§09-3 10/11 桃井彩香の長い長い独白(3)

文字数 1,830文字

 ――この日、僕は初めて桃井の母親に会った。先に帰ってきたのが母親のほうで、僕は桃井を一人にして帰ることができなかった。きっと眩しく華やいだ感じの人が登場するのだろうと思っていたのに、桃井の母親は僕の母親とぱっと見どこも違わないオバサンだった。桃井の母親のほうが明らかに疲れて見える分、ずいぶん年上くらいにさえ思えた。激しく泣いた桃井は眠っていた。だからドアのノックに僕が応えたので、桃井の母親は酷く驚いたようだった。すぐにドアが開かなかったので、僕は慌てて自分から名乗り、桃井との社会的関係性を告げ、桃井との個人的関係性を告げ、そこでようやくドアがゆっくりと開いた。立ち上がっていた僕をちらりと見たあと、桃井の母親はベッドに歩み寄り、娘の顔を覗き込み、ずいぶん泣いたみたいね…と呟いたあと、僕を振り返り、喧嘩でもしたの?と尋ねた。僕は首を振り、大学の話をしていました、と告げた。桃井の母親の表情が見る間に強張って、僕は目を逸らさないよう踏ん張った。リビングに招かれたときには、桃井の母親の表情も落ち着いて、いくらか和らいでいた。
「一緒に地方の大学に行こう、て話してたのかな?」
「いえ。僕は地方に行く気はないので、せめて東京の近県にしてほしいと言いました」
「それじゃあ問題の解決にならないでしょう」
「はい。彩香さんもそう言って泣いたので、それも酷く激しく泣いたので、僕は一人で帰るわけにはいかなくて……」
「うん、そうか。――ありがとう、こんな時間まで。おうちのほうは大丈夫?」
「連絡してあります。別に心配はされません。――たぶん、僕が男だから」
「……なるほど。そういう話になっちゃったのね」
 桃井の母親は片手で口元に触れる格好で、しばらくカーテンの引いていない真っ暗な窓の外を眺めてから、僕に向き直った。微笑んでもいないし、苛立ってもいない。
「私たちは反対はしていない。反対できないと言うべきかな。兄にはそれを認めているし。だけど彩香は素直に怖いんだと思う。私たちから離れたいという気持ちと、一人で知らない街で暮らすことへの怖さが、ちょうど拮抗してしまっている。どちらかが勝てば結論が出せるのに、押したり引いたりを繰り返すばかりで、たぶん決着がつくことはない。社会に出て、お金を稼いで、社会的な信用も得て、自信がついて、それまではきっと無理でしょう。いくら私たちが嫌いだと叫んでも、今は私たちに頼るしかない。そういう時代の、そういう社会に生まれてしまったのだから。これからも今日みたいな癇癪を繰り返すと思うけど、瀬尾くん、あなたそれに耐えられそう?」
「大丈夫です」
「そ。――なら彩香と一緒に、どこかでご飯食べてきて」
 ロングソファーの脇に置いたバッグから財布を取り出して、僕に一万円札を差し出した。
「こういうやり方が問題なんだ!なんて言わないでよ。今は修復に乗り出すタイミングじゃないことくらい、あなたにだって理解できるでしょう。そんな時がくるか分からないけど、少なくとも今夜じゃないのは確かなんだから」
 もちろん、それくらいは僕にだってわかる。今夜じゃないならいつなのか?なんて詰め寄ったりもしない。そんなことはわからないし、決められない。
 僕はただ、この人たちは無理解であるが故に娘との関係を壊してしまったのではないのだということを知り、胸の内でなんとなく安堵していた。きっといつか修復されるだろうとまでは言い切れない。けれども、その可能性はあるのだと思った。
 桃井を起こし、目の前で一万円札をひらひらさせると、一瞬はッとしてから、すぐに事情を理解したようで、顔洗ってくる、と言って部屋を出た。耳を澄ませてみたが、水を使う音は聴こえてきても、母親と話す声は聴こえなかった。
 ものすごくお腹が空いている、と桃井が言うので、表通りに出ると中華料理店に入り、クラゲの冷菜と油淋鶏(いずれも好物らしい)に、五目かた焼きそばとレタスチャーハンを、それぞれ大盛りで頼んだ。しゃべって泣いて疲れたし、あるいは少しすっきりもしたのか、桃井は言葉通り旺盛に食事をした。
 繋いだ手をぶらぶらと前後に振りながら、まるですっかり女の子みたいになってしまった桃井と、夜の街を少し遠回りして帰った。今夜じゃないのは同じだとしても、僕の問題には長い猶予はない。どんなに遅くとも次の夏が終わる前までが期限になる。家族のほうの問題は、たぶん、いずれかの人生が終わるまでに、解決できればいい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み