第10話
文字数 3,475文字
人間にとって一番恐れられている事。それは死と言うものではないだろうか。
だが、死そのもを直視し、それを自ら受け入れた時、人は何を想いそして何を一番求めるのだろう。
多分、その答えは一人の考えではまとまらないだろう。
死とは終わりでもあり、そしてまた新たに始まる最初の儀式なのかもしれないのだから……
医師としての役目それは、病に苦しむ、痛みに苦しむ人々にその苦痛を改善できるように仕向ける作業。
そう医師はその病を治すのではなくまたその病に寄り添う事でもなく、まして……その患者に最大限に心を通わせるのが仕事ではない。
その病を治し、その傷を治すのは、本来人の持つ治癒力にゆだねられるものである。
医師はただ……その苦しみを少しでも、その命を少しでも長く保ち和らげるのが仕事だ。
医者は神でもなんでもない。医者も一人の人間であるのだから……
己を見失う。それはどんな人間でもありうることだ。
自分は正しい。
そしてその思いは自分の価値観を生み出し、前へ前へと押し出していく。
それを美徳とし、いつの間にか「己」と言う枠をはみ出し我の道を見失う。
つまり己は、我、自分の姿を見る事が出来なくなった人でもある。
常見准教授は言う
「私はね、あの時もうすでに己の姿を見る事さえできていなかったんだよ」
もう一本タバコを取り出し
「すまんなぁ」と笑みを浮かべまた煙草に火を点けた。
あの時私は自分の腕に過信しすぎていた。私が施す術に関しては常に完璧であると。
そしてまゆみ君に対してはいらぬ嫉妬心を持っていた。
今考えると私はとんでもない失態ばかりを犯していたように思える。
彼女は冷静だったよ、そして彼女は常に己の我を見失う事は無かった。
多分それは君が傍にいてくれたおかげかも知らない。
ある時彼女は言っていた。
「田辺先生は外科医としては本当にまだ始まったばかりかもしれない、
経験も知識もまだこれから積んでいかなければならない人。
でも彼には人を思いやれる心がある。
人の痛みが解る人、そして何より心の痛みが解る人。
だから本当は外科医としては向かないのかもしれない。
それでも彼は自分に向き合おうとしている。
いつも自分と言う存在に向き合いながらそして患者に向き合いながら……私にも向き合ってくれている。
だから私は自分の姿を見失わずに外科医としての職務をこなしていける」
残念なことに、それを気ずかせてくれる人はわたしの傍にはいなかったんだよ。
「常見先生、これを見てください」
MRIの画像のある部分を彼女は指さす。
「肝細胞腺腫、彼女は自宅で台に上がり箪笥 の上にあるものを取ろうとして転倒した。
その時お腹の子供をかばう様に転倒した為、骨盤を打撲、周期28週を考えると元々骨盤疲労があったのかもしれません。
それに上から物が落ちて来て胸部を打撃した。
幸い偶然にも胎児には衝撃はかからなかった。
でもその時元々発症していた肝細胞腺腫を刺激し、時間緒経過とともに出血をした」
彼女は私に臆せず言ったよ。
確かに頭部MRIには脳腫などの造影はなかった。
だとすれば妊娠時におきる貧血がその時起き台から落ちたものだと推測していた。
もし彼女の言う事が正しければ……今処置をした原因を誘発することも考えられる。
ふと術台に目を戻すと患者の下位部から液体が流れ落ちていた。
「先生、破水しています」看護師が告げる。
「母体、胎児共に心拍落ちています」
「至急産婦人科の先生にコールしてください」
「石見下君何をしようとしている」
「出産させます」
「な、何を、どうしようと言うのだね。
母体もこの状態では難しい。基本は母体優先ではないのか」
「ええ、それでもどちらも危険な状態であることは変わりありません。
例え母体優先で胎児を諦めてもこれでは母体自体持ちません。
