第13話

文字数 4,343文字

「メス」

看護師が俺の手にメスを渡す。

「ほう、メルセデスですか?」

常見教授がメスの動きを見て言う

「ええ、矢の刺さっている箇所と肝臓の処置を考慮してですが」

「そうですか、いいでしょう」
常見教授は独り言のように言う。

「吸引お願いします」

「はい」理都子が溜まっている血液を吸引する。

「生食(生理食塩水)ください」
「はい」

患部を洗浄する。理都子は術野を広げながら吸引を続行させる。

CT画像に映し出されている矢が刺さっている箇所は、頭にたたき込んでいる。

さらに術野を広げ肝臓と矢の位置を確認する。

幸い矢が貫いているのは左葉だ。右葉よりは血管がしめる割合は少ない。しかし、安易に刺さっている矢を抜けば大量出血は免れない。


矢の刺さっている部分を慎重に開き側近の血管を結索する。

「モノポーラ」

かすかな白煙が上がる。

「メッツェン」
「サテンスキー」ラチェットをかける。

肝内部の状態を確かめる、そして横行結腸に目を向ける。

「しかしうまい具合に胆のうと胃をかわしていますね」

確かに、通常この位置から矢が刺されば、肝臓、胃、は確実に損傷する。しかし今回はなぜか矢は胃部を押し込むようにしてその先端が横行結腸へと届いていた。

「どういう体制で刺さったんでしょうね。それより大動脈へ行かなかったことが不幸中の幸いです」

「そうですね。しかも肝臓も左葉ですし、この子は強運の持ち主かもしれません。先天性無痛汗症でありながら、普通の生活を今までしていたんですから」

「奇跡的ですね」

理都子がそれとなく言う。

横行結腸は損傷部を切除。

「メッツェン」

「モノポーラ」

「それでは抜きます」

「ガーゼ」他の部分が傷つかない様に保護する。
ゆっくりと慎重に矢を抜く。

少しづつ矢が動く。ゆっくりと慎重に矢は体内から離れていく。
肝臓部を抜けた後その部分から血液があふれ出て来た。

「血圧70に低下」

動揺はしない。これも俺には予想していた事だ。

理都子が素早くあふれ出る血液を吸引する。

常見教授はその様子を目にするだけで自ら手を出そうとはしなかった。

「サテンスキー、ブレード」

出血部の血流を止めるため、一次的に血管を結紮(けっさつ)する。

肝損傷部を修復

「モノポーラ、モスキート、サンゼロ・ポリプロピレン。クーパー」

器具出しに付く看護師はオーダーする器具を迅速にかつ正確に選出し執刀医に渡す。

主要な血管を一本一本縫合し繋ぎ合わせる。

損傷した肝臓左葉部を修復。

結紮していた決流を解き放つ。

どす黒く変化していた肝臓の色が次第に元の色を取り戻す。

吻合した血管からの漏れも確認されなかった。


「血圧戻りました」

「それでは横行結腸修復に移ります」

腸をある程度体内から引き出し、損傷部を切除しそれを繋ぎ合わせ再建する

基本外科手術は切り、そして縫い合わせる。その連続だ。

だがその方法は術式において様々な方法がある。その患部、その状態に合わせた適切な手技を行う必要がある。

それを見極め、確実にそして迅速かつ正確に行うためには、やはり経験を積むしかない。


外科医はその経験と手技を磨かなければならない。


修復した箇所を再度確認をする。問題はなさそうだ。

「確認させてもらえますか」
常見教授が術野を覗き込む。

「うん、状態も安定している問題はなさそうですね、田辺先生」

常見教授のその厳しい目をそらすことなく

「ありがとうございます」と答えた。

「それでは閉じます。V-Loc・PBT」

助手に立つ理都子が術野を確保しながら連続縫合で患部を閉じる。

最後糸を切りオペは終了した。

「バイタル、血圧100の70、心拍90安定しています」


「お疲れ様田辺先生」


微笑むように……と言ってもマスク越しだからはっきりとは分からないが、理都子の声を訊いた時、ようやく俺の緊張は解き放たれた。

「ありがとう」そう一言返して俺はオペ室を出た。

グローブを外しサージカルガウンを脱ぎ、悠馬君の両親の元へと向かった。

オペが終われば患者の親族にその経過を報告しなければいけない。いわゆるムンテラというものだ。そして今後の治療に対する説明をする。

悠馬君の場合現状は特別疾患は見受けられなかった。

しかし、先天性無痛汗症という症状は特質な事項だ。これからの経過いわば症状の変化などは実際予測がつかない。

なぜなら、痛みや苦痛を感じないからだ。

手術室の前の廊下の椅子にぐったりとしながら悠馬君の両親は座っていた。

扉が開き俺の姿を見ると「ハット」しながら立ち上がり駆け寄ってきた。

無理もないだろう。我が子が大怪我をして長い時間手術を受けている。その間不安でいっぱいだったんだろう。

「先生、悠馬は……」

母親が今にでも泣き出しそうな声で言う。

「うん、悠馬君頑張りましたよ。損傷した部分も修復できました、問題はないと思います」

それを聞いた母親は今まで溜めていた涙を一気に湧き上がらせた。

俺は父親の方に目線を移し

「ただ問題なのが、悠馬君が持つ先天性無痛汗症です。これに関しましてはこれから経過を見てみない事にはわかりません。どのような形で悠馬君に現れるか、まだ解りえない事ですので」

