第35話

文字数 3,286文字

 人の命はその限りある時の間にしか輝かせない。
 どんなに強くその命を続けさせたいと願っても、終えなければいけない命。
 その残された時間をどう受け止め、そして過ごすか……安らかな時の流れの中を……

「おはようございます。大友さん」
 昨日緊急オペで胃幽門部の癌切除を行った大森霞(おおもりかすみ)さん。私の呼びかけにゆっくりとうなずいた。
 意識はしっかりしているようだ。術後の経過データにも特別問題はなかった。とりあえずは、順調と言ったところだろう。
 まだオペ後の傷の痛みはあるが麻酔コントロールによって痛みは軽減されている。だが彼女の心の中までは今は、見る事も感じる事も出来ない。
 それでも、彼女に現状の状態を告げねばならない。
「大友さん、昨日の手術で胃から出血した部分の治療は経過もいい様です。実は、胃に癌が発症していました。かなり進行していた状態でした、その癌が胃の静脈を破裂させて出血が起こりました。緊急の手術でその血管の修復と胃の幽門部と言う十二指腸との境目に近い所にあった癌も取り除来ました。落ち着けばある程度の食事は普通にできるようになるまで回復します。でも、すでに肝臓、肺にも癌は転移しているのが確認されています。昨日の手術ではその全ての癌までの対応は大友さんの体力的にも限界があった為、行っていません」
 大友さんは、私の話を目を開け天井を見つめながら聞いていた。
「術後の経過を見ながら転移した癌についての検査と、これからの治療方針を検査結果をもとに建てていく予定です」
 彼女はゆっくりとうなずく。
 そしてかすれるような声で「私、あとどれくらい生きれるんでしょう」と私に問う。
「検査の結果が出ない事には今は何ともお答えしかねます」
「もし……何も治療をしなければ、あとどれくらいなんでしょう……」
 大友さんの目は私の目を見つめていた。
「……何も治療を施さなければ、おそらく……長くてあと半年……」
 告知。本人への告知だった。
「そうですか……やっぱりそうですよね。分かってたんです、私癌だって事。だいぶ前からかなり痛みがありましたし、ずっと誤魔化して来た。家族みんなにも迷惑かけっぱなしだったし。罰が当たったんですね、当然の報い何でしょうね」
「そんな事は無いですよ。ちゃんと治療をすればもっと長く生きられる可能性はあります。今まで大友さんと同じ様な方でも、もう何年も生きて生活成されている方も大勢います。希望は持ちましょう」
 大友さんは頭を左右に軽く降った。そしてふっと微笑んで
「もう、いいんです。これが私の運命なんだと思います。私はその運命を受け入れます。検査は致します。でもその……癌に、治療は致しません。残りの時間を出来ればゆっくりと過ごさせてもらえれば助かります」
 患者本人の意志……それはどんな事よりも一番重要視される事だ。
「そうですか……、今の大友さんのご意志は一応お聞きしておきます。また再度大友さんの意志を再確認させていただきたいと思います。それでよろしいでしょうか?」
 大友さんはにっこりと安らかな顔で頷いた。
 患者本人の意志の尊重
 彼女はBSC『ベストサポートケア』そしてDNR『蘇生措置拒否』の意志をした。
 今は彼女のその話を訊くだけにとどめておく。そして再度その意志が変わらない事を確認の上、BSCオーダー、DNRオーダー、への署名と捺印を彼女の意志により書面として残す。
 きわめてデリケートな部分である。
 人の命には限りがある。その限りある命が突如閉ざされると宣告された時、少しでも長く、そしてもっと長く生きたいと願う人のが当たり前の様に思える。しかし、大友さんの様に、その限りある時間を受け止め、そして自分の死と言うものに向き合う人もいるのも確かな事だ。
「大友さん、何かお望みの事がありましたらどうぞ遠慮なく申し上げてください」
「ありがとうございます」彼女はそう一言言い返した。

