§08-1 10/09 ふたたび週末に屈曲する(1)

文字数 5,002文字

 実は桃井の両親が不在なのだとは、さすがにちょっと言えなかった。こっそり兄に相談したところ、それは言わなくていいやつだろ、との賛同も得た。高校生ともなれば、親どうしがお泊まりの際の約束事やアレルギーの有無やらを確認し、お世話になります…などと事前に連絡を取り合う話でもない。どうせ勉強なんかするはずもないと予想した僕は、日中を試験対策に割り当てて、日が暮れる前に桃井のマンションを訪ねた。
 この予想は、「今週でよかった、来週だったら生理と重なってたかも…」との桃井の呟きによって、見事に言い当てられた。公立進学校に通う生徒なのだから、できれば「来週だったら試験の直前だった…」みたいな言葉が口をついて出るべきところだろう(せっかく両親が不在になる週末ではあるものの、生理と重なってしまう事態ではなく、試験の間近である不運を嘆こうよ、という話だ)。生活指導面からも、進路指導面からも、教師たちが知れば嘆息するに違いない。
 しかし現状、桃井がこのようであることは、恐らく教師たちも気がついていない。表向き目立った言動はなく、際立った成績も上げておらず、品行

方正であるのは僕の前に限られている。僕も同じようなものだから、僕と付き合い始めたことによっても、桃井を見る周囲の目は変わっていない。大迫のような一部の男子が、盲点だった…と少しばかり悔しがったくらいのものだ。
 お互い料理の心得など皆無に近いから、晩飯はコンビニで弁当を買って済ませた。初めて一緒に風呂に入り、初めて女が髪を洗う様子を間近に見た。桃井は特段長く伸ばしてはいないのだが、一般に女の風呂が長くなる要因の一端を垣間見る思いがした。
 いつまたこんな機会がやってくるか約束されていないので、せっかくだからバスタブに湯を張ってみた。しかし湯につかった状態でコトに及べば、のぼせ上がって昏倒するのではないか? そうしたリスクの存在は容易に想像できた。
「きっと体温より上げちゃいけないんだな」
「外気に当たるようにすればいいんじゃない?」
「ああ、確かに露天風呂という設定はよくある」
「設定、て?」
「或る特定の用途に供されるべく制作された映像作品の話」
「ふつうにAVって言えばいいのに」
「嘘でもAVなんて見たことないよ!て言い張るべきなのでは?」
「――だから! ここじゃしないほうがいいって言ったの瀬尾でしょ!」
「目の前にこんな素敵なものが浸かってたら、手が出ないほうが怪しい」
「だったら早く出ようよ」
「なんだかそれも惜しいような気がするんだよなあ」
 手の届くところに、すでに腕の中に、好きな女が全裸で湯に浸かっているというのに、なんの試練だか見当もつかないが、なにもしないでいられるわけがない。――とは言え僕らは、ひとまずバスタブからは出ることにした。けれどもバスルームからはしばらく出なかった。バスタオルを使う時間が惜しい気分だった。
 じゃ、少し勉強しよ――と、バスルームを出てバスタオルを使い、新しい服を着た桃井が口にして、リビングに移るとテーブルに座ったものだから、僕は唖然とした。「昼間なにしてたの?」「今夜なにするか想像してた」「ずっと?」「想像するだけでけっこうイケた」「それはそうだろうけど……」「勉強するのも計画の内なんだよ」「ほかにどんな計画がある?」「ほかはエッチなことしかない」「そうか、うん、わかった。じゃあ、ひとまず勉強しようか」
 僕も念のため教科書とノートを――まさか本当に開くことになるとは思っていなかったけれど――持って出てはいた。ふたりとも文系であり、履修科目は重なっている。桃井が世界史をやりたいと言うので、反対する理由もなく同意した。
 2千年紀の前半が面倒くさい。唐とローマが滅び、モンゴルが猛威を振ったあと、大航海時代を迎えた絶対王政の西欧が中世を脱し、イスラムの大帝国オスマンをじりじりと退けていきながら、世界の覇権を目指す――とは言え中国だけは飛び抜けて古いものだから、この時代にはすでに中世は終わっており、近世に分類されるのだとか。
