§03-2 9/20 瀬尾、部活やめるってさ(2)

文字数 3,894文字

「そう言えばさあ――」
 ベッドの上で仰向けになっているところに、声が下のほうから届く。
「部活女子巡り、結局やってないね」
「ああ、そうだった」
「もうどうでもよくなっちゃった?」
「そんなこともないけど……」
「でも校内だったら瀬尾のこと見えちゃうし、見えちゃうのになにも言わないでいるのってさ、やっぱりちょっと考えられないよね」
 生理がきてしまった…と悲痛な面持ちで呟いておきながら、それでもいつも通りに僕を部屋に引っ張り上げ、一度は僕のために出してくれたあと、頬を腰骨のあたりに据え置いたまま、可愛らしく形容すれば子猫がおもちゃと戯れるように――実際の景色を見ればそのような連想は吹き飛ぶわけだが――飽きずに撫でたり舐めたりを続けている。――もちろん、桃井のほかに、現状そんなことをする女の子はいない。
「ああ、でも犯人捕まってないしねえ。ほら、もともと犯人と顔見知りだったとかさ。逆に言いにくくなってる可能性もあるなあ」
 当人は帰宅してすぐに制服を脱いだあと、胸は僕に触らせてあげようと配慮して(僕に触ってもらおうと期待して?)、上半身は裸のままである。だから僕の右腕はまっすぐに降りて、大きな乳首(左胸)をずっといじくっている。左右を変えなくてもいいのか?と尋ねたところ、左のほうが気持ちいいからいいのだそうだ。左右に違いがあるとは初耳である。今後は意識して左側に配慮すべく心がけよう。
「今でも同じ道使ってる?」
「使ってるよ」
「それって怖いと思ったりしない?」
「よくニュースでさ、事故や事件があった近隣の人にインタビューするだろう? そうすると決まってみんな、怖くて近寄りたくないとか言うわけだよ。でもしばらくその周辺て警察が頻繁に顔出すだろうし、関係者がみんな強く意識しているからさ、実はいちばん安全な場所になるんだよね」
「確かにそうだ。犯人が同じ道うろうろするとか、それでまた瀬尾に殴りかかるとか、いちばんあり得ない話かも。――あ、そうなると女の子は?」
「もしあの子がいつもあの道を使っていて、僕が怪我したことまで知っているのだとすれば、いまはルートを変えていると思う。第三者の出来事ではないし、僕を知っているわけだし」
「そうだね。あそこ通ったら瀬尾に会っちゃうかもしれないからね。会いたくないなら迂回するね。実際たぶん会いたくないんだよね。ここまで登場してきてないってことはさ」
「あるいはすでに登場しているのかもしれない」
「どこに?」
「ここに」
 と、忙しくないほうの左手で真下を、つまりは、いま僕らが寝そべっているベッドの上を指さした。一瞬ポカンとした桃井だったが、すぐに僕の言わんとするところを理解し、これと言って慌てた様子もなく、ゆっくりと首を左右に振った。
「私が

