第31話

文字数 4,319文字

 人工心肺に切り替えます。
 遮断鉗子、大動脈遮断。静かに心臓の鼓動が止まる。
 心拍停止。
「了解。それでは始めます」
 心膜切開、左心房切開、大動脈弁切除……人工弁装着。サンゼロ
「吸引急いで、その手じゃま、そうもう少し切開部分よせて……」
 ガーゼ出血量450グラム
「心筋大分もろくなってるな。縫合慎重に、そっちからも糸通して」
「ダブルで行きますか?」
「そうだな。その方が確実だろう」
「吸引します。少し出血してきていますね」
「ああ、ここが終わったら見てみる。エコーも準備しておいてくれ」
「クーパー、人工弁縫合完了」
「こちらも終わりました」
「よしそれじゃ、ちょっと覗いてみるか」
 心臓を直接触手する。「やっぱり、心筋が伸びてきている。検査時確か心拍少し落ち気味だったよな」
「ええ、そうでしたけど、後はMRIでもそんなに重篤な状態ではないはずです」
「まぁな、」と、言いながらエコー映像を見る。「内部にはさほど影響はないように思えるけど……」
「如何されます?」
「うんまぁ、血栓もないしうまく人工弁が作動して血流が安定すればこの程度だと元に戻るだろう。血管の損傷もない様だ」
「それじゃこの出血は?」
 滲むような小量な出血だった。少しづつ出血はしている。血液は人工心肺へ流れている。心臓への血流は完全に遮断されている。であれば出血はよっぽどの事がない限り起こらない。
「ふぅ―、どこだろう?」
「心膜もう少し広げてみます。クーパー」
 クーパーで心膜を切開し術野を広げる
「あれ、ここじゃないですか? 右肺静脈」
 手で右心房付近を寄せてみる
「ああ、ここかァ……よく見つけたな。弁圧の異常でここももろくなっていたんだ。ペアン、メス、ヨンゼロ。そっちからもアプローチしてくれ」
「はい、こうびきもう少し引いて、もっと大丈夫だから」
 ペアンで血管を挟み込みラチェットをかけ、もろくなって損傷しかけている血管を切除し縫い合わせる。
「よしここも終わった。少し様子を見よう」
「分かりました」
 執刀医を含め4人。そして研修医の見学を合わせ合計6人の医師がその術野の中を覗き込んでいる。後ろの研修医は台の上に揚がりその光景を目に焼き付けていた。
「出血止まっているようですね」
「そうだな。それじゃ、フローダウン……遮断解除」
 血液が心臓に戻る……流れ込む。ゆっくりと再鼓動する心拍
「心拍戻ります……」
「よし、漏れもないな。それじゃあとはよろしく頼む」
 執刀医、心臓外科部長、波村徳史(なみむらとくし)がグローブを外す。
「すごいですね、やっぱり波村部長のオペは」
「ふぅ、そうだな。私も久しぶりに一助手についたからな。やっぱり専門職は違う」
「笹山先生でもそう思うんですか?」
 閉胸しステープラーで綴じながら若手の心臓外科の医師が問いかける。
「そうだな。あの繊細な手にはかなわないかもな」
 それでもあいつの手技からくれべれば、波村医師の手技もかすんでしまうだろう。彼奴のオペはまるで詰将棋の様なものだ。
 次のうってを打つ頃にはもうすでに、そのはるか先の事を考えている。特に得意としたのが心臓のオペ。
「心臓はなぁ、ほれ見て見ろこんなに小さい。あの体全体にこの小さな心臓が全身に血液を送り出すんだ。そして構造だけを見ればいたってシンプルだ。弁によってただ四つの部屋に分かれているだけだ。だがなシンプルだからこそ繊細でもあるんだよ」
 豚の心臓丸ごと今日は特別になじみの肉屋で注文して手に入れた。
「まぁこれは豚だが構造としてはほとんど変わりはない。生きている心臓は本当は物凄く柔らかいんだ。この心臓はもうすでに死んでいる。だから硬い。オペをする心臓は柔らかい。それに心筋は弾力もある。針を通し縫い合わせるには普通の肉を縫い合わせるのとは感触が全く違う。ましてずっと負荷がかかっている状態が続けば心筋もそれに続く血管ももろくなってくる。
 一旦もろくなった個所を縫うのは至難の業だ」
 彼奴は私の目の前で、その豚の心臓を開きその構造を見やすいように裂き開く。
「俺にこの心臓の事を教えてくれた指導医は年配の人だった。昔はメスは一回使うごとに研いでいた。すぐに切れ味が落ちる。だから何本もメスを用意させていたんだってな。今じゃ刃は使い捨て、しかも電メスもある。その当時はそんなものはなかった。後はメスの切れ味と手の感触だけが頼りだった。そして開いて初めて知るその病巣の深度、とにかく開かなければ心臓はどれくらい病んでいるのか分からないという時代だったらしい。だからこそ開いたらそこに集中する、そして先の先を読み込む。どんなに注意を払っていても心臓オペは何かが潜んでいる。一つの事が終わればその次のに起こりえる事を予測しながら手を動かす。正直かなり怒鳴られたなぁ」
「嘘、あんたが怒鳴らていたなんて、想像もつかない」
「ハハハ、俺だってオペは怖いよ。それが難易度が高い心臓オペならなおさらだ。良く手が震えていたものだ。今のお前の様にな」
「そ、それは言わないで……」
「さぁて、この豚の心臓と、さっきまでお前の練習台になって戴いた鳥の胸肉、焼き肉にでもして食べよっか」
「はぁ――、またこの取り合わせ。たまには……」
 そう言いかけた私の口を彼の唇がふさぐ
「うっ……、ん、もう。いきなり何するの?」
「文句を言う奴にはお仕置きせんとな! それと食う前の軽――い運動しようぜ」
 また私にキスをして私の躰をひょいと抱き上げベットに落とし込む。
「軽――い運動ね」と私は言い流すが、彼奴は私を抱くときは物凄く激しく抱く。彼奴にとっては軽い?いやお互い精魂尽きるまで求め合う。軽い運動じゃない。そのまま二人で死んでしまってもいいくらい私達はその躰をまとわせた。

