第34話

文字数 3,444文字

 人は時として自らその命を経とうとする。
 生をうけ、限るあるその期間を自ら閉ざす。
 生きたいと願う強い思いを持ちながら、この世から離れなければならない人もいる。
 彼女が救急搬送搬送されてきたのは、今からおよそ1ヶ月前のことだった。
「こちら北部救急、38歳女性、職場にて吐血。意識レベル低下……血圧100の73。受け入れ要請願います」
「分かりました受け入れます。吐血量はどのくらいですか?」
「正確には分かりませんが、量は多いです今も吐血は続いています」
「分かりました至急搬送してください」
「了解!」
 一台の救急車がサイレントを鳴らしやって来た。緊急搬入口出待つ私達に開かれたハッチから大量の血の付いたガーゼが目に映る。
大友霞(おおともかすみ)さん38歳、職場で突然吐血したそうです」
「急いで、処置室へ」
 ストレッチャーは救急車から滑るように外とに出て、そのまま処置室へと向かう。
 いち、に、さん。掛け声と共に処置台に患者を移し、クーパーで衣服を切り離す」
「大友さん聞こえますか? 服切りますね。わかりますか?」
 看護師が耳元で問いかけるが反応はなかった。
 ライン取れました。血圧低下81
「輸液全開、輸血3パック、エコー準備」
 胸部にかけて少し広範囲にジェルをたらす。そのジェルをブローブで巻き込むように伸ばし、映し出される映像を見る。
 吐血はまだ続いている。患者を横向きにし、気管に血液が逆流するのを防ぎながら胸部、そして背上部とブローブを走らせる。
「ん―、胃の静脈が破裂している。オペ室に連絡緊急オペの準備を」
「ここで止血していかないと間に合わないわよ」
 奥村優華医師が横で言う。
「そうなんだが、これ見てくれ……」
 モニターに映し出される病巣部の影。
「もしかして幽門部の癌?」
「多分な、相当進行しているようだ。この状態では局部凝固剤は使用できない。かといって内視鏡を挿入できる状態でもない。バイタルがまだ安定していない。」
「それなら静脈遮断でとりあえず出血を止めましょう」
「それしかないか……開胸セット」
 もう迷っている時間はない。「メス……」患者の躰にメスが入る。
 出血部に一番近い静脈をペアンで慎重に剥離し、挟み込みラチェットをかける。
 モニターをちらっと見て血圧が上がるのを確認する。
「とりあえず結紮をかけておくサンゼロ」血管を糸で巻き付け縛り込む
「クーパー」残った糸を切り離しペアンを解除する。
「バイタル安定してきました」
「分かった。ガーゼでパッキングしてまずはCTへ。その後血管修復と病巣部の切除まで行ければいいだが……親族は?」
「もう来ているわ。IC《インフォームドコンセント》は私が行ってくるわ。承諾書もね」
「ああ頼む。私はこのままオペに入る」
 端末にCT画像が送られてくる。その画像を見ながら
「これは……大きいな。肝転移も認められる……すでには肺にも転移していたか」
 独り言の様にその画像を眺め「ふぅ―」とため息をついた。
 準備室で手を洗い、規則通りに畳み込まれた術衣に手を通し羽織、滅菌袋の口を開けた中からグローブを手に装着する。そして術衣の袖口の上にグローブを重ね合わせる。
 患者はすでに術台の上で麻酔で眠っていた。麻酔科に目を配り
「バイタル安定、心拍71でサイナス」それを訊き、待っていた医師達に
「それではお願いいたします」と意思を統一させる。
「メス」さっき切開した部分をメスで広げ術野を広げる。
 止血した血管が浮き上がる様に見える。
 クラムシェルで切開した術野を開胸器で固定させ、肝部分を寄せながら胃幽門部を触手する。明らかに変異している感覚が手に伝わった。
「これより幽門部切開に入る。ペアン、ヨンゼロ」幽門部切開時における血管を結紮し止血をして、胃部にメスを充てる「モノポーラ」
 まずは胃壁内部の洗浄を行わなければいけない。出血部から溜まった血液が胃の内部に残っている。まだ未消化の遺物もある可能性もある。通常は絶食後胃内部に何もない状態で行うが今回は緊急オペだ、そんな下準備はしていない。
「生食、吸引……」何度も幹部を洗浄しようやく鮮明に患部が見られる様になる。
