§08-2 10/09 ふたたび週末に屈曲する(2)

文字数 2,065文字

 翌朝、トーストを三枚焼いただけの殺風景な朝食をとりながら、桃井が言った。
「三月に試験が終わるまで、ずっと続けてくれる?」
「放課後にここでセックスすることを言ってる?」
「そう」
「まあ、桃井がそれでいいなら……」
「ほかに選択肢がない。――ということを、私やっと理解した」
「やっぱり僕で合ってるわけ?」
「うん。瀬尾で間違いない。十七歳の私としては、なかなか運がいいと思う」
「……そうか。……桃井は運がいいと思ってるのか。……僕のほうでは不運が続いてるんじゃないかと思ったのに」
「これは瀬尾にとっては不運なこと?」
「違う。桃井がそんな先のことまでもう決めちゃってることだよ。僕には桃井を諦めるか、桃井について行くか、それしか選択肢が残ってない」
「そんなの酷いじゃないか!て続くのかしら?」
 まったく、ほんと溜め息しか出ないよ……。
「たとえばせめて千葉とか埼玉とか横浜とかにはならない? 新幹線を使わなくてもいいところ。午前の講義が終わって駆けつければ、翌朝までのんびり過ごせるような。この先の一年、僕も一緒に悩んで過ごせるような」
「どうしたの? 一晩寝て起きたら、人格入れ替わった?」
「考えてみればまだ一度も口にしたことがないと思うんだけど――」
 そんなふうに首を傾げてみせるとかさ……。
「僕は桃井が好きなんだよ。――知ってた?」
「知らなかった、かも」
「だからさ、桃井にとってはこの家を出ることが最重要課題で、ほかに考えるべき課題なんてないのかもしれないけど、僕で間違いないって言うんだったら、せめて一度は天秤にかけてみてほしい。もしかすると単に妥協を強要するだけで、桃井にとっては解決からはほど遠い、中途半端な選択だという結論が出るのかもしれない。でもそれを考えたのは僕と会う前だろう? 僕と会ってから考えてみた? 僕と会う前に考えていたことだけで僕を評価してない? それはなんて言うか、身勝手で酷い話だ」
 言ってしまってから、これは泣くか怒るかするだろうとすぐにそう思い、僕は来るべき事態に備え、心の内で身構えた。が、桃井は泣きも怒りもしなかった。なんだかポカンとしてしまった。それもかなり長時間そうして固まってしまい、僕は身動きもできず、次第に困惑し始めた。桃井の中でなにが起こっているのか、まったく見当がつかなかった。
 やがて、ようやく表情を動かした桃井は、少しばかり難しそうに眉間を寄せ、視線をダイニングテーブルの上に落とすと、いかにも言い難そうに、おずおずと口を開いた。これ以上はないと断言していいくらい、思いがけない問い掛けだった。
「藤田さんが泣いたとき、思わず抱き寄せたよね?」
「いきなり泣き出すから、思わず手が伸びたところまでは認める」
「胸の中に藤田さんを抱いて、そよとも揺らがなかった?」
「揺らいでない。困って雨野と結城に助けを求めたくらいだ」
「その結城さんなんだけど、可愛いなあ…てずっと思ってたでしょ?」
「それはまあ、彼女は一見して可愛い女の子だから」
「その可愛い結城さんの家に行けるの、ラッキーだなあ…て思った?」 
「思ってない。――ねえ、桃井はどうしてそう思う?」
「私がいなくても物語が成立するから。ほかのピースを抜くと崩れちゃうけど、私だけは外せる。藤田さんがきっかけで瀬尾が殴られて、藤田さんは結城さんの友達で、結城さんは雨野と付き合ってて、だから雨野が瀬尾に声をかければ、あの場面は成立する。――ね、私はどこにも出てこないでしょ?」
 なるほど、そういう話になっていたわけか、桃井の中では。――確かに、登場人物から桃井を除いても、あの物語は成り立つだろう。でも僕らの人生は物語ではない。世界は舞台ではないし、人は役者ではない。脚本家も演出家もいない。そもそも観客からして存在し得ない。その観客が主役となる物語を置くほかになくなるからだ。それを見る観客を連れてきても同じ。またその観客が主役となる物語を置くことになる。この現象にはどこまで行っても打ち止めがない。それでも、物語という概念?を持ち込むことで、僕らはこの世界の見通しを、いくらかでも明るくできるのではないかと考える。
「僕が殴られたことをきっかけにして、桃井が舞台に登場してきた。僕の物語のシナリオにはそう書いてある。僕が殴られなかったら、藤田は結城に相談していない。雨野は僕に声をかけていない。そして藤田と再会していない。僕が殴られたことで、藤田も結城も雨野も舞台に上がってきた。でも彼らはもう袖に引っ込んでしまった。いま残っているのは桃井と僕のふたりきりだ。――正直これはいい喩えとは思えないけど、敢えて続けるとしたら、この舞台に上がる前に桃井が考えていたことなんて、観客は知らない。この舞台に上がってきた桃井が、これからどうするかにだけ注目している。固唾をのんで見守っている。僕もその一人だ」
 スポットライトは、いま、桃井を照らしている。――昨夜は腰が引けてしまったはずの僕は今朝、こうして桃井に、口先だけの出まかせを話しているのだろうか?
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