§05-2 9/29 ホームシアターの黄昏(2)

文字数 2,476文字

 翌日、桃井が欠席した。今朝、起きてすぐに送ったメッセージにも、登校時に既読はついたが、お腹が痛い…としか返信は届いていない。一時限目が終わったところで雨野がやってきた。少し困ったようでいて、なにごとか考えているようでもある、そんな顔だ。元からそんな顔つきなのかもしれない。
「桃井さんは呼ぶべきではなかった?」
「今のこの状況だけを取ってみればね」
「ずいぶん冷静なんだな」
「あのあと、藤田は?」
「結城さんとお茶してから帰ったらしいよ」
「ならよかった。――桃井のところには帰りに寄る」
「うん、それがいいね」
 そんなふうに、困ったちゃん扱いされてきた結城夏耶のカレシとして周囲を驚かせたばかりの雨野久秀が、桃井彩香がいい女であることを衆目に気づかせたばかりの瀬尾聡之に話しかけた情景は、少しばかり注意を惹いたらしい。翌、金曜日も続けて桃井が欠席し、ふたたび雨野が僕に話しかけてきたことで、ささやかだった注意が強い興味関心へと引き上げられた。が、どうせ週末に僕らのことを考える人間などいない。
 その前に、木曜の放課後の話が先だ。
 桃井のインターフォンは、桃井の声で、思いがけず一度目で応答した。応答がない可能性まで想像していた僕は、ちょっと慌ててしまい、第一声に躓いた。桃井は僕だと聞くと、鍵を開けておくからそのまま上がってきてほしい、と言った。意味がつかめないながらもマンションに入り、言われた通り黙って玄関ドアを開け、桃井の部屋に入ろうとすると、ベッドの上から両手を突き出して、それ以上の侵入を僕に禁じた。
「風邪?」
「わかんないけど、お腹下しちゃって酷いから、近寄らないでほしい」
「ああ……」
「あと、帰るとき洗面所でちゃんと手洗って。なんか移ると嫌だから」
「わかった。けど、なにか要る?」
「要らない。――ていうか、上がってきてもらっちゃダメだよね。帰りにちゃんと手洗ってほしいとか言って。私どうかしてる。ごめんね」
「そんなのはどうでもいいけど、ここで桃井をひとりにして帰るのはなあ……」
「我が家の敬愛する立派なご両親はそうしたよ」
「いや、だけどさ――」
「いま何時? 四時半か。六時半に出てったから、私もう十時間はひとりだよ。そこにもう二、三時間加えたところで、なにがどう変わるっていうの?」
 ……と、桃井は言いたかったのだろう。しかし、すべてを言い切る前に泣き崩れてしまい、その顔を僕に見られまいとして、バサッと布団を被り背を向けたのだ。そうなればもう、桃井が張った結界の手前、部屋の入り口に座り込んで待つほかにない。ただ、黙って待つのもどうかと思ったので、無粋なのは承知の上で、今日一日の授業を振り返りつつしゃべった。リュックから教科書を取り出して。
 桃井は黙って僕のおしゃべり(講義?)を聴いた。ときどき目を上げてみるのだが、本当に一ミリも動く気配がない。ということはつまり、眠ってしまったわけではない。僕の声を聴きながら、教室の情景を思い浮かべているのか、授業とはまったく関係のない何事かに想いを馳せているのか、あるいは教科書を開いて座る僕の姿をイメージしているだけなのか。
 三十分くらいかけて午前中の授業の振り返りが終わった。昼休みに大迫がやってきて、緊急事態が解除されたから早速来週末に宴をセッティングすると言われたことを伝えると、初めて桃井が反応した。こちらを振り返りはしないのだが、しかし布団の中に頭の先まですっぽり潜り込んでいるのでもないようで、力はないものの、声は鮮明に聴こえる。
「大迫って何センチ?」
「88…だったかなあ」
「あれでまだ90ないんだ。すれ違うと怖いくらいなのに」
「肩幅とかもあるからね」
「その宴、私、行ってもいいよ」
「ほんとに? みんなに冷やかされるだけだよ、きっと」
「冷やかされるの嫌?」
「嫌ではないな、正直」
「私冷やかされたことないから、ちょっとされてみたいかも」
「そう言えば、桃井は盲点だった…て大迫が何度も唸ってたなあ」
「それどういう意味?」
「僕が発見するまで桃井は誰の目にも留まっていなかったらしい」
「ずいぶん残念なお話しなんだけど。それに瀬尾が私を発見したんじゃなくて、私が瀬尾に目をつけてたんだよ。だからいちばん見えてなかったのは瀬尾だよ。私、真ん前に座ってるのにさ」
「そうか。なんか、ごめん……」
「結城さんのホームシアター、また入りたいな…て考えてたの、さっき」
 急に話題を変えるなあ……。
「だってすごい数のDVDやBlu-rayがあったよ」
「あったねえ」
「お願いしたら観せてもらえるかな?」
「なにが観たいの?」
「う~ん、なんだろ…? 『プライベートライアン』とか『ブレードランナー』とか?」
「渋いの持ってきたね。『スターウォーズ』や『ジュラシックパーク』なんかのほうが、ふつうに愉しそうじゃない?」
「私昨日さ、ちょっと嫌な子になってたよね?」
「そんなでもない」
「でもやっぱり結城さんは苦手だなあ」
「それでいいと思うよ」
「雨野くんとはお友達になりそうな感じ?」
「どうかな? そんな感じでもないかな」
「じゃあ、またあの部屋に入るのは難しいか……」
 布団にくるまったままゆっくりと、こちらに向き直った。今週は二度も、二人の女の子の泣き顔を見ている。ツイてないのは僕がいちばんかもしれない。
「来てくれてありがとう。でもやっぱり帰って」
「まだ午後の授業が残ってるけど」
「明日もたぶん休むから、明日の分も合わせて土日にやって」
「……わかった。じゃあ週末はうちにおいでよ」
「御家族がご不在だとか?」
「いや、ふつうにいると思う」
「あ、そ」
 腰を上げると、手を洗えと念押しされたので、リュックを肩に洗面所に回った。玄関のドアノブ以外、この家のどこかに触れた記憶はなかったが、言われた通り手を洗った。桃井は先ほど振り返ったままの姿勢で待っていた。近寄ってキスしたかったけれど、この部屋には今は入れない。桃井の結界は強力で、決然としており、僕は仕方なくそこで軽く手を挙げた。桃井も布団の中から手を出して、指先を小さく動かした。
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