 3LDKのマンションに、桃井と僕しかいない夜。けれども、これはかりそめの、借り物の時間だ。桃井がそのような気分を強く持っているからばかりでなく、ふつうの十七歳である僕らの世界には、どこに行っても僕らのものだと胸を張れる場所がない。中学生までは居場所があった。だから反発という非常に分かり易い、ベクトルが逆向きの行動がとれる。しかし高校生になると完全に居場所を失い、逆向きのベクトルを立てられない。僕らは糸の切れた凧であり、舵と帆を損傷した船であり、自力ではどこにも行けない。
 主のいないマンションという空間は、そんな気分を強めるものらしい。両親のことを「あの人たち」と呼ぶような桃井が、夜が更けていくとともに、酷く寂しがった。常夜灯の薄明かりの中で、僕を求めるようになったいきさつをしゃべり始めた。僕が男たちに絡まれて困っている女の子を――今では同じ小学校に通っていた藤田璃優であったことが判明している――意図せず助けてしまった結果、重傷を負った〈白馬の棋士〉として二学期に登校してきたから……ではなかった。もっとずっと分かり難いやつだった。
「そういうシナリオを書いたわけ、四年前に。中一の冬に」
「うん、そっか。――そんなシナリオが書きたくなるような気分だった、てところは理解できなくもない。想像は難しいけど」
「待ってたのよ、私は。あれがなにを意味するのかを知ってから、ずっと待ってた」
「独り立ちのサインみたいな感じ?」
「うん、それ。だからそのときから、喩えてみれば駆け落ちする相手を探し始めたんだけど、これだ!て人がなかなか現れなくて」
「そこに僕が登場する」
「そう。満を持してね」
「これだ!て思ったんだね?」
「うん、思った」
「僕の、どこに?」
「わかんない」
「え、わかんないの?」
「わかんないよ、そんなの。――あれ? なんかおかしい?」
「いや、まあ、説明できるものじゃない、て言われれば、そんな気もするけど……」
「さすがに駆け落ちは迫らないけどね」
「迫られても、数日ネカフェで過ごしておしまいだろう」
 虐待も、ネグレクトも、一切なかった。彼らは彼らなりに考え、精いっぱい、彼らができることをしていた。けれども、彼らが考えること、そして彼らにできることは、私たちが期待することとマッチした試しがない。だから桃井の兄は中国地方にある国立大学を選び、もっぱら西日本を商圏とする企業に就職した。学生の時は年に一度くらい、休み期間中に友達と会う約束のついでに、空いた時間があれば。就職した後は、仕事で東京にやってきたとき、兄と両親の予定がお互いに、たまたま上手いこと空いていれば。――つまり、事前に連絡を取るようなことはなく、桃井の兄は高校を卒業して以降、この家への訪問を目的に上京したことが、これまで一度もない。
 桃井も同じ選択をする考えでいると、この夜、そこまでの具体性を持った計画を、僕は初めて聞かされた。両親とはすでに話がついており、三月に年度末考査が終わったら、修了式には出席せず、大学巡りに出る。ひとつの街に三日ばかり滞在し、四年間の暮らしを想像して歩く。候補となる大学・街が今のところ六つあり、だから、修了式に出ていては回り切れない。そのとき、隣りを歩いてくれる男の子を、ずっと探してきた。初経を迎え、生物学的には成人(成虫に対応する概念として)の仲間入りをしても、やはりこの時点(高校生が進学先を具体的に考える時期)までは待たなければならない。中学生ともなれば、それくらいはすぐに理解する。そして生憎なことに、少なくとも大学進学の段階で、僕のほうに家を出る考えなどなかった。
 そんなことは、むろん桃井にもわかっているはずだ。
「なんにせよ、僕ではなかったという結論になる」
「ううん、瀬尾で間違ってはいないと思う。だってこれが百年前の出来事なら、私はすんなりお嫁さんになれるわけだから。そうでしょ?」
「今だってお嫁さんにはなれるだろう?」
「なれないよ。だって十八の瀬尾は私をこの家から連れ出せない。そもそも十八の私がこの家から正しく連れ出してもらえるなんて、現代ではまったく望み薄なわけだし」
