第9話
文字数 3,712文字
病は気が付かないうちに取り返しが効かないほどその人を蝕んでしまう。
それに気が付いた時、もすでに手の施しようがなかったと言うとき、その時何を考えその先をどうするかはその人の意志にゆだねるべきかもしれない。
残された命、そして残された時間。
その限りあるものをどんな形で残すかは……その人次第だ。
お袋は俺に最高の笑顔だけを残して俺の前からその限りある命の火を消した。
俺が今思い出せるお袋の思い出は最後に見たあの笑顔だけ……だ。
自分の残された時間、そしてもうなす術 がない事。
何も残すことが出来ない事をお袋も解っていた。だから、あえて俺に残したのは
あの笑顔だったのかもしれない。
お袋が残してくれた笑顔、それは俺とまゆみを引き合わせてくれた。
あの笑顔があったから俺はまゆみと言うかけがえのない人と出逢えた。
そう俺にとって生涯忘れる事の出来ない人
石見下まゆみと言う人に出逢えた。
すい臓がん。
あの青いノートの最初に書かれていた文字。
そして「妊娠」と「胎児」の文字
これは何を意味しているのだろう。
次のページをめくる。
検査結果……
血液検査データのコピーがそのノートに張り付けられていた。
患者命は記載されていなかった。
その検査結果の内容には特別これと言った変化は見られなかった。
次のページをめくる。
一か月後の再度の検査結果。
ある項目ついて若干の変化はあるがこのくらいであれば要観察の対象であろう。
その下に妊娠9週目とあった。
この患者は妊婦でもあるようだ、ならばこの血液検査の結果も納得がいくのかもしれない。
常見准教授が静かに俺に語り掛ける。
「どうですかこのクランケの状態あなたはどのように考察しますか?」
俺は少し考えて、
「妊娠9週目でもあり、それに変動数値は見られますけども、これと言って何かを予測するような題材は見受けられないと思いますけども……」
「そうですか……まぁ、一般的な所見での回答でもあると思います」
常見准教授はなにを言わんとしているのだろう?
そしてまゆみはなぜこの患者の経過を別のノートにわざわざ記載させる様な事をしているのだろうか。
この担当する患者が何か特殊な症例を持っているとても言うのか……
ページを無造作に数枚めくる。
俺はその開かれたページに記載されているデータに目が留まった。
腫瘍癌マーカーの数値が上昇していた。アミラーゼによる検査数値、エラスターゼの数値が異常に高くなっていた。
常見准教授がそれとなくまた質問する。
「この数値結果からおよそ推測される病状は何でしょうかね」
「……た、多分膵臓癌、造影による所見は在りませんが」
「うむ、まずは疑うべき所見でもあるでしょう」
「一体、この患者は誰なんですか?」
医者には守秘義務と言うものがある。患者のプライバシー、つまりその患者の病状を他の第三者に漏らす事は出来ない。
だが常見准教授はそのかたくなな口を開いた。
「それは石見下君の診断カルテのレポートです」
思わず俺は耳を疑った……
まゆみの……このノートに記載されている検査結果はまゆみのものと言うのか。
では……まゆみは、まゆみはこの病に侵されていたと言うのか……膵臓癌と言う、お袋と同じ病気に。
「ちょうど彼女が亡くなる……そうですね3か月前位の事だったでしょうか。オペ中に急に気分を悪くなされてね。
その時は大事にはいたらなったんですけど、念の為検査を受けてもらったんですよ」
その時の検査で、まゆみのお腹の中に小さな命が宿っている事が解った。
そして、小さな命と共に、まゆみの体が病に侵されている事も……
常見准教授はおもむろにまた窓の傍に行き少し窓を開け煙草に火を点けた。
「田辺君、彼女は立派でしたよ。
私は彼女、まゆみ君がフェロー時代にわざと難題ばかりを彼女に押し付けていた。
正直に彼女のプライドの高さに少々、いや、気に入らなかった。
でも、彼女はその難題を根気よく一つづつ解決していった。
そのバイタリティにはさすがの私も、認めるしかなかったと言えば本音だろうな。
それに私は彼女に気づかされたんだよ。
医師として一番大切なことを……そうもう私が忘れかけていた医者であるべきことの意味を……」