もう、私達にやれる最善の行為はこの二つの命を助けると言う手段しかないんです」
「何故、君はそこまでこの私にそう言い切れるんだ。
私は常見だ。
それを知って言っているのかね」
「ええ、常見先生だからこそ私は言っているんです。
先生は私に症例研修のレポートの業務を率先してさせてくれました。
その症例の件数は実際にオペをして症例を重ねるよりもはるかに多くの事を私に教えてくれました。
それは先生が私に教えてくれた事と同じ事だと思っています。
例えそれが雑務であっても……」
何も言えなかったよ。
彼女は私が押し付けた雑務を全部自分の物にしていたよ。
それまで積み上げた実績全部だ。
私は頭が下がる思いだった。
確かに外科医は現場ありきだ。
メスを握る数でその技量は決まると言っても過言ではないだろう。
だが、データは外科医を四方から支えてくれるものだ。
臨床における症例をどこまで自分のものにするかでその場での瞬時な判断力とそして行動力に繋がると言う事を私は見失っていた。
その時の自分の腕だけを過信するあまりに、そして過去に行 ったいや、過去の自分に目を背けていたことをな。
多分、彼女をそこまで引き上げさせたのは君、田辺先生の存在のおかげだと思うよ。
彼女は本当に君の事を愛していた。
指導医として、同僚としてそして……心から愛する人として……
私も彼女の病気が解ってから何度も治療に専念するように言ったんだが、彼女も随分悩んでいた。
本格的に治療に入れば当然胎児への影響ははかりしえない。
いや、まだ9周目では諦めるしか方法はないことは彼女自身がよく解っていた事だ。
それでも彼女は、まゆみ君は胎児へ出来るだけ負担がかからない方法を調べ、そして自分にその方法を施していた。
そのノートすべてはまゆみ君の医師としてのキャリアを映した鏡の様なものだ。
それを全て今の君が理解できるようにまとめ記載したものだよ。
君も、いや外科医として誰しもがメスを握る回数だけをカウントしているのが今のこの外科の現状だ。
だが、彼女は腕を磨くと同時にそのデータの大切さ、
そしてただ現場に赴くだけの兵士ではなく、
人として、一人の人として外科医と言う職務についてもらいたいと言う願いを
このノートに込めて書き残したものだろう。
田辺先生、君のためにな……
だが、人の運命とは本当に儚いものだよ。
暴走した車にはねられた人を現場に居合わせた彼女が救助している時、
その車が突っ込んだ資材が彼女を襲うとは……
本当に残念だよ。
いや……私は悔しくてたまらない、
上司としてではなく一人の人として、
そして一人のただの外科医として……
その青いノートを何気なく最後までめくる……その最後のページには一言、
こう書かれていた。
「光一の最高の笑顔が見られますように……」
と。
それを見た途端、今まで流す事の出来なかった、心の中に、胸の奥深くまで侵食した悲しみが一気に溢れ出て行った。
流れ出す涙、熱く流れ落ちる頬をつたい涙が零 れ落ちた。
もうノートの字を見る事さえ、息をする事さえすべてのものがこの視界から涙でかき消されてしまった。
常見准教授はそんな俺をただ静かに自分の目の中に通していた。
俺は常見准教授の勧めで系列の市病院へ非常勤で勤務できるように計らってくれた。この大学病院の席を抜かずに。
「心の傷はどんな外科医であってもそれを縫う事は出来ない。
まして医師は病を治す術者ではない。
あくまでもその病を治すのは本人だ。
我々はその苦しみと痛みを和らげる事しか出来ないのだから……」
俺がこの病院から市病院に移るとき常見准教授が投げかけてくれた言葉だった。
まゆみが残してくれたあのノートは、
まゆみが自分の残された時間を……
いや医師としてこの俺にまゆみの想いを伝えるために書かれたものだと思う。
俺はあのノートと共に、
まゆみといつも一緒に外科医として、
