§07-2 10/07 完璧な防音扉の内側(2)

文字数 3,729文字

 防音扉を開けるときは必ず音を消す、火事や地震でもない限り外から扉を開けることはしない(音が漏れると困るから)、観終わったディスクはそのままプレイヤーの上に置いておく(元の場所に戻っていないと叱られる)、そして節度を守ること。――そんなルールを結城から指示されて、桃井と僕はホームシアタールームに入った。
 十月七日、よく晴れた日の午後四時だ。
 桃井が選んだのは、意外にも、デカプリオの『華麗なるギャツビー』――けれども、絢爛豪華にも耽美的な映像と、極めてエモーショナルな音楽とは、結城のホームシアターを満喫するのに、これ以上ない、ふさわしい選択だった。
 外から扉を開けることはないと言われた僕らは、最初から椅子をぴったり寄せて座った。そのうち桃井が僕の膝の上に移り、やがて向かい合わせに跨って、それでは桃井の首がねじ切れてしまうから、椅子を横向きにして、頬をくっつけるようにしながら観た。ギャツビーとデイジーのハラハラするような逢瀬に唆されて、いくどもキスを繰り返した。
 まるでスクリーンの中の世界を再現して、映画館を丸ごと貸し切りにしているような気分だった(ギャツビーならデイジーのためにそれくらいの準備をするだろう)。結城が節度を守れと言った意味がよくわかった。そして僕らは節度を保った。――翌日、後半ずっと右を向いていた僕と、同じく左を向いていた桃井は、寝違えたように首を痛めていた。
 扉を開けた僕らはよほどおかしな顔をしていたのだろう、さっと室内に入り込んだ結城はプレイヤーの上に『華麗なるギャツビー』のパッケージを見つけ、「こんなの観ちゃってよく我慢できたねえ」と言ってにやりと笑った。思わず顔を見合わせた僕と桃井は、室内での自分たちの姿を思い返してしまい、うっかり赤面させられた。
「六時半か。ちょうどいい時間だ」
「次は戦争かSFにする」
「そう言ってたのに、なんで急に変えた?」
「……ドアが閉まった瞬間に変なスイッチ入った」
「確かに危ないところだったなあ」
「私ちょっと、もう限界なんだけど……」
「今から寄れって?」
「それはダメ。……もうこの時間は。……自分でする」
 ――僕らはどうしてこんなに不自由なのだろう?
「……しょうがない。……身から出た錆。……自業自得だね」
 力なく笑った桃井は、本当に力が入らなくなっていて、よろよろと階段を下り、ふわふわと電車に乗り、途中から自分で可笑しくなってしまったらしく、駅に着くまでのあいだ、乗り換えの地下道を歩いているときも、くすくすと一人で笑っていた。

