広がる。
「ごめん、こんなんじゃなかったのに、私・・・情けない」
「いいんだ、仕舞い込むな、泣いて吐き出せ」
「くっ・・・ごめん」
「謝るな」
熱病を涙が流すように嗚咽が収まった時に少しだけ心が軽くなる。
「ありがとう・・・」
ポツリと言う、恥ずかしさと感謝の言葉、ポンと肩を叩く。
「さあ、もう一登りいくか」
アラタは背伸びと深呼吸をして荷物を担いだ。
目の前を力強い足取りで男が登る、繋がれたザイルが引かれて自分を引き上げてくれる。
男の息遣いと鼓動をはっきりと感じた。
思い出や幻想ではない現実、今自分が信頼できる最も確かな味方。
最早、男が仇敵の異世界人であることなど問題ではなかった、彼が居なければ自分を保つ自信はない。
殻に閉じこもり丸まっていたい、暗い悲しみの淵に沈んでしまいたい。
自分がこんなにも弱かったことを思い知らされる、生ぬるい淵には憐憫と哀憐の魔物が住んで誘う。
浮かべない甘美な淵に沈めようと狙っている。
崖を登る彼の手が自分に差し出される、握り返す力が強い。
半身を淵に沈めている自分を力強い手が引き上げる。
標高二千五百メートル、ハアハアと呼吸が苦しい、甘美な沼から上がれば辛く厳しい現実が待っている。
彼の後ろから太陽の光が眩しく射して、引かれた力に合わせて地を蹴って身体を持ち上げると彼の汗の匂いを感じる。
熱い手から彼の躍動する筋肉と流れる血潮の鼓動が伝わる。
ハアッハッ
顔が上を向く。
「大丈夫か?まだ行けるか」
「もちろんよ、まだまだ登るわよ!」
「若者は元気だね」
「おっさんには負けないわよ」
冥界の神殿への入り口がはっきりと見えてくる。
天候が怪しい、時間は午後三時を過ぎていた、これ以上の行程は諦めるべきだ。
「マリッサ、この辺でビバークしよう、天候が崩れそうだ」
「えっ、晴れているじゃない?」
「いや、雪の匂いがする、気温が下がってくるぞ」
「雪の匂い?そんなの分かるの」
「ああ、分かるぞ、乾いた埃の匂いがする」
「なにそれ、ほんとに?」
マリッサが鼻を鳴らしている。
「あと・・・三十分だな」
岩の窪みを見つけて二人で潜り込む。
「ここだ、焚き火の跡がある」
「これもイーヴァン様の跡かしら・・・」
「そうかもな、一人で泊まったとしたら強者だったんだな」
「見て!琥珀石があるわ、火を起こせるわよ」
「信じられん、奇跡だな」
アラタの予想どおり山の天気は変わりやすい、三十分を待たずに外の景色は一変して、大粒のヒョウ混じりの吹雪となった。
まるでムトゥスを守る二人をイーヴァンが導いているようだ。
サガル神山赤岩沢大滝、通称ガンガラシバナの壁面にハーケンを打ち込む音が木霊する。
下から見上げた冥界神殿の入口と思われる場所はまだ氷結しているように見える。
アラタとマリッサは朝一から大壁面に取りついていた、夏小屋についてから一日は下から昇るルートを想定して過ぎていった。
見上げてばかりいたため首が痛い。
二人はザイルで身体を繋ぎ、アラタがルートを先行してハーケンを打つ、アンカーをかけて確実に足場を決めながら登る。
途中には平地に近い場所も存在するため、休憩と宿泊はその場所を想定している。
全行程三日はかかるかも知れない。
「あった!」
イーヴァンが打っただろうハーケンが残されているのを見つけた、やはり同じルートを辿ったようだ。
ズズズッズズッ ドサアァァッ
「アラタ!あれを見て」
「うおっ」
ガンガラシバナの巨岩のV字溝には頂きより流れる沢が流れている、時折遥か上流より春の日差しを受けた雪崩とも鉄砲水とも言える濁流が押し下っていく。
見物には良いが巻き込まれたら生き残る術はない。
「やっぱり黒笹を抜けた方が良かったかね」
本流のV字溝の脇には支流となる大小の沢もあり、それを跨ぎ超えていかなければならない、そこも危険だった。