救命センターに搬送されてくる患者に向き合っている。
メスを握る俺の横にはいつも……まゆみが傍についていてくれている。
だが、死そのもを直視し、それを自ら受け入れた時、人は何を想いそして何を一番求めるのだろう。
多分、その答えは一人の考えではまとまらないだろう。
死とは終わりでもあり、そしてまた新たに始まる最初の儀式なのかもしれないのだから……
医師としての役目それは、病に苦しむ、痛みに苦しむ人々にその苦痛を改善できるように仕向ける作業。
そう医師はその病を治すのではなくまたその病に寄り添う事でもなく、まして……その患者に最大限に心を通わせるのが仕事ではない。
その病を治し、その傷を治すのは、本来人の持つ治癒力にゆだねられるものである。
医師はただ……その苦しみを少しでも、その命を少しでも長く保ち和らげるのが仕事だ。
医者は神でもなんでもない。医者も一人の人間であるのだから……
己を見失う。それはどんな人間でもありうることだ。
自分は正しい。
そしてその思いは自分の価値観を生み出し、前へ前へと押し出していく。
それを美徳とし、いつの間にか「己」と言う枠をはみ出し我の道を見失う。
つまり己は、我、自分の姿を見る事が出来なくなった人でもある。
常見准教授は言う
「私はね、あの時もうすでに己の姿を見る事さえできていなかったんだよ」
もう一本タバコを取り出し
「すまんなぁ」と笑みを浮かべまた煙草に火を点けた。
あの時私は自分の腕に過信しすぎていた。私が施す術に関しては常に完璧であると。
そしてまゆみ君に対してはいらぬ嫉妬心を持っていた。
今考えると私はとんでもない失態ばかりを犯していたように思える。
彼女は冷静だったよ、そして彼女は常に己の我を見失う事は無かった。
多分それは君が傍にいてくれたおかげかも知らない。
ある時彼女は言っていた。
「田辺先生は外科医としては本当にまだ始まったばかりかもしれない、
経験も知識もまだこれから積んでいかなければならない人。
でも彼には人を思いやれる心がある。
人の痛みが解る人、そして何より心の痛みが解る人。
だから本当は外科医としては向かないのかもしれない。
それでも彼は自分に向き合おうとしている。
いつも自分と言う存在に向き合いながらそして患者に向き合いながら……私にも向き合ってくれている。
だから私は自分の姿を見失わずに外科医としての職務をこなしていける」
残念なことに、それを気ずかせてくれる人はわたしの傍にはいなかったんだよ。
「常見先生、これを見てください」
MRIの画像のある部分を彼女は指さす。
「肝細胞腺腫、彼女は自宅で台に上がり
その時お腹の子供をかばう様に転倒した為、骨盤を打撲、周期28週を考えると元々骨盤疲労があったのかもしれません。
それに上から物が落ちて来て胸部を打撃した。
幸い偶然にも胎児には衝撃はかからなかった。
でもその時元々発症していた肝細胞腺腫を刺激し、時間緒経過とともに出血をした」
彼女は私に臆せず言ったよ。
確かに頭部MRIには脳腫などの造影はなかった。
だとすれば妊娠時におきる貧血がその時起き台から落ちたものだと推測していた。
もし彼女の言う事が正しければ……今処置をした原因を誘発することも考えられる。
ふと術台に目を戻すと患者の下位部から液体が流れ落ちていた。
「先生、破水しています」看護師が告げる。
「母体、胎児共に心拍落ちています」
「至急産婦人科の先生にコールしてください」
「石見下君何をしようとしている」
「出産させます」
「な、何を、どうしようと言うのだね。
母体もこの状態では難しい。基本は母体優先ではないのか」
「ええ、それでもどちらも危険な状態であることは変わりありません。
例え母体優先で胎児を諦めてもこれでは母体自体持ちません。
もう、私達にやれる最善の行為はこの二つの命を助けると言う手段しかないんです」
