§02-2 9/14 狂った果実を喰らう(2)

文字数 3,726文字

 今年の春先、僕にはカノジョがいた。ふたつ年上の、中学の先輩――同じ塾に通っていた。地下鉄のホームでばったり再会した。おしゃべりしようよ、美術展に行こうよ、うちにおいでよ……すべて彼女の導きで、彼女のベッドの上で、僕は初めて女の子と交わった。そんな展開までは期待していなかった。――いや、期待はしていても予定はしていなかった僕は、彼女がどこからかコンドームを取り出したことに、酷いショックを受けた。男が装着するものを、女の子が持っている。それはあり得ないことのように思えた。
 思い切って兄に話したところ、せせら笑いとともにバカにされた。――実際おまえは持ってなかったんだろう? 生で入れて外に出すなんてうまくできたか? 女だって欲情するんだぜ? おまえが持ってなかったときどうする? 諦めるか? 生で許すか? その結果に直接的に傷つけられるのは女のほうだ。どうせ持ってこないだろうって読まれてたんだよ。その子は淫乱なんじゃない。あり得べき未来を期待して、冷静に予見しただけ。予見できていい未来だからな。ところがおまえにはそれができなかった。その子はちょっとだけ賢くて、おまえはぜんぜん坊やだった。それだけのこと。
 兄の解説は恐らく全面的に正しい。けれども僕はそれを受け入れられなかった。僕ばかりでなく、彼女もまた初めてであったことは、疑いようもなく明らかであったと思われるにもかかわらず。いや、むしろそうであったからこそ、予見して備えることができた彼女と、それができなかった僕とのあいだに、容易には越え難い淵が横たわっているように感じられたのだ。僕は永遠に彼女に追いつくことができないだろうと思った。穏やかで、可愛らしくて、本当に素敵な女の子だった。
「瀬尾くんてさ、いつも持ち歩いてる人、じゃないよね?」
 マンションのエントランスの前で、桃井がそう言ったとき――顔を赤らめ、目を逸らしてそう言われたとき、だから僕は、すぐにこの春のあの人を思い出した。
「……念のため明言するけど、コンドームを指して言ってるよね?」
「わざわざ避けたのに、なんで明言するかな?」
「違ったら恥ずかしいだろう?」
「それで目の前の女の子に恥をかかせるわけ?」
「あ、ごめん……」
 女の子らしい恥じらいの気配が一瞬で退いて、落胆と軽蔑の様子に一変した。
「こんなに見た目いいのに瀬尾がモテない理由がよくわかった」
 同時に〈瀬尾くん〉が〈瀬尾〉に置き換わった。
「茉央や瑠衣に『瀬尾はやめとけ』て言われた理由はこれだね」
 ……マオとルイとは、まさか吹雪と平木のことか!?
「どうする? このまま回れ右して帰る?」
「今の二人って、吹雪と平木のこと?」
「あの子たち今ぜんぜん関係ないでしょう」
 ……なるほど、そういう背景があっての桃井彩香なのか。あの吹雪と平木を相手に僕のことを話題に載せるくらい――「瀬尾はやめとけ」と言われるくらい――近いところにいるから、だから桃井彩香のステータスは謎に高いのか。道理で、周囲の目をまったく気にする素振りもなく僕を振り返り、躊躇いもなく話しかけたりできるわけだ。注目されることが怖くないのだろう。まあ、そうに違いない。吹雪や平木みたいな連中が周りにいれば。
「ねえ、どうするの?」
「帰れ、とは言わないんだね」
「言わないよ。瀬尾は中身はダメ男だとしても、見た目は間違いなく好みだから。――でも、茉央と瑠衣の名前聞いてしぼんじゃったんなら、帰るしかないよね」
「すっかり冷めちゃったのは桃井のほうじゃないのか?」
「そこは心構えがあったから、まあちょっと残念には思ったけど、すべて引っくり返ってはいないかな」
「じゃあ、まだ僕としたい?」
「そう、いま瀬尾としたい」
「そこはきっと、〈瀬尾〉よりも〈いま〉のほうだよね?」
「ほんと、瀬尾ってどこまでダメなの?」
 ……そうか、今のもダメなのか。
「コンビニはそこを右に曲がった先」
「あ、うん」
「ここで待ってるから」
「薄さはどうする?」
「そんなの瀬尾に任せる」
「でも――」
「早く行ってよ!」
 走ればまだ痛む胸を押さえながら、可能な限り速く足を前後に動かした。マンションのエントランスに女の子を長く待たせてはいけない。「早く行け」とは、たぶん、そういう意味で合っているはずだ。

