§10-1 10/15 魔女が集いて(1)

文字数 3,994文字

 我が家における、ここ数日の最大の話題であり悩ましき問題は、振り込まれた示談金の取り扱いについて、だった。直接的な被害者はむろん僕なのだが、示談は保護者の間で取り交わされるものであり、それは僕が未成年だからなのだが、示談金は父の口座に振り込まれた。そのとき母が迂闊にも、夏期講習とかに充てれば…などと口にしたものだから、兄が(僕ではなく)それはおかしい!と咆えた。
 入院・治療に要した費用や、制限された食事への対応など、親の取り分は確かにある。しかし示談金には、僕が受けた苦痛への見舞い、暴力行為の償いという側面もあって、そこは僕の手に渡るべきだと兄は主張した。そもそも夏期講習の費用などは、この事件とは無関係に存在していたはずであり、それは当然親が負担すべきものであり、示談金で賄おうとするのは見当違いも甚だしい、と。
 しかし問題はその金額だった。僕は顔面を殴られて歯を折り、脇腹を蹴られて肋骨にひびが入り、全治に三週間近くを要したため、なんと、一五〇万円もの示談金が振り込まれたのである。入院費と、こちらが主張したインプラントが、医療費の大半を占め、三十万円ほどになる。兄の主張を受けて、母はすぐに発言を撤回したのだが、とは言うものの、高校生の僕に一二〇万円(一五〇万から医療費の三〇万を引いた額)を、ポンと手渡すわけにはいかない。あまりにも額が大き過ぎる。
 数日して、兄がこんな提案を持ち出した。――大学生の平均的なアルバイト月収(長期休暇中を除く)は三万円台である。主に夏と春の長期休暇を三ヶ月とすれば、九ヶ月が四年で三十六ヶ月になる。一二〇万円を三万円で割れば四十である。すなわち、僕は大学の四年間、平常月はバイトをせずともよく、加えて、僕自身の労働から期待される対価に相当するわけだから、分不相応な大金でもない。
 両親は納得した。兄はやはり尊敬に値する。大学生になって初めてこのお金を受け取った際には、兄にいくばくかの謝礼をしなければ…と思った。再来年の春には兄は就職しているはずであり、固辞される可能性が高いけれど。
「じゃあバイトしなくてもいいってこと!?
「バイトすれば平均の倍になるとも言える」
「私、瀬尾に養ってもらおうかしら……」
「いやそこまでの額じゃない」
「私もバイトすれば、ふたり合わせて十万円とか!?
「計算上はそうなるね」
「やっぱり私、瀬尾に養ってもらおう」
 あの日から、桃井は憑き物が落ちたかのように、晴れやかで穏やかな顔をしている。それでも真正面から尋ねるのが怖くて、僕は話を蒸し返していない。けれどもたとえばこんな会話の裏側に、少なくとも大学を出るまでは家にいると決めたらしい気配が、なんとなく伝わってくる。それと、どうやら本格的に勉学に取り組み始めたらしい気配も。――でも、それはやはり僕の勘違い――願望が見せる幻想に過ぎなかったことを、思わぬ人物(たち)から告げられることになる。

     *

 翌週から中間考査を控えた週末の金曜日、珍しく桃井がカフェテリアに誘うので、僕らは弁当を手に昼休みの教室を出た。「カフェテリア」と名付けられてはいるが、要するに高校の学食である。しかし、その中でも一等席と目されている中央の窓際のテーブルに、平木瑠衣と吹雪茉央が並んで僕らを待っているとなれば、話がまったく違ってくる。僕はこの二人をよく知っているような気でいたけれど、それはよく話題に上るからであり、言葉を交わすのはこれが初めてであることに気づくと同時に、情けない話だが俄かに緊張した。
「おお、これが噂に聞く瀬尾聡之かあ」
「ニュースに出た人と会うのって初めてかも」
「だねえ。それも白馬に乗った王子様だもんねえ」
「彩ちゃんがこういう趣味だったって、瑠衣ちゃん知ってた?」
「知らない、知らない。こいつは男になんて興味ないフリしてたから」
「そうだよねえ。なんかいつも白けた顔してたよねえ」
「お、瀬尾くん、もしかして君が手にしているそれは、絶滅が危惧されている幻の『ママが作ってくれた弁当』てやつ?」
「ママがお弁当作ってくれるなんて瀬尾くん幸せだなあ」
「でも瀬尾さ、男(だん)バレにしちゃあ小さくない?」
「ちょうどいいと思うよ。大迫くんとか近寄ると怖いもん」
「大迫はあれ、体も顔も