を可愛がってるのは、せめてもの償いだってこと?」
「やっぱり違ったかあ……」
「私これまで徒競走で三着にすらなったことないし、瀬尾んちの駅に降りたこと一度もないし、ほかにもプロファイルとマッチするところなんてひとつもないよ」
「ごめん。――ちょっとタイミングよかったからさ、可能性を消しておきたかった」
「ああ、タイミングね。タイミングは計ったよ。チャンスが来た!て思ったからね。こういうのってもうタイミングひとつだから。そうでしょ?」
 そうかもしれない。日中に大迫と交わした会話を思い出す。このタイミングであったから、僕はいま桃井のベッドの上にいる。このタイミングでなかったなら、少なくとも桃井のベッドの上にはいない。まあ、自分のベッドに寝転がって、小説でも読んでいる。
「見つけたい? その子」
「う~ん、どうかなあ。……会ってもなんて言えばいいか、少なくとも僕のほうに言葉はないような気がする。あの子がなにか言って、なにをどう言うかによって、僕の態度が決まる。そんな感じ。実際そうだろう?」
「大迫は退部を思い止まらせにきたんだよね?」
 急に話題を変えるなあ……。
「昼間の大迫ね。そうじゃないよ。退部することに関して言うと――あ、なんか部活の連中が宴を開いてくれるらしいんだけど、桃井、来る?」
「なんで私?」
「招待されてるから、桃井も」
「なんで私?」
「みんなで惚気話を聞いてくれるってさ」
「瀬尾はいつもちゃんと私をイカせてくれます、とか言えばいいの?」
「それ言ったら暴動が起きて、店が滅茶苦茶になると思うよ」
「『イエロー・フラッグ』みたいに?」
「そう、そう。――あ、『BLACK LAGOON』、おもしろい?」
「おもしろい。でも、お話によって好き嫌いが激しいかな。銀次や双子の話は嫌い。ロベルタと坊ちゃんは好き。それと、ジェーンね。――彼女さ、私に似てない?」
「似てる!」
「だよね? やっぱりそうか。なんかそんな気がしたんだよねえ……」
「不満?」
「そんなことないけど、バレー部の宴には行かないかなあ。私、体育会系のノリって好きじゃないし」
「え、僕はどうなの?」
「瀬尾は体育会系じゃないよ」
「バレー部だったのに?」
「ねえ、瀬尾こそ変なこと言っちゃイヤだからね」
「言わないよ、乳首が大きいなんて」
「だから!」
「左側をいじられるほうが気持ちいいんだとか、右腋のホクロを舐めるとぴくッとするだとか……」
 オオサンショウウオのように、僕の身体の上を這い上がってきた、顔を赤らめて。どうやら桃井の、いつものおかしなスイッチが、ここでいきなり入ってしまったらしい。頬から胸からお腹までを、僕の身体にねっとりと擦りつけながら、耳元までやってきた。
「……ほかには?」
「そうだな。イク前におへその周りがひくひくするね」
「……そ、それから?」
 ようやく薄くなってきた左頬の青痣の上を、桃井の唇がいつものように這い回る。ほかには…?、それから…?と貪欲に、まるで本当に桃井の唇が、僕の左頬にできた青痣を吸い出して、そうして治癒されてきたかのように。
 僕が言葉にする、桃井の身体のちょっとした特徴や、時おりちらりと見せる表情や、刺激をすれば必ず現れる反応や、それらが今まさに桃井の上で起こっていて、桃井の身体が言葉に従って、言葉の通りに反復されていく。
 それらを僕が、本当にバレー部の連中に話すと思っているのか、桃井の身悶えるほどの恥じらいは、これまで見たことのない、感じたことのない、眩暈がするほどに艶やかで、鮮やかな煌めきの中に、僕を引き摺り込む。
「もっと、言って……」
 もっと言いたいけど、この辺にしておかないとマズくないか? だって桃井、今日は生理がきてるって言ったろう? 
 部活を辞めて、すでに実質的に辞めていて、僕はその代わりに、ほぼ毎日の放課後を、ここで桃井と過ごしている。
 桃井の両親はそろって帰宅が遅く、歳の離れた兄はすでに家を出ており、桃井はこのマンションの一室で、多くの時間を一人で過ごしてきたらしい。友達と街に出たとしても、真っ暗な部屋へのドアを開けることが多いそうだ。これまでのそんな時間を埋め合わせようとして、桃井は僕を誘うのかもしれない。
 あのときの女の子は桃井だったのではないか?と考えたのは、学校に行けるようになって間もなくの頃だ。桃井は明らかに、あからさまに、距離を縮めようとしてきた。あからさまと感じていたのは、しかし僕一人だけだったようで、周りは僕と桃井の接近に、いささか虚を衝かれたようだ。席が前後であることが目晦ましとして働いたのだろうし、大迫の言葉を繰り返すが、桃井は少なくとも男たちにとって盲点だった。
 二学期が始まってすぐの話題の中心は、転校生の雨野と、可愛いけれどちょっと変わっている結城が、夏休み中にくっついていたことだった(と、教えてくれたのは桃井だ)。僕と桃井の組み合わせは、このふたりのようにエキセントリックではない。事実、みんな虚を衝かれたとは言え、教室内で注目を浴びてはいない。改めて並べて見れば、驚くほどの組み合わせでもないことに、すぐに気づくのだろう。

     *

 僕の傷が治癒し、ふつうにしゃべり始め、間もなく顔の青痣も消えてしまうと、僕が纏って登場した非日常感もまた、急速に薄れた。犯人は未だに捕まっていない。あのときの女の子も誰だったのかわからない。そんなことを気にかけているのは、当事者である僕以外には、恐らくもう桃井しかいなくなった。……と、思っていたのだが。
 体育の授業中を選んだのは、そこに桃井がいないからだろう。
「振り返らずに聞いて」
 誰か座ったな…と感じた瞬間に、左斜め後ろから、そう囁かれた。校庭の隅、木陰の下だ。秋分の翌日に都内の気温が三十℃を超え、授業は走り幅跳びで、順番を木陰で待つように告げたのは体育教師だった。複数名の熱中症生徒が出ればニュースになる。
「君の事件のことでちょっと話したいんだ。二人きりで、誰にも知られずに」

には、桃井も該当する」
「少なくとも最初だけはね。その後どうするかは瀬尾くんの判断に任せるよ」
「わかった。で、どうすればいい?」
「学校に残るか、互いの家を訪ねるか」
「雨野はどこに住んでる?」
「ここから歩いて行けるよ」
「じゃあ、歩こう」
 僕の周辺でもっとも東京に不案内であるはずの雨野久秀が、迷宮入りしかけている事件に関わる情報を持って現れる。この世界の不思議のひとつだろう。雨野とは言葉を交わしたのすら、これが初めてだ。
 桃井にも知られたくないということは、彼女にとってショッキングな内容だからか。あのときの女の子に関わる話と考えるべきだろう。恋人の耳には入れたくない人物? あれが元カノの彼女ならさすがにわかるよな。
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