 すでに胃壁を突き抜けているのは静脈損傷している事からもわかりきっている。
 T4b、多臓器にも転移している状態。実際もうここまで来れば手遅れだ。
 こうなれば患者のQOLつまり、これからのケアを視野に入れた術式しか手はない。
「幽門部を癌がふさぎ込んでいるような状態ですね」一助手が患部を見て言う。
「ああ、そうだな、まずは幽門部の切除と静脈の修復。とりあえず食事ができるようにしてあげないといけないだろう。でもよくここまで耐えたものだ。これなら相当苦しかったに違いない」
「そうですね……」
「動脈にも巻き込んでいるから慎重に剥離してください」
「分かりました……鑷子、ガーゼ……モノポーラ」
 一助手がガーゼで胃の側面と血管部をガーゼで固定し、モノポーラで巻き込んだ癌層部を慎重に剥離していく。
「もう少し、胃壁を寄せて……」動脈を損傷させれば大量出血は免れない。そこは彼一助手の腕の見せ所だろう。そのサポートと共に執刀医である私はその様子を見守りながら、次の段階の準備に入る。
 肝臓への転移、肺への転移もある。リンパ節への臣従部位を同時に剥離しながら幽門部切除後の処置にあたる。神経管を傷つけないよう慎重に処置にあたる。
「ふう―、剥離完了」
「分かった。それでは幽門部の切除に入るクーパー、モノポーラ」
 胃の一部が切開され取り出された。
「静脈の修復はお願いします」
「分かりました。ペアン、クーパー」損傷した部分を切除し血管を繋ぎ合わせる。
「静脈の修復終わりました」
「分かった。それでは胃の接合に入る。サンゼロ」十二指腸付近から切除して短くなった部分を補うため少し押し上げ、胃壁を縫い合わせる。幸い十二指腸は温存できた。それをもとに切除した胃の再建術を行う。
 胃内装粘膜部の縫合、外装部の縫合そして内装部の縫合を掛け合わせ胃を再建させる。
「これで、落ち着けばある程度の食事はとれるようになるだろう」
 第一助手がぼそりと言う
「……あとは?」
「もう患者の体力がもたんだろう。転移部位については落ち着いてから再度検査を行いその後方針を決めた方がいいだろう。インオペ……」
 患者の今の状態を考慮すればこれ以上の深追いは患者自体に大きな負担を強いる事になる。術後のQOLを考慮することが今は先決な判断だ。
「分かりました。それでは閉じます」
 押し上げた小腸を押し込み開胸器を外す。
 クラムシェルで大きく開いた腹部を縫合糸でしっかりと縫い合わせる。
 一応のオペは終了した。だが、患者の癌を全て取り除くことは出来なかった。
 再オペになるか、それとも……オペ適応外として残りの人生をケアを行いながら送るのかは、これからの結果次第だろう。
 だが、最低限生きるために必要な処置は行った。
「もう一度……」それはない。彼奴の言葉が頭をよぎる。しかしこれ以上の深追いは無理だった。その判断をしなければいけない時、私はまた自分に一つの課題を課せるように……後ろを引かれる思いでオペを終わらせる。
 術後、大友霞(おおともかすみ)さんの親族にオペの経過を説明した。
 胃、幽門部に出来た癌を取り除き、回復すればある程度の食事は出来量になる事を告げ、最後に……すでに肝臓、肺に癌が転移している事を告げた。
 状態が落ち着いてから詳しい検査をこれから行い、その後の方針を立てなければいけない事をそれとなく告げる。
 だが、大友霞(おおともかすみ)さんの親族の反応は冷ややかなものだった。
「……そうですか」と一言言った切りあとは何も発しなかった。
 すでに彼女の日常の状態から、もう長くない事を覚っていたかのような感じだった。
 ICUに移動され、しばらくの間ここで術後の経過観察と、他臓器の癌の状態を検査することになるだろう。そして……その事実を麻酔から覚めた後本人に告げなければならない。何度も行われる治療方針と経過の報告。
 それを本人も理解しなければお互いの治療意識は低下するどころか、適切な
 方針建ては出来なくなる。
 彼女にその報告をしたのは次の日の朝だった。

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