「何故、君はそこまでこの私にそう言い切れるんだ。
私は常見だ。
それを知って言っているのかね」
「ええ、常見先生だからこそ私は言っているんです。
先生は私に症例研修のレポートの業務を率先してさせてくれました。
その症例の件数は実際にオペをして症例を重ねるよりもはるかに多くの事を私に教えてくれました。
それは先生が私に教えてくれた事と同じ事だと思っています。
例えそれが雑務であっても……」
何も言えなかったよ。
彼女は私が押し付けた雑務を全部自分の物にしていたよ。
それまで積み上げた実績全部だ。
私は頭が下がる思いだった。
確かに外科医は現場ありきだ。
メスを握る数でその技量は決まると言っても過言ではないだろう。
だが、データは外科医を四方から支えてくれるものだ。
臨床における症例をどこまで自分のものにするかでその場での瞬時な判断力とそして行動力に繋がると言う事を私は見失っていた。
その時の自分の腕だけを過信するあまりに、そして過去に
多分、彼女をそこまで引き上げさせたのは君、田辺先生の存在のおかげだと思うよ。
彼女は本当に君の事を愛していた。
指導医として、同僚としてそして……心から愛する人として……
私も彼女の病気が解ってから何度も治療に専念するように言ったんだが、彼女も随分悩んでいた。
本格的に治療に入れば当然胎児への影響ははかりしえない。
いや、まだ9周目では諦めるしか方法はないことは彼女自身がよく解っていた事だ。
それでも彼女は、まゆみ君は胎児へ出来るだけ負担がかからない方法を調べ、そして自分にその方法を施していた。
そのノートすべてはまゆみ君の医師としてのキャリアを映した鏡の様なものだ。
それを全て今の君が理解できるようにまとめ記載したものだよ。
君も、いや外科医として誰しもがメスを握る回数だけをカウントしているのが今のこの外科の現状だ。
だが、彼女は腕を磨くと同時にそのデータの大切さ、
そしてただ現場に赴くだけの兵士ではなく、
人として、一人の人として外科医と言う職務についてもらいたいと言う願いを
このノートに込めて書き残したものだろう。
田辺先生、君のためにな……
だが、人の運命とは本当に儚いものだよ。
暴走した車にはねられた人を現場に居合わせた彼女が救助している時、
その車が突っ込んだ資材が彼女を襲うとは……
本当に残念だよ。
いや……私は悔しくてたまらない、
上司としてではなく一人の人として、
そして一人のただの外科医として……
その青いノートを何気なく最後までめくる……その最後のページには一言、
こう書かれていた。
「光一の最高の笑顔が見られますように……」
と。
それを見た途端、今まで流す事の出来なかった、心の中に、胸の奥深くまで侵食した悲しみが一気に溢れ出て行った。
流れ出す涙、熱く流れ落ちる頬をつたい涙が
もうノートの字を見る事さえ、息をする事さえすべてのものがこの視界から涙でかき消されてしまった。
常見准教授はそんな俺をただ静かに自分の目の中に通していた。
俺は常見准教授の勧めで系列の市病院へ非常勤で勤務できるように計らってくれた。この大学病院の席を抜かずに。
「心の傷はどんな外科医であってもそれを縫う事は出来ない。
まして医師は病を治す術者ではない。
あくまでもその病を治すのは本人だ。
我々はその苦しみと痛みを和らげる事しか出来ないのだから……」
俺がこの病院から市病院に移るとき常見准教授が投げかけてくれた言葉だった。
まゆみが残してくれたあのノートは、
まゆみが自分の残された時間を……
いや医師としてこの俺にまゆみの想いを伝えるために書かれたものだと思う。
俺はあのノートと共に、
まゆみといつも一緒に外科医として、
救命センターに搬送されてくる患者に向き合っている。
メスを握る俺の横にはいつも……まゆみが傍についていてくれている。