§10-2 10/15 魔女が集いて(2)

文字数 2,426文字

 僕らが見慣れている偏差値というやつは、計算の最後に50をプラスする。つまり、偏差の真ん中は元々はゼロで、それ以下はマイナスだ。しかし、マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスになるという話は、試験勉強に関しては起こり得ない。むしろ、感覚的には小数点以下どうしを掛け合わせる行為に近い。つまり、たとえば0.8と0.8を掛け合わせると、0.64になってしまう。だから、週末は一緒に勉強するのはやめようと、桃井が当たり前のことを言った。そこで、ずるずるとなし崩し的に同じ電車から同じ駅に降りてしまうことのないようにと、用心を重ね、校舎からも別々に出ることにした。
 教室の窓から桃井の背中を見送り、たまには自習棟にでも寄ってから帰ろうかと廊下に出ようとしたところで、吹雪と出くわした。恐らく偶然ではない。昼休みのカフェテリアに平木と吹雪が待ち構えていたように、放課後の廊下でタイミングを計っていたのだろう。
「彩ちゃん、変なこと言ってるでしょ?」
 教室の中央の列のいちばん後ろの机に、吹雪と向かい合って座った。
「君たちとの間で人身売買の契約が成立しているような言い方だったな」
「私は瀬尾くんもらえたら嬉しいよお」
「そういう冗談に付き合える気分じゃない」
「でも彩ちゃんを縛ってるのは瀬尾くんなんだよね、残念なことに」
「四の五の言わずに応援してやれ、て?」
「彩ちゃんのお父さんかお母さんとお話したことある?」
「お母さんとなら、少しだけ」
「ちゃんとした人だったでしょ?」
「ちゃんと現状を理解している人ではあった」
「うん。だからね、どうしようもないんだよ。まずそこから片付けないとね、どこにも行けないの。私も瑠衣ちゃんもそう。彩ちゃんみたいに考えられたらいいなあと思うよ。私と瑠衣ちゃんは意気地なしだから無理だけどさ。彩ちゃんにはお兄ちゃんもいるしね。ちゃんと受け止めてくれる人だから。そこはちょっと羨ましいかも」
「僕では桃井を受け止められない」
「だって同じとこ走ってるんだもん」
「一緒に走ることだってできる」
「いつかはできるかもね。でも今はできないよ」
「絶対にできないとは言い切れない」
「瀬尾くんがそんなことしたら、彩ちゃん可哀そう」
 ……そういう話になっちゃうのか。
「でもね、瀬尾くんと付き合い始めてから、彩ちゃんすっごく明るくなったんだよ。瀬尾くんのおうちでご飯食べたときの話とか、すっごく嬉しそうに話してくれたよ。彩ちゃんがあんなふうに話すのって、私も瑠衣ちゃんもこれまで聴いたことなかった。いっつもどこか上の空で、どこか痛そうにしながら、遠いところを見てるみたいだった。だから瀬尾くんて凄いねえって、いつも瑠衣ちゃんと言ってたの。彩ちゃんをあんなふうに変えられる人がいるなんて、ちょっと信じられないくらい。――瀬尾くん、本当だよ?」
 僕の耳はどこまで吹雪の声を聴いていたのだろうか。僕の頬はいつから吹雪の手を受け入れていたのだろうか。小さくて、柔らかで、あたたかな吹雪の手が、机の向かい側から伸びてくるところを、僕の目は見ていなかった。すぐ右隣りの椅子が引かれ、もうひとつのあたたかな手が腕の隙に差し込まれるのを、僕の目も耳も知覚していなかった。僕はただ茫然としたままに、僕の知らない街の寒くて狭い一室で、泣きながら毛布にくるまって眠る桃井の姿を、そうあるべきものとして浮かび上がらせては消し、そんなことしかできなくなっていた。平木と吹雪の前で明るく嬉しそうに話す桃井の顔を、どうしても思い描くことができず、どうしても受け入れることができず、僕はまだ桃井の喪失に、どこまでも桃井の喪失ばかりに、縋りつこうとしていた。でも、壁の窓と廊下のドアは、正面に座る吹雪と右隣りに座る平木と、二人の魔女に拘束されつつ慰められて、十七歳の少年がぼろぼろと涙を零す、いかにもだらしのない、いかにもみっともない顔を覗いていた。誰かが窓を割らなければ、誰かがドアを蹴破らなければ、僕はこのまま二人の魔女に導かれ、桃井のいない世界へと連れ去られてしまう。二人の魔女はそのために、桃井によって遣わされたのだ。しかしその揺るがし難い事実の重みが、やがて、ようやく、僕の腹の底にまで滑り落ちると、僕は吹雪の手を頬の上から引き剥がし、平木の手を腕の隙から引き抜いた。
「あ~、もお! このまま私たちにぜんぶ任せればいいのに!」
「平木さん、それは最悪のシナリオだよ」
「瀬尾は幸福な結末を最悪のシナリオだって言うタイプの人間なんだね」
「君たちみたいな綺麗な女の子に挟まれるのは、僕のキャラじゃない」
「そんな男から袖にされるのも私らのキャラじゃないんだけどなあ」
「ほんと、世の中ガッカリすることばっかりだね」
「彩香はそういう私たちみたいなのを代表して東京を出るんだよ」
「瀬尾くんが彩ちゃんの背中を照らしてくれてるんだよ」
「アルトゥールとイェレミーアスみたいだ」
「ウラディミールとエストラゴンてのもあるね」
「桃井は最後まで城に受け入れてもらえず、君たちのほうは自殺することも許されない」
「さ、勉強しよっか」
 と、平木が腰を上げた。
「瀬尾は帰るの? それとも自習棟?」
「今日は自習棟」
「私と瑠衣ちゃんも自習棟だよ」
「じゃあ瀬尾、一緒に行こうか!」
 我が校の我が学年を代表する二人の美女に挟まれて、混み合う試験直前の自習棟に入った。三つ並んで座れる座席が見つからず、うろうろと棟内を歩き回った。まるでデモンストレーションをしているみたに。実質的に僕は、この二人に拉致・軟禁されているのと、ほとんど変わらない事態でありながら。
 週明けの朝一番、また大迫がやってきて僕を教室から廊下に連れ出すと、いったいどうなってるんだ!?と詰め寄ってきた。そんなの大迫に理解できるはずがない。あの二人を宴席で退屈させないよう知恵を絞るのが、今の大迫の最大の責務だ。僕のほうはもうしばらく桃井とイチャイチャさせてもらうよ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み