§04-2 9/24 君の名は…!?(2)

文字数 2,944文字

「卒業アルバム、あるよね?」
「おいおい、小学生だぜ?」
「いいから、見せて!」
 これはもしかすると、桃井が初めて見せる嫉妬の反応なのではないか? そう思うとちょっとおもしろくて、週明けに僕は、リュックに小学校の卒業アルバムを入れて登校した。持ってきたよ、と朝すぐに声をかけたところ、家で見る、と答えて、振り向いた顔をさっと前に戻した。そこに卒業アルバムがあることから目を逸らそうとするかのような振る舞いに、僕はますますおもしろくなった。
 実を言うと、僕らはまだ休日に顔を合わせたことがない。両親がいて、僕のほうには兄もいて、要するに、そこで服を脱ぐわけにはいかないからだ。そもそも桃井はまだ僕の部屋にやってきたことすらない。会ったのはすべて平日の桃井の部屋だ。休日にまで会うことを画策し始めると、好きな本やマンガを読む時間も、好きなアニメや映画を観る時間もなくなってしまう。お互いそれは、一人でしたい事柄なのだ。セックス以外の接触を鬱陶しく思うほど捻じれてはいない。ふたりでいる時間をつくることが、他のすべてを押し退けてしまうまではいかない、ただそれだけだ。
 雨野のマンションを出た足で、桃井を訪ねたのが金曜日である。さっそく藤田璃優の一件――あるいは雨野と結城の一件――を話したところ、卒業アルバムを見せろと言い出した。だから僕は週明けの月曜にアルバムをリュックに入れて登校し、放課後、やはり桃井の部屋でそれを開いたのである。
「その子、何組?」
「2組」
「……あ、これ? おお、これか。なるほどねえ」
「なにが?」
「これは美少女だわ」
「まあね」
「すくすくと美女に向けてお育ち遊ばされている、と」
「雨野の言葉を信じるならば」
「疑う理由ないでしょ。男子が女子を美少女だって言ってるんだから。――いやでもこれさ、なかなかいないよ、この完成度の高さ。私の学校にはいなかったなあ」
 思いのほかあっさりと、ページを前後に繰り始めた。言うまでもない、僕を探しているのだ。むろん簡単に見つかる。3クラスしかないし、名前も変わっていない。
 桃井はしばらく写真と実物――その間に約五年が経過している――を見比べてから、きょとんとした顔を傾げた。
「ぜんぜん変わってないんですけど、え、どういうこと?」
「う~ん、大人びた少年だったのか、子供っぽい青年なのか、どっちかだね」
「そう言えば髭も薄いでしょ?」
「髭が濃くなるのはこれからだよ」
「じゃあ、下のほうは?」
「そっちはわからない」
「部活のあとってシャワーするよね?」
「こいつの濃度を意識して見たことはないなあ」
「あ、サイズが気になっちゃうのか」
「僕がほぼ標準サイズだって憶えとくといいよ」
「いいって、なにが? いつどこでいいことがあるの?」
「ごめん。よくない状況だ、それ」
 なにを考えたのか、およそ見当はつくけれど、桃井が少し間を置いた。僕らはまだ十七歳で、将来を決めるステージにはいない。来年は必死に受験勉強をするだろうけれど、その先にも引き続き、なにを決めるでもないステージが待っている。少なくとも僕においてはそうだろう。そうなりそうな予感が――いや確信がある。
「……高校生で付き合い始めて一生とかって、あり?」
「なくはないんじゃない?」
「瀬尾のこれしか知らずに死ぬのって、ちょっとどうなのかなあ……」
「ずいぶんとまた物騒な話を……」
「そう言えば『ずとまよ』てさ、私あんまり聴いてないんだよね」
「ヨルシカとYOASOBIは流れてるな、こいつから」
 桃井の部屋にはAmazon Echoがある。