「少し休もう」
「そうね」
赤岩の斜面に並んで腰を降ろす、まだ傾斜は緩く滑落の心配はないが、急傾斜には違いない、大腿の筋肉組合がストライキを起こしそうだ。
持ってきた水筒の水を今日初めて口にする、標高が高くなるとより乾燥が早くなる、山で呑む水はより美味い。
婆が持たせてくれた木の実や豆を煮て乾燥させた物を砂糖で固めたシリアルバーを齧る。
「甘いな」
「あら、甘いのは苦手なの?」
「あんまり得意ではないな」
「私は大好きだよ、甘いの、それだけでもいいくらい」
「お菓子の食べ過ぎは体によくないぞ」
「心配してくれるなんて優しいじゃん」
「まあ、若いお前なら食べ過ぎても肉にはならんかもな」
ふふっとマリッサが笑う、視線の先には遥か遠くに魔族領、魔城はもう見えない。
「春の午後はイーヴァン様と皆で良くお茶会をしたわ、リーナ姉さんはお菓子作りが上手だった・・・美味しかったな」
膝を抱えて遠くを見つめるその目には既に涙が浮いている。
危ない、発作の前兆だ。
アラタは黙って肩に手を置いて身体を引き寄せる。
マリッサの精神状態はまだ不安定だ、ふとしたことで変調してしまう。
アラタの腕にしがみつく様にして嗚咽を漏らし始める、二の腕に染みが広がる。
「ごめん、こんなんじゃなかったのに、私・・・情けない」
「いいんだ、仕舞い込むな、泣いて吐き出せ」
「くっ・・・ごめん」
「謝るな」
熱病を涙が流すように嗚咽が収まった時に少しだけ心が軽くなる。
「ありがとう・・・」
ポツリと言う、恥ずかしさと感謝の言葉、ポンと肩を叩く。
「さあ、もう一登りいくか」
アラタは背伸びと深呼吸をして荷物を担いだ。
目の前を力強い足取りで男が登る、繋がれたザイルが引かれて自分を引き上げてくれる。
男の息遣いと鼓動をはっきりと感じた。
思い出や幻想ではない現実、今自分が信頼できる最も確かな味方。
最早、男が仇敵の異世界人であることなど問題ではなかった、彼が居なければ自分を保つ自信はない。
殻に閉じこもり丸まっていたい、暗い悲しみの淵に沈んでしまいたい。
自分がこんなにも弱かったことを思い知らされる、生ぬるい淵には憐憫と哀憐の魔物が住んで誘う。
浮かべない甘美な淵に沈めようと狙っている。
崖を登る彼の手が自分に差し出される、握り返す力が強い。
半身を淵に沈めている自分を力強い手が引き上げる。
標高二千五百メートル、ハアハアと呼吸が苦しい、甘美な沼から上がれば辛く厳しい現実が待っている。
彼の後ろから太陽の光が眩しく射して、引かれた力に合わせて地を蹴って身体を持ち上げると彼の汗の匂いを感じる。
熱い手から彼の躍動する筋肉と流れる血潮の鼓動が伝わる。
ハアッハッ
顔が上を向く。
「大丈夫か?まだ行けるか」
「もちろんよ、まだまだ登るわよ!」
「若者は元気だね」
「おっさんには負けないわよ」
冥界の神殿への入り口がはっきりと見えてくる。
天候が怪しい、時間は午後三時を過ぎていた、これ以上の行程は諦めるべきだ。
「マリッサ、この辺でビバークしよう、天候が崩れそうだ」
「えっ、晴れているじゃない?」
「いや、雪の匂いがする、気温が下がってくるぞ」
「雪の匂い?そんなの分かるの」
「ああ、分かるぞ、乾いた埃の匂いがする」
「なにそれ、ほんとに?」
マリッサが鼻を鳴らしている。
「あと・・・三十分だな」
岩の窪みを見つけて二人で潜り込む。
「ここだ、焚き火の跡がある」
「これもイーヴァン様の跡かしら・・・」
「そうかもな、一人で泊まったとしたら強者だったんだな」
「見て!琥珀石があるわ、火を起こせるわよ」
「信じられん、奇跡だな」
アラタの予想どおり山の天気は変わりやすい、三十分を待たずに外の景色は一変して、大粒のヒョウ混じりの吹雪となった。
まるでムトゥスを守る二人をイーヴァンが導いているようだ。