口から放たれる白い煙が窓の隙間から逃げるように流れていった。
「あの頃のまゆみ君を見ていて思い出したんだよ。
若かりし頃の私のあの想いをな……」
「今回の助手は石見下君だったのか」
「常見先生、私では何か不服でも……」
「いや、そう言う訳でもないが……」
「準備は整っていますか?」
「はい、バイタル・サチュレーション安定しています」
「では、始めましょう」
昨夜緊急搬送されてきた32歳女性、胸部圧迫骨折、骨盤外傷骨折。
搬送されてすぐに処置は施された。ICUにてその後の経過を観察。
だが早朝患者の容態は急変した。
そしてこの患者の体内には小さな命も宿っていた。
初期処置時において胎児への影響度は低いと判断、MRIによる造影検査の結果では内臓その他にはその時は異常はなかった。
それでも、彼女は急変した。
VF、ハートラインモニターからは警告音がけたたましく鳴り響く。
当直の担当医がすぐさま駆け寄る。
「VFだ、除細動の準備」
除細動器がセットされ「離れて」と言う声と共にパットが患者の胸部にあてがわれる。
だが、ハートラインの波形は正常値を示さなかった。
再度モジュールを変え行う。だが反応は変わらない。
胸部エコーを取る。胸部に落とされたジェルを伸ばすかの様に巻き込みプローブを滑らせる。
その造影に映し出されたものは、内部出血……
「そ、そんな。
最初の検査の時には内臓損傷はなかったはずなんだが……」
スッと聴診器を持つ手がその胸部に触れる。
「常見先生」
「肝臓脈の破裂だ。出血によって心臓が圧迫して起きる現象だ。
開胸する、開胸セット準備しろ」
「はい」
けたたましく周辺の看護師が動き出す。
患者の胸部に赤茶色の消毒液が塗られドレープがかけられた。
「10番でいい、メス」
「はい」
外皮から押し込むようにメスが入り込む。
「輸液全開にしろ。一気に血圧下がるぞ」
メスが一定の位置に達するとそこから溜まっていた血が流れだしてきた。
「血圧70まで低下」
「よぉし、まずは応急処置だ。出血している静脈をまずはクランプする。
サテンスキー」
「はい」鉗子が手渡され、患部を慎重に挟み込みラチェットをかける。
「心拍、血圧戻りました」
「ガーゼパッキングをする。
まずは一時しのぎだ、すぐにオペ室に運ぶぞ」
患者はすぐさまオペ室に移動された。
その時のオペの助手に就いたのがまゆみだった。
常見准教授は言う。あの時自分は彼女が助手に就いた事に少し苛立ちを覚えたことを。
「あの当時私は自分の腕に絶大な自信を持っていた。
それが自分のステイタスであるというように。
いや私はどんな症例でもどんなことでも必ずやり遂げる事ができると言う自信だけが先行していた医者だったんだよ。
だから彼女を見ていると正直いい気はしなかった。
何故ならまるで自分そのものを見ているようでね。
むろん彼女も私の事を目標にしていることは十分知っていたよ。
指導医としては誇らしかったよ。」
だが、彼はつづけさまに言う。
正直、そんな彼女を見ているのが怖かった。
いずれ彼女は私などあっさりと追い抜いてしまうと言う事を私は知っていたんだよ。
こんな小娘に今まで積み重ねて来た私の栄光がもろくも消し去らてしまう事に……
オペが開始された。
緊急処置に手押し込められたガーゼを一枚づつ取り除く。
「石見下君、ガーゼが癒着してる場合があるから慎重にやってくれ」
「はい」
彼女は軽く返事をする。
彼女のその術技を見て僕は思ったよ。
外科医はその経験が何よりもものを言う。
彼女はそこらの外科医よりもその腕は繊細であってしかも的確だった。
損傷部の血管を縫合し、このオペは終わるものだと思っていたが、彼女はすでにもう次の段階を予想していたよ。
「先生、胎児心拍数落ちています」
この状況から考えて…最悪の場合母体優先の順位を選択するのは適切な事だ。それに関して彼女も意義は唱えなかった。
そして次の瞬間
「先生、母体の心拍も落ちています」
そんな馬鹿な……今施した患部を再度注意深く見る。
しかし、出血などは見られない。
だとするならば考えられることはあと何か?
