§01-2 8/27 僕は、殴られた(2)

文字数 3,012文字

 日に日に身体の傷が回復してくるのがわかる。頬の腫れは引いた。が、青痣のほうは濃くなった。湿布はもう無用なのだが、青痣を隠すためにガーゼだけを貼った。夏の終わりに周囲がみなマスクをつけている状況は、去年始まったばかりの異様な景色ではあるけれど、現下の僕には幸いしている。
 学校では生徒も教師も、稀にしか出会わないが恐らく保護者の多くも、僕のこの青痣の肯定的な――あるいは英雄的な(笑)――価値を知っており、従って奇異な目で見られることはない。しかし通学途上では違う。顔の左半分を覆うほどの青痣は、まず間違いなく人目を惹く。おかしなことに、家と病院以外の場所で露わにしたことはないはずなのに、僕はそれを恐れているわけだ。
 この夏のオリンピックの際に、きっかけがなんだっかもう忘れてしまったが、ルッキズムが話題になった。Look-ismだ。外見で――それも世間から否定的に見られている特徴が顕著な際に――その人間を差別的に扱う。容貌障害なる言葉の存在も初めて知った。そうした障害を引き起こす病の存在も。あるいは僕のように――僕よりも酷い――事故によるケースもある。そんな記事が一時期ネット上に溢れた。
 しかし、想像するに、それらの情報に触れたことが、いま僕に影響しているわけではない。Look-ismや容貌障害なる言葉や事態を知らなかったとしても、僕はこの青痣を隠そうとしただろう。つまり、すでに潜在的に僕の中に、そのような考え方があるわけだ。日常的にそうした態度に触れてきたのだろうし、恐らく僕もまた、そうした態度をとってきた。自分が見られる側に立たされたことで、それが意識化された。
 湿布やガーゼは極めてわかりやすい、紛れようのないサインだ。わかってもらえないと困るから、そのように工夫されてもきたのだろう。傷を治す内側ばかりでなく、外側に対しても効果が得られるように。自然界における警告色のようなものだ。毒を持っていますよ、と顕示するように、傷を負っていますよ、とアピールする。
 腫れが引いて、医者の言っていた通り、狭められていた視界は元の広さに戻った。同時に、硬いもの・噛み切り難いものでなければ、ふつうに食事もできるようになった。こうした怪我の治癒は、あるとき急に気がつくものらしいとの発見を伴って。残るは左顔面の青痣と、肋骨の痛みだ。
 けれども、しゃべれない状態にあることを、学校では今しばらく維持することにした。食事も怪しまれない程度にわざと柔らかいものを選んだ。満たし切れない空腹は家で補えばいい。どうせ部活にはまだ戻れないのだし。この非日常感のおもしろさを手放してしまうのは、ちょっと惜しい。
「そっかあ。まだ犯人捕まらないの。バッチリ映ってそうだけどねえ。あの辺コンビニとかふつうにあるじゃん?」
 ――あるね
 肋骨の痛みは偽りでなく残っているために、登校して自分の机に腰掛けると、トイレに行くことくらいしか席を立たない。その結果、こうして相変わらず桃井が振り返る。もしかして僕の無聊を慰めてくれようとしているのだろうか? そうだとすれば、桃井は思いがけず奇特な人物だったわけである。いつも物憂げな様子で、誰に対しても面倒くさそうに応じる、熱量の低い女子特有の取っつきにくい印象だったのに。
「じゃあ、例の女の子もまだわからないまま?」
 ――そう
「陸上とか、なんか運動部じゃないか、て言ってたよね?」
 ――走り方がね
「まだ歩くと痛いんだっけ?」
 ――だいぶよくなってはいる
「じゃあ放課後さ、ちょっと部活巡りしてみる?」
 意図が理解できず、僕は首を傾げて見せた。
「近くで直接見ればわかるだろうし、向こうも気づくんじゃない? あ、気づいてはいるはずか、瀬尾くんこんなことになったわけだしね。でも目の前に現れたらさ、ふつう黙ってはいられないでしょ。少なくとも挙動不審にはなるよね?」
 ――この学校にいる?
「中学の同級生かもしれないけど、ここの可能性もあるわけじゃない?」
 今度は桃井に見せるためではなく、自分で考えるために首を傾げた。
「私帰宅部だから、一緒に回ってあげるよ」
 ――なぜ桃井が?
「私じゃなくてもいいけどさ、瀬尾くん一人はマズいでしょ」
 今度はまた意味がわからず、尋ねるために首を傾げた。
「女子の部活じっと見てたらアウトでしょ、それも運動部なわけだし」
 確かにそうだ。運動部の女子をじっと見ていれば、間もなく生徒たちがひそひそと耳打ちを始め、誰かが顧問のところに向かい、僕は詰問(あるいは恫喝?)されながら追い払われる。性的な目的で見てはいないのだとしても、見られている側にそれが伝わるものではない。そう言えば、そんな議論もこの夏にはよく耳にした。国も競技も忘れてしまったが、抗議のために殺風景なユニフォームを着て出場したとか。――ああ、ここでユニフォームを「殺風景な」と形容した時点で、もうアウトなのか……。
 ――今日は病院に行くから 明日なら
「あ、ほんとにやるんだ」
 えッ…? いやだって桃井の発案だぜ?
「いいよ、明日ね。――私ちょっとおしゃれしてこようかなあ」
 僕が首を傾げると、桃井が呆れたように笑った。
「瀬尾くんてこういうジョーク通じない人か」
 そうかもしれない。一瞬、制服でおしゃれをするとは…?と考えてしまった。考えてもすぐになにか思いつくわけでもなかったことが、僕がこの手のジョークを理解しない人間である事実を裏付けるだろう。これが通じる人間であれば、きっと制服でおしゃれをするための、ちょっと気の利いた発案を得られるはずだ。
「そう言えばどこの病院だっけ?」
 ――○○大学
「え、そこ近いよ。じゃあ一緒に帰ろうか。明日の計画練りながらさ」
 僕は頷いた。肯定、ここでは了承、あるいは受容の意味になる。
 言葉の意味は、まずそこに言葉を発する人間と受け取る人間がいて、受け取られた瞬間に確定するものだと、古くから議論されているらしい。僕らはそうした議論と、中学生か高校生になってから出会う。言葉(正確には発声)を失った(現時点ではそのフリをしている)僕の首の動き三種(縦・横・斜め)は、相手の発話に対する応答(最初の一義的な意味)を超えて、様々なニュアンス――そして受け取り手に取っての意味――を持ち得る。
 桃井の家が病院の近くであることへの驚き(さほど大きなものではない)、一緒に帰ろうと言われたことへの戸惑い(これもぜんぜん大きくはない)、明日の計画を練るという目的化への小さな賛同(明日の日中でも構わないレベルの内容だけれど)――この三つの反応が僕の中で起こり、総合的に勘案されて、肯定・了承・受容を意味する「頷く」という行為へと繋がっている。桃井がどのように受け取ったのかは不明だ。
 分析的にはこの通りなのだが、ここでの「驚き」「戸惑い」「賛同」は、それぞれ、桃井の三つのセンテンスにきれいに対応しており、後付け感が強い。僕の中で起こったことはもっと単純だったかもしれないし、もっと複雑だったかもしれない。
 たとえば、結城ほど遠くはないにしても、桃井とだってこれまでのところ、席が近い女子として接してきたに過ぎない。わかりやすく言い直せば、前の席から桃井が振り返っても動悸が高鳴ることはないし、振り返ってくれるきっかけを探すことも、振り返ってくれるよう念じたりしたこともない。そういう意味だ。
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