からダメだねえ」
 人口に膾炙されているイメージを大きく裏切って、深窓の令嬢なはずの平木は姉御っぽい口を利き、クールビューティなはずの吹雪は可愛らしい口を利く。ここに、淡白な感じで桃井が混ざる絵面を、僕はうまく想像しなければならないわけだ。そして、明らかに僕らはカフェテリアの視線を集めている。平木と吹雪がこのテーブルに陣取り、僕らがやってくるまでのあいだ、向かいに座ろうとする人間を追い払ってきたせいだろう。
「とはいえ、その大迫の男バレが御馳走してくれるとか」
「それってほんとなの?」
「昭和な感じでお招きしてくれるらしいよ」
「昭和な感じって?」
「女に金を払わせるのは沽券にかかわる!みたいな」
「瀬尾くん、それほんとにほんと?」
 昭和な感じなんて知らないけれど、女の子は招待すると大迫が言っているのは事実だ。
「大迫の言葉を信じるなら」
「信じてバカ見るなんてことないよね?」
「ないと思う。――でも二人、カレシいるだろう?」
「いないから話に乗ってんじゃん」
「それ絶対条件なんでしょ?」
「確かにそうだけど、う~ん……」
「なによ?」
「平木さんと吹雪さんじゃ、場が盛り上がらない」
「ちょ、それってどういう意味!?
 表現の仕方を間違えた。
「いやいや、みんな緊張してバカ騒ぎできない、て意味だよ」
「でも瀬尾くん緊張してないじゃん」
「緊張は、してます」
「てか、さっきから彩香なんで黙ってんの?」
「久しぶりに瑠衣の漫才聴けて嬉しいわ」
「これだよ! 瀬尾さあ、彩香ってのはこういうイヤらしい女だよ。小学生のときからずっとそう。ちゃんと化けの皮剥した? そこ大丈夫?」
「大丈夫、だと思うけど……」
「余計なことは言わないように」
 五寸釘を打つかのように睨みつける桃井の顔を見れば、彼女たちが本当に昔から互いによく知っているのだということがよくわかる。平木も吹雪も、やけに嬉しそうに、にやにやしながら桃井の顔を見る。こないだの桃井は、二人にカレシがいないはずはないなんて言っていたけれど、あのときは恐らく本気でこの二人に声をかける考えがなく、だから知らないフリをして見せたのだろう。……しかしそれにしても、この二人、ビックリするくらいに綺麗だなあ。
「それよりどうするの? 二人くるの? こないの?」
「私らが断ったら、彩香どこ当たるつもり?」
「あとは由惟ちゃんくらいしかいないかなあ」
「ああ、佐藤由惟が出てくるのか。それなんか悔しいな。――茉央、悔しくない?」
「う~ん、悔しくはないけど、せっかくのご馳走が逃げちゃうのは惜しいかなあ」
「だよね? じゃ、そういうことだから、瀬尾、私らで手配しといて!」
「ああ、うん……」
 平木と吹雪が去ったテーブルで食事を続けた。僕は(確かに平木が指摘した通り)母の作った弁当だが、桃井は登校途中に買ったサンドイッチとクラムチャウダーである。まあ、この景色にはもう慣れた。僕があれこれ考えても仕方がない。桃井が胸を痛めていないのだから、いい。
「どう? どっちがお好み?」
「ええ? いやあ、どっちって言われてもなあ」
「二人とも瀬尾に興味津々な感じだったじゃない?」
「桃井が一緒だからだろう?」
 曖昧な表情で、桃井はくるりと瞳を回した。なにを考えているのか読み難いときの、特有の雰囲気が漂い始める。僕は箸を止めて桃井の横顔を見た。桃井はクラムチャウダーを両手に包み、ひとつ溜め息をついてから、ゆっくりと僕に目を向けた。
「あの二人のどっちかならいいよ」
「なにが?」
「それ以外なら卒業するまで我慢してほしいな」
「なにを?」
「やっぱり順番に片付けないと無理みたい。優先が高いほうから、順番に。難しいほうから、古いほうから」
「……そうか」
「なんかバカみたいだよね。こうなるのわかってたのにさ。私、どうして瀬尾のこと誘ったりしたんだろ……」
「あのときはただ僕のことが欲しかった。そう言ったのは桃井だよ」
「まあ、そうなんだけどね」
「それと、閉塞した状況を突破するきっかけになる、とか」
「世間知らずな子供の幻想だった……はずなんだけどなあ」
「いまは僕のほうの覚悟ができてない。だから、期限を延ばしてくれないかな? この春までじゃなくて、次の秋の始まりまで」
「秋の始まり……。夏の終わり……」
 桃井がすっと椅子を寄せ、さらに顔を近づけて、声を拾われないようにした。
「そんなに私の身体って素敵?」
「延長料金ならちゃんと払う」
「それでも、私のほうはもう絶対に動かせないよ」
「僕がどう動けるかを考える」
「春休み前に瑠衣か茉央に乗り換えて、一緒に勉強して同じ東京の大学に行く。――それが瀬尾の正しい判断。ほかにちょっと思いつかないくらい、クールな選択」
「僕は桃井がいい」
「いま見たでしょう? 話したでしょう? 綺麗で明るくて裏表がなくてお金持ち、それに勉強もきちんとやる。そんな女の子、滅多に出てこないよ。いつもどこかが足りなかったり多過ぎたりするもんだよ。ねえ、瑠衣と茉央のどこが気に食わないの?」
「二人が桃井彩香ではないところ」
「……はあ。……頑是ないって言葉はこういうときに使うんだね、きっと」
 桃井が溜め息をついたとき、カフェテリアの天候が一転し、テーブルを押し退けながら跳ぶようにして、大迫が騒々しく乱入してきた。
「瀬尾! おい、瀬尾! マジであいつらくるのか!?
 大きな両手がバンッ!とテーブルを叩いたときには、すでにもう、昼食のゴミをさっと片付けた桃井は椅子を立ち、僕に背中を向けていた。
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