「そ、それでも悠馬は今、大丈夫なんですよね」

父親が聞き返す。

「ええ、まもなくICUに移動されます。意識ももうじき戻るでしょう。その時お二人とも傍にいてやってください」

「ありがとうございます」

父親は深々と頭を下げ礼を言った。

オペ室から悠馬君を乗せたベッドが出て来た。二人ともそのベッドにしがみつく様にしながら共にICUへと向かった。


その両親の姿を目にしながら、ふと頭の中で……最後にお袋が見せた、あの笑顔が浮かんできた。

やはり俺にはお袋のあの笑顔だけは消す事が出来ないみたいだ。


そのおかげというべきだろうか。

まゆみと出逢えたのもあのお袋の笑顔があったからだった。

でも、二人は俺に同じような笑顔を残していなくなってしまった。

そして、もう一つの笑顔を俺はあえて自分の中に封じ込んだ。そうしなければ今のこの俺はここには存在しなっただろう。


一度、この世界から逃げ出そうとしたのは事実だから……


あの時、医者として、そして人としてすべてを失いかけたこの俺を救いあげてくれたのは、常見教授あの人だった。

当時北部医科大学准教授であった常見孝三郎。

彼は辞表を提出した俺に系列の市病院の非常勤務医(バイト)として数か月間移籍させた。

あの時、彼の所に呼ばれそして出された、あのまゆみが残してくれたノートと共に。

あの数か月間があったからこそ、俺はまた医師としていや外科医として存在出来ている。

人は、痛みを知る事でその痛みの理由を理解する。

そしてその痛みがあるからこそ、成長も出来るものだと思う。

怪我をすればその部分から痛みを感じる。実際には脳がその痛みの指示を出すわけだが、痛みを感じる事によりその部分を保護しなければいけないという行動に移る事が出来る。


だがこの痛みを感じなければどうだろう。


どんなに致命的な怪我をしてもそれに対し、何の自己対処も出来ない。

己を己自信で守ろうとする事さえ出来なくなってしまうかもしれない。

それは体だけではなく心の傷についても言えるのかもしれない。



痛みを知ると言う事は、己を知ると言う事と同じだと、俺は思う。


◆◆◆


「田辺、カルテの整理できたか?」

「すいません、まだできていないです」

「なんだよ何時までかかってんだ」

「す、済みません」

非常勤でこの病院に移籍して数日が過ぎていた。

この病院は大学病院の様に設備はあまり整っていない。最先端の医療機器?そんなものはこの病院内をいくら探してもどこにもない。

医療設備?確かにCTはある。しかしそれもかなり年代物の旧式のものだ。正直まだこんな代物使っているのかと口から出てしまいそうなものだ。

血液検査にしても院内で出来る項目はごく僅か、基本的な項目しか出来ない。その他の項目に対しては外部への委託になっている。

病床数は60症。診療科目は基本内科と外科。と言っても外来で来る患者はそれ以外の病気でもおかまいなし。つまりオールマイティ診療と言ったところだ。

それに対し、設備内容は乏しく医師と看護師の人数も少ない。

まして建物自体かなり年季の入っている……いや、ここはあえて頑張っていると言うべきだろう。よく持ちこたえていると思う。

初めてこの病院に来た時、この中に一歩足を踏み入れるのを止(とど)めてしまったくらいだ。

「初めまして田辺先生。この病院の院長を務めさせてもらっている「松村」です。よろしく」

この病院の病院長「松村正(まつむらただし)」表情は柔らかくそして物腰もとても穏やかな感じを受ける人柄。

「そんなに緊張しなくてもいいですよ」とその外見通りの気遣いを俺にかけてくれた。

「君が常見先生から推薦のあった先生ですか。外科で、ほー救命にいらっしゃったんですね。すごいですね。よっぽど優秀な先生なんですね。あの常見先生がうちの病院に推薦なさるくらいですからね」

「あ、いやそんな優秀かどうかは……」

「いやいや、私と常見先生は医大時代の同期でしてね。彼とは今もよく酒をかわす仲なんですよ」

「そ、そうなんですね」

「彼は大学病院の准教授、そして私はしがない市病院の院長。天と地ほどの差がありますけどハハハ」

松村病院長はにこやかに笑い声をあげる。

しかしこの人は本当に温厚な感じの医者だ。しかも規模は大きくはないが病院長と言うポストについていながらも気さくに話しかけ来る。

「あーそれはそうと、この病院に来た時一瞬迷いませんでしたか?と言うより失敗したと思ったんじゃないですか」

返す言葉がなかった。正直院長の言葉があたっていたからだ。

「田辺先生、ここはねぇあなたがいた大学病院とは違って設備も乏しい、そして医師の人数も少ない。だからこの病院は医師と看護師それぞれのマンパワーで持っている病院なんですよ」

「マンパワー……」

「そう、マンパワーです。でも頭数の事ではなく、技量の事ですよ」


にやりとしながら松村院長は言う。



俺はその時、どえらい所に来てしまったと思った……
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