 自分のディスクにもどり「ふぅ―」とため息をして椅子に座る。
「大友さんどうだった?」優華がディスプレイの画面を見ながら言う。
「大友さん、BSCとDNRを希望してきた」
「そう、もう自分でも分かっていたのね」
「ああ、そうだった。残りの時間を安らかに過ごしたい……そんな感じだった」
「そう……その選択も患者本人の意志が尊重される。それが大友さんの望みなら、もう私達に出来る事は無いわ」
「そうだな……。もう一度再確認して、BSCオーダーとDNRオーダーの署名してもらう事になっている」
「うん、そうね」優華は表情一つ変えず返した。
「ところで上原と歩佳はどうした?」
「ああ、あの二人なら今備品庫の整理をさせているわ。まだどこになにがあるのかもよく分かっていないみたいだったか」
「そうか、ま、それもそうだな。サボってなけりゃいいだけどな」
「そこは適当に見てあげなさい。本当にちゃんとやっているかどうかは実践の時に顕著に出るもものよ」

「ああ、何で俺らがこんな備品庫の整理なんかしなきゃいけないんだよ、めんどくせぇ」
 備品リストを片手に在庫のチェックをしながら上原卓(うえはらすぐる)がぼやく。
「ぼやかないの卓、これも仕事でしょ」
「そんな事言ったって、こんな仕事看護師の仕事じゃねぇのか? 俺らは医師だぜ」
「あら、この前、言われた輸液持ってこれなかったの誰だっけ?」
「あ、あれは……だな、なかったんだよ」
「あったじゃない、仁科さんがすぐに持って来たじゃない」
 返す言葉がい卓に
「ねぇ、卓。あなたここのフェロー終了したらどうするの? 実家の病院に移るの?」
 上原卓、彼は『上原総合病院』病床およそ400症を誇る大規模病院の病院長の息子。しかもその父親は医学界においても有名な存在だ。
 そんな父親を持つ彼はその父親とはうまく折り合っていない様だ。
「さぁな、俺は親父が敷いたレールの上を走るだけの医者にはなりたくはないからな。病院の事なら俺の義理の兄貴たちがいるだろう。そいつらがやってくれるんじゃねぇ―のかな」
「そっかぁ……なんか姉さんに似ているね」
「げ、何、俺が笹山先生に似ている? 恐ろしい事言うなよ。俺はあんな野蛮な人間じゃないぜ」
「あら、そうかしら?」と軽く歩佳は笑い流した。
「それはそうと、歩佳、お前はどうするんだよ」
「私? 私は……まだ分かんない。でも理事長のおじいさまは私を実家の病院の後継者にしたがっているみたいだけど」
「笹山先生はどうなんだ?」
「ああ、姉さん。姉さんの事はもう諦めたみたい。だって家にもほとんど寄り付かないし、私の父ともあんまりね。何だろう……姉さんて自分の家族が医者家系だから医者になったんじゃないからね。もう家の事なんか関係ない人だし、姉さんは多分追うものが違うんだよ」
「追うものが違うって、それって何だよ?」
「さぁね、私の口からは言えない。どうしても気になるんだったら本人から訊けばいいじゃない。あんたの指導医なんだもの」
「ばぁーか! そんな事怖くて聞けねぇ―よ」
 その時備品庫の扉がバンッと音をたてて開いた。
「おい、お前らコールが鳴った。今すぐ準備にとりかかれ」
 二人は声をそろえて「はい、解りました」といい、急いで処置室へと向かった。

 緊急搬送は2件。1件は高齢者、突然倒れ心停止、意識がない、心マとAED使用にて心拍は回復しただが意識レベルは低い。
 もう一軒は女子高校生、校舎の3階から飛び降りたらしい。詳細はまだ来ていない。
 そうしている時、救急車のサイレン音が聞こえて来た。すぐさま搬送口に向かい患者を迎え待つ。
 ほとんど同時に来た2台の救急車、ハッチを開け、私は女子高校生の方についた。優華は高齢の患者の方につく。
 救急車の中からストレッチャーが出てくるのと同時に看護師が耳元で
「分かりますか? 病院です」と声をかける。
 2台のストレッチャーは処置室へと運ばれた。

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