§06-1 10/02 屈曲点な週末(1)

文字数 2,976文字

 金曜の放課後に立ち寄った際の桃井は、前日と見違えるくらいに顔色が良くなっていた。それでも僕を部屋に入れてはくれなかったし、講義の続きもさせてくれなかった。明日、僕の家に行くから、地下鉄の出口まで迎えに来てほしいと言って、すぐに僕を追い返した。桃井は金曜日も早朝から深夜までの一日、あの部屋に一人でいたらしい。
「カノジョ? そんなのいつできた?」
「三週前くらい」
「三週前っておまえ、まだ死んでなかったっけ?」
「蘇りつつあったところ」
「あ、そんときの看護婦さんとか?」
「まさか、クラスの女の子だよ」
「おまえ年上に強いからさ」
 九時過ぎに兄と二人で朝食をとった。たまたま起き出す時間が重なっただけだ。大学生の兄とは四つ歳の差がある。お互い成績を引き比べられて嫌な思いをするほど能力に違いがなく、二年後、兄が通っている大学に僕が通う可能性も充分にある。ただし、要領のいい兄は、上手いこと推薦枠を手に入れた。僕の今の成績では届かない。
「どっか出かけるんだろ?」
「う~ん、たぶんずっと部屋にいるんじゃないかな」
「いやだっておまえ、ここじゃ難しいぜ?」
「わかってる。でもなんかそんな気がする」
 兄はへらへらした感じで首を振りながら、トーストを載せていた皿を洗い、コーヒーが残っているマグカップを手に、自室に消えた。ダイニングテーブルに残された僕は、うちの親はなにをしているのだろう…?と考えつつ、耳を澄ましてみた。が、大きく開いたリビングの窓から聴こえる静かな休日の音のほか、人の気配はまったくしない。しばらく考えて、そう言えば週末にお墓参りに行ってくると言っていたのを思い出した。先週は忙しくてお彼岸を過ぎてしまった…とかなんとか、母がそんなことを呟いたのだ。
 お墓参りといっても、大船だか藤沢だかあの辺りの話であり、泊まりがけにはならない。それと、父方の祖母のところにも寄るはずである。朝から出かけたのであれば、午後もさほど遅くならずに帰ってくるだろう。あるいは母はそのままふらりと買い物にでも向かい、父が一人で先に帰ってくるかもしれない。ここで桃井と顔を合わせるとしたら、母と父とどちらのほうが面倒くさい感じになるか…などと想像し始めたところに、その桃井からメッセージが届いた。これから地下鉄に乗り込む、と。
 鍵とスマホだけをポケットにふらりと家を出た。この家は父方の祖父母が建てた家であり、しかし祖父は早くに亡くなって(僕が小学生の時だ)、祖母は今、それこそ大船か藤沢の、窓から海の見えるホームに暮らしている。つまり、祖父の墓のすぐ近くに、それも自分でそう決めて移り住んだ。
 ……と、ここまでなら、よくできたお話しのように聞こえるけれど、冷静に考えてみれば、そんなに簡単ではないはずである。祖母には病気も痴呆もなかった。少なくとも僕は聴かされていない。父には妹(僕の叔母)がいて今も近くに住んでいるのだが、当時、父と叔母がよく口喧嘩をしていた記憶がある。恐らくあれは祖母(彼らの母親)のことだったのだろうと思うのだが、誰かに尋ねたことはない。尋ねても嫌な顔はされないような気もするのだが。
 僕の視界が地下鉄の入口を捉えたとき、ちょうど桃井のほうも階段を上がってきた。
「ぴったりだねえ」
「毎日歩いてる路だからなあ」
「なにか買ってく?」
「あ、財布忘れた。いや、スマホに残高、あったような……」
「いいよ、別に。お見舞いかなんか知らないけど、今月お小遣い倍増してるから」
「そんなことあるの?」
「まったく全然これっぽっちも気にかけてないってわけでもないんだよ、あの人たちも」
「そっか」
「ただね、その表現のし方がね、お小遣い倍にするとか、そんなのしか思いつかないの」
「なるほど。――あ、そう言えば夕方まで親いないから、今日うち」
「へっ…?」
「兄貴が気を使ってくれるかまではなんとも言えないけど――」
 それについては初めから期待していないというふうに、首を横に振りながら歩き出した先の路地から、兄がひょっこりと顔を出した。桃井とはまだ面識がない。だから、ビックリして思わず足を止めた僕に引っ張られ、つまり僕らは手をつないでいたので、桃井が躓きそうになった。兄はなんでもなさそうな様子で歩み寄ってくる。
「おまえ鍵持ってる?」
「あ、うん……」
「こんにちは。――聡之の兄です」
 慌てて手を離し、桃井が弾かれたように直立不動になった。
「は、はじめまして! 桃井と申します!」
「元気いいね。桃井さんか。いい苗字だね。――じゃ、俺はこれで」
「どこ行くの?」
「それ聞いてどうすんだよ」
 ……笑われた。確かに、兄の行き先を聞いてどうする?