     *

 大学生と高校生の兄弟だから、いや、これといって趣味や関心を共有するでもない兄弟なので、食事を終えればいつまでもリビングでおしゃべりに興じているようなことはない。中間試験まで十日、そろそろ手をつけ始めなければいけなかった。僕はいつも学内順位の真ん中より少し上くらいにおり、廊下に貼り出される上位三十名にはずいぶん遠いところにいる。だからこれまで見もしなかったので知らなかったのだが、桃井によると、一学期の期末試験では、結城も雨野もリストに名前があったそうだ。結城の名前は入学以来ずっと載っているらしい。思いがけないようでもあり、ありそうな話でもある。いかにも結城という女の子らしい、とでも言えばいいのか。
 十時を過ぎたところで、桃井から電話がかかってきた。
「なにしてた?」
「勉強」
「え、どうして?」
「なんかね、僕もやればもう少しいけるんじゃないか、なんて思ったんだよ」
「どうして急にそんなこと思ったの?」
「結城と雨野のせいかなあ」
「あ、急になんとなく思いついたわけじゃないのね。あのふたりってさ、実は名前が並んでたんだよ。結城さんなんて毎回載ってるしね。ほんと頭の中どうなってるんだろ? ちょっと不思議じゃない?」
「僕らがそういう目で見ているから不思議に思えるのかもしれないよ」
「その『僕ら』て、どれくらいの大きさ?」
「だから、クラスとか学校とか、結城が仕方なく所属している集団」
「私たちは結城さんがどう見えるかってことまで、自分一人では決められないの?」
「それでも、僕ら一人一人の意志が見ている。それは間違いない」
「つまり私たちは世界から、私が私であることを見失わない程度に上手に浸食されている。そんな話かな?」
「一人で見るのも一人で考えるのも社会的な行為だよ。社会の存在抜きでは一人で見ることも一人で考えることもできない。一人でいても、一人のようでいて、外側に常に社会を置いている。――でも実際のところ、じゃああの二人に勉強を教えてもらおう、という話にはならないけどね」
「それはだって、別に分からなくて困ってるわけじゃないし」
「そう。それなんだよ。教科書に書いてあることは分かるんだ。でも成績はご存じの通り。結城と僕らのあいだには理解不能な橋が架かっている」
「その橋をニューロンとか呼ぶんじゃなくて?」
「我々は脳ではない」
「我々は脳だと思うけどなあ」
「脳は必要条件かもしれないけど、十分条件だとは言い切れない」
「こないだまで十分条件だって言ってなかった?」
「あれはガブリエルの議論に苛立ってたから。あの人は美人カウンセラーと話すべきだと思うな」
「どうして美人じゃないといけないの?」
「当人がカウンセラーと話すべきだなんてこれっぽっちも思ってないからさ」
「いちばん難しいのは当人に病気である事実を受け入れさせることだって言うもんね」
「だから桃井も勉強しよう」
「勉強かあ……。私さ、帰ってきてからさっきまで、ずっとオナニーしてた」
「ずっと?」
「あ、あ、ずっとって、意味違うよ! ちょっとやったあとそんな気分のままで、ご飯も食べずにベッドに寝転がってた、て意味だよ!」
「却って分かりづらいな、それ」
「……ん、……だから。――瀬尾は結城さんとのあいだに橋を架けたいの?」
「もう橋は架かったよ。僕はそう思ってるんだけど、桃井は違う?」
「瀬尾はいつまで私を『桃井』て呼ぶのかなあ」
「桃井が僕を『瀬尾』て呼ぶのをやめるまでかなあ」
「結局あの人たちまだ帰ってないんだよね。瀬尾に来てもらえばよかったよ。面倒くさいほうでやってくれるなら。正直最初は自分でやった方が確かだよなあ…とか思ってたんだけど、こういうのってお互いに学習して改善されていくものなんだね。そういう発見もなかなかいいよなあ…とか最近思ったり知って――」
 ……ふむ、やはり今日はちょっとおかしいな。熱量が妙な具合に高い。
「ねえ、ご飯は? ちゃんと食べた?」
「食べたよ。ちゃんとかどうか知らないけど」
「土曜日さ、またうちに来ない?」
「あ、土曜日は――できればうちに来てほしんです。あの人たちったら、さっそくもう遊びに出かけるみたいなので」
「じゃあ一緒に勉強しよう」
「ああ、たまにはそういうのもアリかもね」
 少しばかりギスギスしたところがあって、少しばかりちぐはぐなところもあって、桃井がけっこう不安定な女の子であることを、たぶん世界でまだ僕一人しか知らない。……このときはそう思っていた。
 そうしたほうがいいと、つまり、そのような資質を周囲に察知されないように振る舞うべきだと判断したのは、どうしてだろう。桃井の意識の話をしているのではない。長い進化の果てに立っている僕らの脳や身体のことだ。やはり集団から排除される危険性があるからだろうか。時間の経過とともに友達の数も減ってきたし、接触する頻度も時間も減ってきたと、桃井は言う。彼女の脳や身体のなんらかの働きが、それを減らすよう唆してきた。二十一世紀に生きる僕らは、自らの行動選択をそのように解釈しなければならない。
 論理的であること、もしくは社会生活にとって合理的であることが、僕らの行動選択において顧慮されるのはほんの僅かだ。論理性や合理性は、体内の報酬系と仲良くなれていない。論理性や合理性がお願いしても、報酬系は聞こえないふりをする。そんなものが役に立つとは説得し切れていないからだ。単純に言ってしまえば、桃井の寂しさを埋める道具は、この世界に存在してこなかった。――さて、僕はうまくやれるだろうか?
「今日はもう勉強おしまい?」
「う~ん、どうするかなあ……」
「私の電話が邪魔しちゃった感じ?」
「そんなこともないんだけど」
「じゃあやっぱりおしまい? エッチな自撮りでも送る?」
「……それって、僕からも送るの?」
「今日はもう済ませちゃったからいい」
「済ませてなかったら送るの?」
「あれのドアップとか? ん~、写真で見るとけっこうグロいよねえ。でも瀬尾は私の写真があるときっと嬉しいんだよねえ。あそこのグロい接写とかでも。――男子ってそれだけで充分なんでしょ?」
「あ、それってあれだ、十分条件なのに必要条件じゃない、て例のひとつになる」
「なにそれ?」
 好きな女の子のエロティックな自撮り写真があれば、それで十分にマスターベーションは完遂できる。しかし、絶対にそれが欠けてはならない、というわけでもない。完璧な事例だ。もちろん、そんな十分条件を満たす例など、枚挙に暇がないだろう。電波の向こう側にいる桃井の耳に、ここで列挙してやる必要もない。
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