「ヨルシカは聴く、suisさんの声素敵だから。YOASOBIはついでに流れてるだけ」
「どっちの趣味だと思う?」
「結城さんじゃない? なんとなく『ずとまよ』のあの子さ、顔見せてないけど、結城さんに雰囲気似てる。小柄で可愛らしい感じ。ちょっと変な子っぽいところも」
「桃井はあんまり乗り気じゃないんだね」
「美少女に会うメリットないし。私ちょっと結城さん苦手だし……」
「藤田に嫉妬してくれないの?」
「瀬尾じゃ釣り合わないでしょ」
「僕ってけっこうモテるほうだと思うけどなあ」
「瀬尾はやめとけ、とか言われちゃってるのに?」
「それ言ったの吹雪と平木だろ? あんなトップカーストの評価なんて当てにならない」
 桃井はパタンと卒業アルバムを閉じると、するするっと制服を脱ぎ――着替えずにすぐアルバムを開いたのだ――、下着をつけたままの格好で、僕をベッドの上に押し倒し、ズボンを引き剥がしにかかった。のだが、この日は途中でふと動きを止め、僕の胸の上に顎を乗せた顔で、なにやらじっと見つめてきた。
「ほんとうにわからなかったの?」
「なにが?」
「あの子がその子だった、てこと」
「顔は全然見えなかったんだよ」
「ふ~ん……」
 しばらく思案気な様子をし、やがて手が再始動した。僕の言葉を疑ったのではなさそうだ。――跨る桃井がいつものように、少しずつ狂い始めていく様を見上げながら、僕はふと、これが藤田璃優であった可能性を考えた。桃井が僕にそんなことを考えさせたのだ、とこの際そう言っていいだろう。
 たとえば、病院か家に藤田が見舞いにきていたとしても、不思議ではない。藤田は献身的に僕の不自由を助けようとするだろう。退院後の最初の数日は、起き上がるのも、寝返りを打つのさえ、耐え兼ねるほどの痛みが走った。たとえば、起き上がろうとして痛みに顔を歪める僕に、手を差し伸べる藤田は、僕は平均よりも少しだけ体が大きいから、ふつうの女の子では密着して抱き起こすようにしなければ、助けにはならない。そんなとき、パジャマの上からでもはっきりとわかる僕の勃起を見てしまった藤田は、慌てて僕の部屋から逃げ出すだろうか? 逃げ出すことはしないまでも、恐らくはッとして、抱き起こす手が止まってしまう。ごめん…と僕は藤田に謝るだろう。僕の性格から推して、たぶんそうだ。藤田はやや引き攣った表情のまま、それでも笑みをつくろうとし、気にしないでくれと言うように、首を左右に振る。――で、その先は?
 なるほど未来には、想像できる未来と、想像できない未来とがある。起きてしまった過去と、起こらなかった過去とがある。そんな中でも確かなのは、いま、僕の上で桃井が狂っていることだけだ。僕が同調し始めれば、桃井はさらに狂う。咆哮とともに、終わらない痙攣を求め続ける。僕が終えない限り、桃井は狂い続ける。
 やはり、桃井も結城のホームシアターに連れて行かなければいけない。藤田璃優がいるすぐそばで、ホームシアターの薄暗がりの中で、桃井をイジメてやろう。前に雨野と結城を座らせて、後ろの中央に僕、左手に藤田璃優を置き、右手で桃井にイジワルをしてやろう。ACAねの唄声が桃井の吐息を掻き消してくれるだろう。ドラムやベースの振動が桃井の痙攣を相殺してくれるだろう。すぐそこに藤田璃優がいることで、桃井は密やかな狂気の底へと降りて行くのだ……。
 僕は結城のホームシアターを訪ねるための、藤田璃優と顔を合わせるための、積極的な動機を見つけ出した。バカバカしい、とは思わなかった。桃井がどうしてそんなふうに、そんなことで狂うのかも、僕は考えようとはしなかった。
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