「だから、僕じゃなかったんだよね?」
「ああ、どう言えばいいんだろう……。えっとさ、ほら、『スマホ脳』みたいな議論があるじゃない? 進化が進歩に置いてかれるっていう、お馴染みのやつ」
「生物と文明が乖離していくって話ね」
「そう、そう。私は生物として正しく瀬尾を見つけたんだと思うの。瀬尾はバレー部だけど臭くない。いい匂いがする」
「僕は体育会系じゃないって言ったのは、そういう意味だったのか」
「ところが文明のほうがね、始まって以来ずっと世界をおかしくしてきたからさ、生物としての判断が空振りするわけ。自然の時間では蘇らないところまで森を伐っちゃうとか、プッシュ通知が気になって仕事も勉強も手につかないだとか、こういうのってぜんぶ同じ議論じゃない?」
「今この時点での生物学的欲動が、文明からの要請と真っ向から対立する」
「初めて一緒に病院行ったとき、私もう建物の陰でもどこでもいいから、とにかく瀬尾としたくてどうしようもなかった。教室ではいっつも真後ろから匂うし、振り返っておしゃべりすればもっと匂うし、教室を出て一緒に歩いたら、もう眩暈がするくらい。あのときは、だから、うちは遅くまで親が帰ってこない家だから、助かったんだよ」
「僕らがふたりとも高卒で就職して、慎ましやかな家庭を持つという選択肢は?」
「現実的じゃない。そういう人たちがいるのは知ってるけど、私たちは違う。そうではない人間として生まれ、育てられてきた。それに瀬尾さ、その選択肢って、ひとまず問題を俯瞰して網羅的に潰してみよう、て発想から出てきてるよね? 実際に高卒で就職する考えなんてないでしょう?」
「僕は今、そうしなければ桃井を失うって言われてるんだから、ゼロではないよ」
「ううん、ゼロだよ。絶対に選ばれない候補はカウントしちゃダメ。判断すべき問題は、最初っからひとつしかないの。――私たちに遠距離恋愛が耐えられるか、否か」
 そう断言すると、真面目な顔をして天井を見上げた。その瞬間、桃井の話はすべて真実だったのだと、疑っていたわけでも、話半分に聴いていたわけでもなかったはずなのに、今さらながら、驚きとともに悟った。これは思春期の女の子の物語ではなく、そのような分かり易い分類に納めてしまってはいけないやつだった。
 はっきり言ってしまえば、僕は腰が引けた。巻き込まれたくないと思った。僕はもっとのんきに、気ままに人生を送りたい。桃井の第六感だかなんだか知らないけれど、そんなわけのわからない直感に絡め捕られ、桃井の身体を愉しんできたこの数週間の情景が、俄かに艶を失って見えた。僕はまだ、あの藤田璃優に出くわしてしまった不運な出来事の、言わば延長線上に立っているように感じた。
「要するに、毎日はできなくなる」
「毎日どころか、月一くらいかもよ?」
「でも毎日するようになって、まだ一ヶ月も経ってないんだよな」
「ん?」
「僕には半年相手がいなかったし、桃井はそもそも初めてだったし」
「んん?」
「特異な数週間を過ごしているのだとも言えるわけさ」
「言えないよ! それって今夜を最後にこの先しばらく相手がいないみたいな状況が続いたときに思うことでしょ? このときを振り返ってふと感慨深げに思い出すみたいな話でしょ? 連続してる中の一部を指してるわけでしょ? それって……」
 桃井も自分が言っていることの奇異な側面に気がついたらしい。
「……そっか。……これって私の話か」
 憑き物が剥がれ落ちたかのように、がばッと起き上がっていた身体をふたたびベッドの上に投げ出した桃井は、今度はぼんやりとした顔つきに変わり、やはりまた天井を見上げた。それでも僕が首筋にキスをすると、拒絶するでもなく、黙殺するでもなく、僕の首に腕を回し、僕の頭を抱き寄せて、それはもしかすると反射的で習慣的な動作なのかもしれなかったけれど、貪欲に快楽を求めるいつもの桃井へと、静かにゆっくりと移行していった。頭の中ではなにか別のことに捕らわれているような様子でもなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み