石見下君は再度注意深くMRIの画像を見つめている。
「もしかして……」彼女が呟く
「常見先生、これを見てください」
それに気が付いた時、もすでに手の施しようがなかったと言うとき、その時何を考えその先をどうするかはその人の意志にゆだねるべきかもしれない。
残された命、そして残された時間。
その限りあるものをどんな形で残すかは……その人次第だ。
お袋は俺に最高の笑顔だけを残して俺の前からその限りある命の火を消した。
俺が今思い出せるお袋の思い出は最後に見たあの笑顔だけ……だ。
自分の残された時間、そしてもうなす
何も残すことが出来ない事をお袋も解っていた。だから、あえて俺に残したのは
あの笑顔だったのかもしれない。
お袋が残してくれた笑顔、それは俺とまゆみを引き合わせてくれた。
あの笑顔があったから俺はまゆみと言うかけがえのない人と出逢えた。
そう俺にとって生涯忘れる事の出来ない人
石見下まゆみと言う人に出逢えた。
すい臓がん。
あの青いノートの最初に書かれていた文字。
そして「妊娠」と「胎児」の文字
これは何を意味しているのだろう。
次のページをめくる。
検査結果……
血液検査データのコピーがそのノートに張り付けられていた。
患者命は記載されていなかった。
その検査結果の内容には特別これと言った変化は見られなかった。
次のページをめくる。
一か月後の再度の検査結果。
ある項目ついて若干の変化はあるがこのくらいであれば要観察の対象であろう。
その下に妊娠9週目とあった。
この患者は妊婦でもあるようだ、ならばこの血液検査の結果も納得がいくのかもしれない。
常見准教授が静かに俺に語り掛ける。
「どうですかこのクランケの状態あなたはどのように考察しますか?」
俺は少し考えて、
「妊娠9週目でもあり、それに変動数値は見られますけども、これと言って何かを予測するような題材は見受けられないと思いますけども……」
「そうですか……まぁ、一般的な所見での回答でもあると思います」
常見准教授はなにを言わんとしているのだろう?
そしてまゆみはなぜこの患者の経過を別のノートにわざわざ記載させる様な事をしているのだろうか。
この担当する患者が何か特殊な症例を持っているとても言うのか……
ページを無造作に数枚めくる。
俺はその開かれたページに記載されているデータに目が留まった。
腫瘍癌マーカーの数値が上昇していた。アミラーゼによる検査数値、エラスターゼの数値が異常に高くなっていた。
常見准教授がそれとなくまた質問する。
「この数値結果からおよそ推測される病状は何でしょうかね」
「……た、多分膵臓癌、造影による所見は在りませんが」
「うむ、まずは疑うべき所見でもあるでしょう」
「一体、この患者は誰なんですか?」
医者には守秘義務と言うものがある。患者のプライバシー、つまりその患者の病状を他の第三者に漏らす事は出来ない。
だが常見准教授はそのかたくなな口を開いた。
「それは石見下君の診断カルテのレポートです」
思わず俺は耳を疑った……
まゆみの……このノートに記載されている検査結果はまゆみのものと言うのか。
では……まゆみは、まゆみはこの病に侵されていたと言うのか……膵臓癌と言う、お袋と同じ病気に。
「ちょうど彼女が亡くなる……そうですね3か月前位の事だったでしょうか。オペ中に急に気分を悪くなされてね。
その時は大事にはいたらなったんですけど、念の為検査を受けてもらったんですよ」
その時の検査で、まゆみのお腹の中に小さな命が宿っている事が解った。
そして、小さな命と共に、まゆみの体が病に侵されている事も……
常見准教授はおもむろにまた窓の傍に行き少し窓を開け煙草に火を点けた。
「田辺君、彼女は立派でしたよ。
私は彼女、まゆみ君がフェロー時代にわざと難題ばかりを彼女に押し付けていた。
正直に彼女のプライドの高さに少々、いや、気に入らなかった。
でも、彼女はその難題を根気よく一つづつ解決していった。
そのバイタリティにはさすがの私も、認めるしかなかったと言えば本音だろうな。
それに私は彼女に気づかされたんだよ。
医師として一番大切なことを……そうもう私が忘れかけていた医者であるべきことの意味を……」