 隣りの桃井はいくらか呆然とした様子で立ち尽くしたままに、地下鉄に降りて姿を消した兄の残像を見つめている。視界を遮るように僕が首を突き出すと、びくりとしてから、へらへらっと可愛らしく笑った。……桃井、やっぱり可愛いな。
「お兄さんのほうはあんまり大きくないんだね」
 桃井はなんらか兄に言及しなければいけない場面だと考えて捻り出したのだろう。
「うちの親族に大きな人はいない。俺がたぶんいちばんデカい。それでも大迫には10センチも足りないんだから、どうしようもないよな」
 そんなことを話しながら歩き出した僕らだったが、今ちょうど兄が出てきた――その前に僕が出てきた路地への入口で、またすぐに、今度は桃井のほうが足を止めた。
「瀬尾が立ってたのって、この街灯の下?」
 言われて見上げると、日中だからなんの役にも立っていない――日中もなんらか役に立っているのだろうか?――問題の街灯が電柱から首を突き出していた。
「ああ、これだね」
「ちょっとここ立ってて」
 そう言うと桃井は路地の先へ、五メートルばかり行って振り返った。
「この辺?」
「もうちょっと向こうかな」
「……この辺?」
「まあ、だいたいそれくらい」
 桃井は界隈の様子を検分するかのようにぐるりと首を回し、身体も一緒に一回転させてから、まっすぐ僕に向き直った。
「瀬尾くん!」
 これってどっちだ? どっちが駆け寄るのが正解なんだ? いや、桃井はいま暴漢に絡まれているのだから、僕が駆け寄るのか。
 しかし、そんなふうに一瞬ためらった隙に――あのときもそうだったけれど、やはりこうしたときには躊躇ってしまうものなのか――桃井の脚が駆け出して、それは足の速い藤田璃優とは似ても似つかない走り方ではあったけれど、それでも駆けてきた勢いを体重に乗せ、思い切り僕の胸にぶつかってきた。
「私ならこっちに走ってくるのに…て、いま思ったの」
 あのときの藤田璃優を再現したのである。
「でも藤田さんは向こう側に駆け出したんでしょ?」
 片腕で後方を指し示しながら、桃井が至近距離で見上げる。
「瀬尾の名前呼んだのにね」
 小さく首を捻ってから、すっと僕の手を取った。僕の家に向かう路を、桃井に引かれるように歩き出す。――藤田は自分の家がある方に駆け出したんだよ、とは言わなかった。藤田にとって僕は、少なくともあの時点では、数年ぶりに顔を見た同級生に過ぎず、胸の中に駆け込んでいくべき相手ではない。僕に助けてもらうより、自分が助かることのほうが、当然のことながら上位にくる。僕に助けてもらうという発想なんて、そもそも生じてすらいなかったろう。
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