     *

 僕が想像し、期待していた通り、桃井はやわらかくて、あたたかくて、いい匂いがした。女性のオーガズムが積極的な性選択の結果なのか、男性のオーガズムの副産物なのか、そんな議論があると、つい最近本で読んだばかりである。僕は率直に、とは言え恐る恐る、桃井に尋ねてみた。
「ちゃんとイケた?」
「二度目はイッたよ」
「一度目は?」
「それ訊く? まあいいや。一度目はね、私がイク前に瀬尾が終わった」
 なるほど、そうだったのか……。
「でもあれだね、自分でするのとはずいぶん違うよね」
 桃井のベッドの上で、エアコンの効いた部屋で、僕らは軽い愛撫を続けていた。
「ふ~ん、そうなのか」
「え、男は違わないの?」
「いや、男も違うよ。一般化していいかわからないけど、少なくとも僕は違う」
「どっちのがいい?」
「桃井のほうがいい。けど、ちょっと面倒くさいところもある」
「え、どういうこと?」
「ああ、だから、とにかく出してしまいたい、てときもあるんだよ。なんて言うか、賞味期限が切れて廃棄するくらいなら、半額にしてでも売り切りたいみたいな」
 目をぱちくりさせるという表現があるように、そうした表現は決して根拠なく生まれるわけではなく、桃井は瞼を激しく――上下の瞼がぶつかる音が聞こえそうなほどに激しく――開閉させてから、僕をエイリアンでも見るような眼差しで見つめた。
「AVの需要ってそこにあるのか……」
「まあ、そういうことなんだろうね」
「私を気持ちよくさせるプロセスを省略して、ただただ一直線に射精したいわけだ」
「いやでも桃井の身体はすごく気持ちいいよ。こうしてずっと触っていたいくらい」
「あのさ、学校のトイレで出す男がいるって聞いたことあるんだけど、それってほんとにある?」
「どこでそんなの聞いた?」
「そこはいいから、ほんとなの?」
「まあ、いるかもね。僕はしたことないけど」
「それってさ、なんかきっかけがあるんだよね、きっと。たとえば――結城さんみたいな可愛い女の子とおしゃべりしたとか」
「結城さんでそんな気分になるかなあ? 確かに可愛いけど、煽情的じゃないよね、彼女って」
「じゃあ、由惟ちゃんとかか」
「ユイちゃんて?」
「佐藤由惟」
「ああ、確かに佐藤由惟はあるかもしれない」
「この状況にあってそれを肯定するってどうなの?」
「桃井がしつこく訊くから答えたんじゃないか」
「――あ、また大きくなった。由惟ちゃんのせい?」
「桃井が触ってるからだよ」
「体力が続く限り何回でも無限にできちゃうもの?」
「無限ではないけど、もう一回は間違いなくできる」
「じゃ、して。でもちゃんとしたやつでして。面倒くさいほうで」
 桃井の身体が目の前にあって、さっきからずっと触っている――触られている――というのに、そのうえこれは三度目になるというのに、面倒くさいほうを選ばない男がいるだろうか? とは言え、実は肋骨にちりちりと刺さるような痛みがあった。こいつだけは執拗につきまとう。
「ほんとはあれこれ体位を入れ替えたいところなんだけど、肋骨がね……」
「ああ、じゃあ無理しなくても――」
「いや、無理はするよ。ただし桃井も積極的に頑張ってほしい」
「……積極的に、て?」
「一生懸命この素敵なお尻を振ってくれたらとっても嬉しい」
「うっ……」
「ほんとはそういうのしたかったでしょ? もっと気持ちよくなりたいよね? 桃井がしたいようにしていいよ。したいことがあるんだろ? きっとそうだよね?」
 下からドンッと胸を突き放されるかと思ったら、ぐいッと両腋に挿し込まれた腕で、乳首の大きな柔らかな胸に抱き寄せられた。耳元で「もっとイジワル言って」と囁き、桃井の手が僕を招き入れる。コンドームを付けるのはあとにしよう。今この瞬間を、あの無粋な作業で途切れさせたくない。桃井も間違いなく同じ気分のはずだ。
 ……と、べりべりっと頬のガーゼを引き剥がされた。
「ほんとだ、凄い青くなってる」
「みんな驚くだろう?」
「私が治してあげるよ」
 桃井の唇が、舌が、僕の青痣の上を這い回ると、確かに、不思議なことに、治癒の感覚が生じた。同時に、桃井の脚が腰の後ろから、僕の身体をがっちりとホールドする。どこかで意識的にインターバルを差し挟まないと、このまま射精してしまいそうだ。桃井のほうが狂っていく様子に、僕は努めて冷静な一点を確保すべく踏ん張った。
 この春のあの人は、僕をとめどなく昂揚させてくれはしたけれど、決して桃井のように狂ったりはしなかった。あくまでも穏やかで、可愛らしくて、素敵な女の子のままに、そっと姿を消した。桃井のように激しく痙攣することも、桃井のように激しく咆哮することもなかった。だから僕は、ただ一途に恋をする少年として残されたのかもしれない。――いや、気の利かない、そのせいで見た目はいいのにさっぱりモテない少年として、か。
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