 梛木杜朗(なぎとあきら)私が愛した人。そして私が追い求める背中を持つ男。

 そして彼は何時の間にか自分を鳥かごの中にその躰を潜ませた。


 オペ後のひと時、東棟と西棟の渡りにあるガラス張りのラウンジ。
 そこでコーヒーを啜る。出来れば一本煙草も吸いたいところだが病院内は全面禁煙になっている。規則は規則……患者の手前もある、そこは少しの我慢が必要。
 そこからは小高い場所にあるこの病院からこの街が一望できる。
 今日は天気がいいようだ。でも予報では雨が降ると言っていたような気がする。
 天気予報は外れたんだろう。そう思うくらい空は綺麗な色を放っていた。
 もう一口コーヒーを口にしようとした時ピッチがなった。
「はい笹山」
「笹山先生、エマージェンシーコールです。高層マンションからの火災で多数の重軽傷者が搬入されてくるとのことです」
「分かった今行く」そう言い、ふと反対側の外の景色を目に入れると黒々とした煙が立ち上っているのが目に飛び込んできた。
「あれか……やばいな」
 飲みかけのコーヒーをごみ箱に落とし込み、救命センターへとその躰を向けさせた。
 救命に戻るとすでに第一陣の搬送者が処置台に上がっていた。
「どんな状態?」
「すでに30%ほどの熱傷です。気管も大量の煙を吸ったらしく腫れています」
「自発呼吸はあるな、酸素濃度上げてまずは低温療法だ」患者の手首にはトリアージタグが付いていた。
 すでにどこかの救命が現地でトリアージ(搬送順位順・重症度表示)しているんだろう。
 軽傷者は他の連中に任せて重傷者を優先的にこちらへ
「はい、分かりました」
 そうしている内に、また救急車が搬入口に付けられる。
 その救急車のハッチを開けると中で心臓マッサージをしている女性? 外見すすで真っ黒になっていて誰だか分からない状態だった。
「笹山先生、心停止から3分経過しているわ。急いで……」
 はぁ? 誰だろうと思った瞬間、心マしていたのは奥村優華だった。あまりの変わり様で誰だか分かんなかった。
「分かった。処置室へ急いで」
 おおきな熱傷はない様だ。だが、打撲した後は見受けられた。
「4階のベランダから飛び降りたの」そう言いながらフラット奥村優華は床にペタンと座り込んだ。
「奥村先生!」
「大丈夫。酸素マスクちょっと貸してくれる」そう言い渡されたマスクを自ら付けて大きく深呼吸をする。「はぁ――。はぁ――」
「大丈夫か優華?」
「ええ、」
 心マを続けながら処置台に移動する。いち、に、さん。ライン取ります心拍VFです。
「除細動120から」チャージ。
 離れて!
 ドクン、モニタは大きく振れてまた特有の波形に戻る。
「200に行くよ……離れて!」
 さっきより大きく感じの躰が揺れる。心拍戻りません。エコー、ジェルをたらしブローブを滑らせる。
「まずい! 心タンポナーデだろう。開くぞ!」
「今ですか?」フェローの上原卓(うえはらすぐる)が慌てたように言う。
「慌てんな上原。とりあえず心臓を動かす事が最優先」
 患者の胸の上に茶褐色の消毒液がばらまかれる。
「メス、モノポーラ……出血するぞ。輸液全開、輸血かき集めて来い」
「はい」看護師が急いで輸血パックを取りに行く。
「やっぱり……酸素濃度は?」
「もう限界です」
「分かった。一気には、いけないな」抜くぞ注射針を心膜に刺し溜まった血液を抜いていく「圧迫が取れれば心拍は上がるはずだ」
 一次的には心拍が戻る、しかしまた血液が心臓を圧迫する。
「どこだ? 出血個所は? このままだと助からん」
 狭い術野の中を凝視して出血個所を探る。そして思い立ったように
「メス。術野を最大限広げる」心膜にたまると言う事は大体は心筋が避けているか、大動脈の破裂によるものだ。
 さっきのオペを思い出す。それと同時に彼奴の……(あきら)の声が聞こえてくる。
「心臓はシンプルだが、繊細だ」
 心膜を切開すれば大量出血は免れない。まずはドレーンで心膜に溜まっている血液を少しずつ排出。その間輸血と輸液を全開。
「オペ室に、心臓外科の方に連絡を……」
「サテンスキー」サテンスキーで大動脈を軽く締める
「心拍弱いですが安定してきました」
「分かった、ガーゼパッキングをしてすぐにオペ室に移動」患者はそのままオペ室に移動され後は心臓外科の専門医に任せるしかないだろう。
 ここでは深追いはしない。
「まったくあなたってやっぱり型にはまらない人ね」
「優華、起き上がって大丈夫なのか?」
「ええ、だいぶ落ち着いたわ」と、言いながらスッと優華は意識を失って倒れた。
「……優華!」

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