口から放たれる白い煙が窓の隙間から逃げるように流れていった。
「あの頃のまゆみ君を見ていて思い出したんだよ。
若かりし頃の私のあの想いをな……」
「今回の助手は石見下君だったのか」
「常見先生、私では何か不服でも……」
「いや、そう言う訳でもないが……」
「準備は整っていますか?」
「はい、バイタル・サチュレーション安定しています」
「では、始めましょう」
昨夜緊急搬送されてきた32歳女性、胸部圧迫骨折、骨盤外傷骨折。
搬送されてすぐに処置は施された。ICUにてその後の経過を観察。
だが早朝患者の容態は急変した。
そしてこの患者の体内には小さな命も宿っていた。
初期処置時において胎児への影響度は低いと判断、MRIによる造影検査の結果では内臓その他にはその時は異常はなかった。
それでも、彼女は急変した。
VF、ハートラインモニターからは警告音がけたたましく鳴り響く。
当直の担当医がすぐさま駆け寄る。
「VFだ、除細動の準備」
除細動器がセットされ「離れて」と言う声と共にパットが患者の胸部にあてがわれる。
だが、ハートラインの波形は正常値を示さなかった。
再度モジュールを変え行う。だが反応は変わらない。
胸部エコーを取る。胸部に落とされたジェルを伸ばすかの様に巻き込みプローブを滑らせる。
その造影に映し出されたものは、内部出血……
「そ、そんな。
最初の検査の時には内臓損傷はなかったはずなんだが……」
スッと聴診器を持つ手がその胸部に触れる。
「常見先生」
「肝臓脈の破裂だ。出血によって心臓が圧迫して起きる現象だ。
開胸する、開胸セット準備しろ」
「はい」
けたたましく周辺の看護師が動き出す。
患者の胸部に赤茶色の消毒液が塗られドレープがかけられた。
「10番でいい、メス」
「はい」
外皮から押し込むようにメスが入り込む。
「輸液全開にしろ。一気に血圧下がるぞ」
メスが一定の位置に達するとそこから溜まっていた血が流れだしてきた。
「血圧70まで低下」
「よぉし、まずは応急処置だ。出血している静脈をまずはクランプする。
サテンスキー」
「はい」鉗子が手渡され、患部を慎重に挟み込みラチェットをかける。
「心拍、血圧戻りました」
「ガーゼパッキングをする。
まずは一時しのぎだ、すぐにオペ室に運ぶぞ」
患者はすぐさまオペ室に移動された。
その時のオペの助手に就いたのがまゆみだった。
常見准教授は言う。あの時自分は彼女が助手に就いた事に少し苛立ちを覚えたことを。
「あの当時私は自分の腕に絶大な自信を持っていた。
それが自分のステイタスであるというように。
いや私はどんな症例でもどんなことでも必ずやり遂げる事ができると言う自信だけが先行していた医者だったんだよ。
だから彼女を見ていると正直いい気はしなかった。
何故ならまるで自分そのものを見ているようでね。
むろん彼女も私の事を目標にしていることは十分知っていたよ。
指導医としては誇らしかったよ。」
だが、彼はつづけさまに言う。
正直、そんな彼女を見ているのが怖かった。
いずれ彼女は私などあっさりと追い抜いてしまうと言う事を私は知っていたんだよ。
こんな小娘に今まで積み重ねて来た私の栄光がもろくも消し去らてしまう事に……
オペが開始された。
緊急処置に手押し込められたガーゼを一枚づつ取り除く。
「石見下君、ガーゼが癒着してる場合があるから慎重にやってくれ」
「はい」
彼女は軽く返事をする。
彼女のその術技を見て僕は思ったよ。
外科医はその経験が何よりもものを言う。
彼女はそこらの外科医よりもその腕は繊細であってしかも的確だった。
損傷部の血管を縫合し、このオペは終わるものだと思っていたが、彼女はすでにもう次の段階を予想していたよ。
「先生、胎児心拍数落ちています」
この状況から考えて…最悪の場合母体優先の順位を選択するのは適切な事だ。それに関して彼女も意義は唱えなかった。
そして次の瞬間
「先生、母体の心拍も落ちています」
そんな馬鹿な……今施した患部を再度注意深く見る。
しかし、出血などは見られない。
だとするならば考えられることはあと何か?
石見下君は再度注意深くMRIの画像を見つめている。
「もしかして……」彼女が呟く
「常見先生、これを見てください」