第29話

文字数 2,805文字

 その日は朝からついてない。
 ついていないというのは、()き。何かが取り憑いている事を言うのではなく、悪い事が続いている訳でもない。
 私の言う「ついていない」は、気分が乗らないという事だ。
 そんな日はたまにある。
 そう言う日に限って救命は戦場の様に忙しくなる。

「挿管6ミリチューブ」
「瞳孔不同、バイタル急速に低下」
 16歳女性、自転車で転倒しその時胸を縁石に強く強打した、運悪くその横に立てかけていた鉄パイプが彼女の頭を直撃した。
「脳外にも連絡しておいて」

 こんな日は仕事を放り出してどこかでのんびりしていたい。
 しかし、現実はそうもいかない。
 救命のスタッフは今圧倒的に少ない。まして、当直明けのスタッフをそのまま連続勤務させるわけにはいかない。
 その日朝。更衣室で着替えをして準備を整えると出るのは「はぁ――」と言うため息ばかりだった。
 何気なく現場に向かい、何気なく「おはよう」と声を出す。しかしもうすでに処置室には患者が搬送されていた。
 昨夜の救命当直は救命から高坂智恵(たかさかともえ)1名と内科医1名そして救命フェローの笹山歩佳だった。

 夜中の3時くらいまでは何事もなく、歩佳が
「今日の夜は静かでいいですね」と、のんびりと臨床症例などの書物のページをめくっているくらい穏やかだったそうだ。
 だが、その夜の闇がだんだん明るさを取りもしそうになった頃、EC『エマージェンシー・コール』が鳴り響いた。
 その朝初めに搬送されたのは70代の男性、路上に倒れているのを通行人が発見し消防に連絡を入れた。
 搬送された時は頻脈状態、意識はなく搬送され挿管をした。検査の結果脳梗塞を併発していた。再度詳しい検査を行わなければいけないだろうが、オペ適応範囲ではなかった。
 そしてコールは鳴り続く。
 朝、朝食の準備をしていた50代の女性。突如胸を抑え苦しみ出した。
 搬送された時すでに徐脈、ショック状態だった。
 心電図のモニターは側座にVFを示す。
「除細動準備して モジュール120」
「離れて!」声をかけ
 パドルを患者の胸にあてる。ビクンとモニターは反応するがまたもとに戻った。
「モジュール200に上げて」
 再度パドルを胸にあてる。さっきよりも強い刺激を与えたためだろう。患者の体が一瞬動いた。
 そしてモニターが示す動きが大きくなった。
「ふぅ、」と一呼吸置き胸部エコーで心臓の様子を見る。ジェルを伸ばす様にグローブを滑らせ映し出される映像を見ながら
「これって心筋梗塞?」
 笹山歩佳がモニターを見ながらつぶやく。
「ああ、そうね……処置急いだほうがいいかもしれない」
 高坂智恵が言う。
「でもカテーテル・アブレーション私達じゃ出来ない」
「とにかく心臓外科に連絡は取らないと、判断と経過治療は専門医に任せた方がいいと思う」
 今できる事を最大限行う。それがこの救命と言う場でもあるのだから。
 患者は一旦、専門医が来るまでの間
 CCU (Coronary Care Unit) 心臓血管疾患集中治療室 にて管理治療を行う。

 しかし、この時間は本当に当直医師にとっては摩の時間ともいえる。
 早朝明け方、出勤してくる医師はまだ来る時間ではない。そして、運よく居残っている……と言う表現はいささか良くないが、夜遅い時間ならまだ病院に残っている専門医の先生もいる確率も高い。
 だが、この早朝時間は、本当に当直医師と看護師しかいない。
 しかもその人数も限られているし、各々各自の業務がある。
 ようやくひと段落が付き、自分の席座にり、カルテに処置内容を打ち込む。

 もうじき、日勤の先生たちがやってくる時間になる。
 今日は何事もなく過ごせると思ったけど、土壇場で駆け込みの様に患者が搬送されてきた。こんな日もある……そう思い少し安心感を持つ笹山歩佳。

 正直まだ駆け出しのフェローである歩佳にとっては、当直は不安だらけの時間だろう。
 そんな事は今日の私は考える事もなく、この何度も出るため息と付き合っていかないといけないと思うと、また「はぁ――」とため息が出る。

「脳外連絡した?」
「今連絡してるんですけど誰も出ないんです」
「まずいな、脳ヘルニアが急速に進行している。このままでは助からない」
 ここでやるしかないか
「歩佳、ここで開頭する。準備して」
 その私の声に反応するように看護師と共に動きだす彼女。
 笹山歩佳は私の妹だ。
 妹と言っても父親は違う。私の実の父親が亡くなって数年後、母は再婚をし歩佳を産んだ。そして私は今の父親とはどうしても馴染めない。
 今は実家ではなく、マンションに一人暮らしだ。
 臨床研修を終えた歩佳が何故私と同じこの救命センターにいるのか? 答えは簡単。私が惹き込んだからだ。
 外科を専攻したいという希望は以前から訊いていたし、ましてレジテントからすぐに実家の病院で働くのにも彼女自身ためらいをもっていた。まぁあんな居心地の悪い……それは私だけかもしれないが、そんな事を考えているんだったら救命で腕を磨け、救命は他の所より多くの実技を学べる。のんびりと構えてじっくりと経験を重ねるのもいいが、歩佳には多分そんな時間はないだろう。
『笹山総合病院』の跡継ぎは歩佳に向けられているのだから。
 だからこそ、歩佳は数多くの症例をその身に刻み込まさせなくてはならない。
 そうここは救命救急。あらゆる症例の患者が搬送され、治療を受ける。どんな対応をすべきかを瞬時に判断し、その対応に自信と権威を持って対応する。

 ドリルで頭骨に穴をあけ、溜まった血腫を排出させる。
「よし、脳幕に到達した。出るぞ!」
 ドリルを抜くと脳内にたまった血腫があふれ出す。
 瞳孔反射を確認する。もとに戻った……

 しかし、この患者には致命的な外傷が残されていた。

 以前バイタルは低下状態のままだった。

「バイタル復帰しません」
「もう一本ライン取って、輸量全開。胸部エコ―」
 そのエコーモニターに映し出された映像には、心臓付近に大量の出血が診られた。
「まずいな」一言漏らすと、スッと音もなく私の向かいに姿を見せたのが
 奥村優華(おくむらゆうか)だった。
 彼女は迷うことなく
「開きましょ」とすでにその手にメスを握っていた。
「大動脈からの出血だぞ、開いたら即座に大量出血でこの患者は死ぬぞ」
「そうね、でも損傷している箇所、まだ可能性があるんじゃない? だったら迷う事は無いでしょう。側面第4肋骨からのアプローチ。それでどぉ?」

「今日のあなた、ため息の日みたいね。判断いつもより鈍いわよ」

 そう彼女に言われ、やっぱり優華は私の事よく知ってるなと、内心感じながら、彼女のサポートについた。

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