§11 10/16 桃井一哉

文字数 2,224文字

「そう言えば、こないだ彩香のカレシくんとお話したんだけど――」
 妻が唐突にそんなことを口にしたもので、仰向けに眺めていたスマートフォンを、自分の顔の上から取り落としそうになった。どうやら隣りのベッドから、妻は私のほうに首を向けていたようで、画に描いたような慌てぶりを見られてしまい、クスクスと笑われた。
「いつ? いやどこで?」
「うちよ。月曜だったか、火曜だったか……」
「真の悪いタイミングに鉢合わせた、みたいな話?」
「そろそろ決めてあげなくちゃダメみたいね」
「いきなりそんな話になったの?」
「いつもの癇癪起こして酷く泣いた、て」
「それは……カレシくん、困ったろうなあ」
 同性として、彩香のあれを喰らったとは、同情を禁じ得ない。淡々としゃべっているのを聞きながら、ずいぶんと長いおしゃべりだな…と感じ始めると、それは危険信号だ。カレシくんもさすがにまだ、そうした気配を察知する領域にまでは達していないだろう。
 妻の見立てが正しければ、彩香が大学生活を――そこから始まる新しいステージを――どこで過ごすか、私たちとの距離をどれくらいに保つか、そんなテーマの話し合いを始めなければならないらしい。兄の尚哉のほうとはいつ頃それを始めたのか、正確にはもう忘れてしまったが、良くも悪くも尚哉は自立心が強く、怖いもの知らずの、いささか乱暴な少年だった。他方で計算高くもあり、親の足元を見ながら、上手にネゴシエーションを進める才覚を持ってもいた。要するに、我々はさほど苦労しなかった。
 しかし彩香には、幸か不幸か、そうした才覚がない。あの子は極めて情緒的に動いている。一見するとおとなしそうに見えて、内面の振れ幅は思いのほか大きい。落ち着かせるのは難儀な仕事だろう。振れ幅と言っても、基準点が定まっていない振幅だから、測るのが難しいのだ。けれども根っこがないわけではない。彩香の根っこは単純で明快だ。兄・尚哉が目の前から唐突にいなくなってしまったこと――当時、小学生だった彩香にとって、それは足下で世界が割れるほどのインパクトであったらしい。
 そこからの彩香の葛藤は、言ってしまえば、兄の喪失を仕方のないこととして、この世界の根源的な成り立ちにも通じるものとして、どのように解釈して理屈をつけるか、そして最終的に、どうすれば兄の選んだのと同じ道を、上手くなぞることができるのかに費やされてきた。――それが、私たちの理解だ。
「俺たちが出て行くのがいいんだろうな、やっぱり」
「まあ、そうなるわね」
「コロナの収束が見えてればなあ、さっさとシンガポールにでも行くんだけど」
「あんまり遠いのはやめましょう。どこかふつうの田舎でいいんじゃない? ほら、斎藤さんのところも長野に移転するんでしょ? 今だってオフィスは実質的にヴァーチャルなんだからさ」
「そうか。シンガポールとかって発想は、もう時代遅れか」
「お正月にでも姉さんと話してこようかしら……」
「お義姉さんところの近くに部屋を用意してやるの?」
「違うわよ。ここはこのままじゃなきゃダメでしょ」
「3LDKに、一人で?」
「私たちが出て行くってそういう意味よ。その形を崩しちゃダメ」
 けれども、恐らく彩香はそれを認めないだろう。妻と私と尚哉が作っていた三角形を、自分もまた宿命的に反復しているのだと、そう考えているはずだ。実際のところその視座は、尚哉が尚哉自身のために作った場所であり、彩香はその結果、ずっと尚哉を通じて私たちと繋がってきた。ひとつの逆三角形と、下の頂点から延びる線分――私たちの関係を幾何学図形に置換してみれば、そんな絵がイメージされる。三角形から延びる線分の端に立つ彩香は、私たちとは直接に繋がっていない。尚哉が家を出たあとにも、新しい三角形の作図は実現されていない。尚哉が家を出たことで、彩香から延びていた私たちへと向かう二本の線分は、接続先を見失ったまま宙に浮いている。
 もちろん私たちは、彩香とのあいだに尚哉とは異なる線分を結ぶべく、その実現を期待しながら努力してきたつもりだ。しかし努力は成果を約束するものではないし、血の繋がった親子であることもまた、関係構築に当たっての、いくらかのアドバンテージでしかない。――いや、これは私の見立てであって、妻の考えは違う。私はずっと関係を構築するステージにあると思っているが、妻は関係を修復するステージを待っている。つまり、一度は関係構築が成ったことがあると妻は考えている。彩香が中学受験に失敗したあとの一年ほど、そのような期間があった、と。残念ながら、私にはそのような記憶がない。妻は、その喪失を目にしたからこそ、会社を売ったらしいのだが。
 いずれにしても、今の私たちは、彩香がこのまま漂流してしまうことを、なによりも恐れている。大学から地方都市に出て行った尚哉の選択を反復することが、彩香にとっても正解であるとは思えないのだ。しかし私たちに代替案があるわけでもない。だから、彩香にはとにかく時間と場所を用意する必要がある。他所の家族のことは知らない。私と妻に今できることは他にない。先延ばしに過ぎないと言われれば、まさしくその通りだと応じよう。十七歳の少女がなによりも必要としているのは、成熟のための時間と場所に違いないからだ。単なる開き直りだって? ふむ……。まあ、好きなように言ってくれてかまわない。彩香は私たちの娘であって、あなたの娘ではない。(了)
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